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5 いびつな箱庭

クルスの背後でパタリと音を立て、扉が閉まる。すぐにそこに鍵をかける。

エルゼリアードの気配が断たれた瞬間――クルスは、肺の底から深く息を吐き出した。思わず額を押さえた隣で、シグレアが怪訝そうな顔をする。


「とりあえず執務室に戻ろう。」

「はい。」


エルゼリアードの居室として使用することになったこの部屋は、王城内の貴賓室のうちの一つだ。部屋の中に一通りの設備が整えられ、一歩も外に出ずとも生活ができるようになっていることが、この部屋をエルゼリアードに宛がった理由だった。

扉の左右にはシグレアと付き合いが長く忠誠心の高い騎士を帯剣させて配し、傍目にも物々しい雰囲気である。そしてその部屋から数部屋先にあるのが、現在執務室として使用している小部屋だった。

もともとは貴賓室付きの小間使いやら執事の控室として設計されていたのだろう、マボガニー材の重厚な執務机と、簡単なもてなしが出来る程度のソファ、テーブルが用意されているだけの部屋だ。それでも部屋の壁一面には書架が並び、天井にはフレスコ画が施され、張り出した窓はわざわざ天井近くまでガラスを組み込まれているなど、庶民上がりのクルスには考えられないほど贅沢なつくりの部屋でもあった。


途中すれ違った仲間に片手を上げて挨拶をしつつ執務室の扉を開くと、クルスはすぐにどっかりとソファに腰を下ろした。部屋には他に誰もおらず、クルスとシグレアの二人きりである。この部屋に入り浸りがちのマルクも今は外しているようだった。

良かった、とクルスは息を吐き出した。とてもここから先の会話は、マルクには聞かせられない。


「……クルス?」

「どう思った? 彼女。」

「王女のことですか。」

「そう。エルゼリアード王女のこと……君はどう思った?」


片手でシグレアにも着席を促しつつ、クルスは息を吐く。心臓は嫌な音を立て、口には苦い味が広がった。


「そうですね。潔いお方とお見受けしましたが。」

「潔い、ね……。」

「あなたの意見は?」


クルスは組んだ手に視線を落としながら、言葉を選んだ。


「潔い、というか……彼女はなにもかもに興味がないんじゃないかと感じたよ。あるいは、あまりにもひどい目に遭いすぎて、心が麻痺しているのかもしれないって。」

「どういうことでしょう。」

「彼女、言っていたよね。自分のことは好きなようにしていい、殺されても文句は言わないって。あの時の彼女、笑ってた。ぞっとしたよ……。」


どれだけ踏みにじられれば、あんな子供が育つのだろうか。自分を傷つける可能性の高い相手を恐れもせず、己がどういう目に遭うかにも興味がない。家族の死もごく当然のこととしてしか受け取れない。


「ですが心無い人物とは、見受けませんでした。」

「そうだね。僕もそこは同じ意見だ。話している間、すごく――そう、楽しそうに見えた。」


そのときだけはまるで年相応の少女のようだった。痩せこけて、身も心も傷だらけの哀れな王女が、輝くような笑顔を浮かべたことが強く印象に残っている。クルスはふう、と息をつき、シグレアを見た。


「君はもう、あの王女を主にすると決めたんだね。」


先ほどの誓いは、主に捧げる騎士のもの。クルスの前に現れた時のシグレアは、あんな誓いは立てなかった。

なぜならクルスとシグレアはあくまでも同志であって、主従ではないからだ。


だからこそあの言葉の持つ意味は重い。


「どうして彼女を?」

「……さあ。自然と、そうすべきだと思いました。一時的な意味での護衛ではなく、あの方のお命を守るべきであろうと。」

「なんというか……シグレアにしては珍しく、直感頼りというか。」

「あの目が、」


シグレアがすうと瞳を細めた。氷の色をした瞳が思い返すように瞬きをする。


「王女のあの目。最初にお会いした時のあの目が、忘れられませんでした。」

「地下でお会いした時の目か。」

「ええ。」



王女が発見されたのは、この城の地下。

おそらく王族が逃げる際、一時的に身を隠すために用意された部屋だったのではないか。この執務室よりも一回りは小さな、石造りの部屋だった。


何もない、というのがクルスの感想だ。どこもかしこも悪趣味なまでの煌びやかさだった城内で、ここだけはあまりにも不釣り合いにひっそりとしていた。

もちろん王城の一角、どこまでいっても庶民が暮らす家よりは恵まれたつくりをしている。だが地上の部屋と比べてしまうと、違和感だけが膨れ上がる。

隠された地下の部屋に用意されている調度は僅かにベッドと、椅子。そしてテーブルだけ。壁は剥き出しの石でできていて、テーブルの上には空になった皿だけが置かれていた。光は僅かに、壁にかけられたランプが放つ炎だけ。クルスは己が手にしていたランプを前にかざした。


炎が揺れる。ベッドの天蓋の下に、小さな影が見えた。長い黒髪の少女だった。

長い黒髪は結い上げあられることなく無造作に零れ、薄汚れた洒落っ気のないドレスに長く影を引いている。

その隙間から、小さな手が見えた。どうやら少女は、こちらに気がつく風もなく己の手を見つめているようだった。細すぎる手首にはぐるりと一周、何かが刻み込まれている。――後から知ったが、それは奴隷に施すものと同じ刺青だった。


『……あなたは、』


クルスが漏らした言葉に肩を揺らして、少女が静かにこちらを振り向く。


クルスは息を呑んだ。現れたのは、あまりにも透明で温度のない、こちらを見ているのか見ていないのかすら定かではない目。

痩せ細った彼女の大きな瞳に囚われた瞬間、クルスは崖の淵に立たされたような悪寒を感じた。自分が見てきた地獄と同等か、それ以上の何かを知る目だと直感した。


あの現場にはシグレアもいた。シグレアもまた、何かを感じたのだろうか?



「あの牢獄で、あれだけの目に遭ってなお壊れなかったあの方の心に触れてみたいと。――おかしいですよね。王女に気圧されたんですよ、私は。あんなにお小さい方に。」

「……。」

「あの時にはもう、決めていたのです。どちらにしても彼女には護衛が必要でしょう? その役に、私以上の適任はいない。そうですよね、クルス。」


シグレアは不器用な男だった。

二枚舌のような芸当ができる性格ではないからこそ、国王の忠実なしもべとして村を滅ぼし民草を斬りもしたし、国王を見限ってから先はかつての仲間を同じように斬った。もっとうまいやり方もあっただろうに、シグレアという男には決定的に賢しさというものが欠けている。

それが分かるからこそ、クルスはシグレアのことを信用していた。国王軍から離反してきた貴族階級の騎士――そんな肩書きなど霞むほどに。


彼は誓ったことは必ず実行する。口にした通り、命に代えてもエルゼリアードを守るだろう――たとえばこの先、もしもクルスが敵にまわることがあったとしても、ためらうことなく。


「そうだね。君以上の適任はいないだろう。

いつか誰もがこの国の王のことを忘れてくれたら――その時こそ彼女は自由に生きられる。それまで、彼女を守れるか?」

「もちろんそのつもりです。剣に誓って、必ず。」

「頼むよ。友人としてお願いしたい。」


クルスは祈るように目を閉じた。


「エルゼリアード王女を見ていると、妹を思い出す。僕はあの子を殺したくないんだ。」


それはとても他の相手には伝えられない、懺悔だった。シグレア以外にはとても告げられない。


「分かっています。私とて、そう思いますから。」


(民も、仲間も裏切り、殺した私ですら。)


勇者として生きることを選んだクルスの、ささやかで、しかし国民からすれば裏切りにも等しい願いを、シグレアはそっと己の心の中にしまった。



※ ※ ※ ※ ※



数日が経った。


「エルゼリアード様。お味はどうですか?」

「どうって……よく分からない。」


ベッドの上に半身を起こした状態で、静かにスープを掬いながら口に運ぶエルゼリを、エマとシグレアがじっと見つめている。

固形のものを食べなれないうえ、内臓が弱っていると診断されたエルゼリには、一週間の間、とろとろに煮込んだ粥やスープが出されることに決まった。一度に多くを口にできないため、これらの食事を一日に五回ほどに分けて食べる。

エルゼリ自身まったく自覚がなかったが、体は栄養失調一歩手前まで追い詰められていて、まずはこれを解消するところから治療を始めることになったのだった。


今日のスープは、ニンジンを煮込んだポタージュ。甘い香りが鼻先を漂うが、口に含んでもエルゼリには味が分からない。塩気や胡椒の刺激は分かるが、それが味として認識できないのだ。あまりにもエルゼリには慣れたことだったので、そのことをエマに告げたらすごい顔をされた。以来、エマは食事のたびにこれを聞いてくる。


「そのうち味が分かるようになるかしらね。」

「……ええ、きっと。」


エマが悲しげにため息をつくので、エルゼリはとにかくさっさと食べ終わろうと口に匙を運び続けた。




「ご馳走様。もう食べられないわ。」


随分長い時間をかけ、ようやく皿を一枚からにして、エルゼリは匙を置いた。お代わりが用意されていることは知っているが、とてもそれを口にすることは出来そうにもない。

エマは頷くと手早くエルゼリの襟元からナフキンを外し、銀盆に乗った皿を片づける。

それを眺めながら、エルゼリは静かにため息を吐き出した。ベッドの上で過ごす日々は、これまでの生活とは比較にならないほど穏やかだった。


「私だけがこんな風にしていていいのかしら。」


王が排除されたこの国は、まだ混乱のさなかにある。勇者クルスを中心に法を定め、議会を設置し、ゆくゆくは共和制に移行していくことになるらしいとは聞いているが、安定するまでは時間がかかるだろう。


「あなたの仕事はまずは体を休めることですよ、エルゼリ様。」


取り上げた銀盆をカートに載せなおしながらエマが言う。


「ぐうぐう寝て、ご飯を頂いてお世話をされるだけ? あなただって、シグレア様だって働いているのに。……まあ、私にできることなんてそうないけれど。」


突然名前を出されて驚いたのか、シグレアが目を見開いた。そちらの方を見上げてエルゼリは「そうでしょう?」と首を傾げる。シグレアは言葉を選ぶようにしながら口を開いた。


「先ほどエマ殿もおっしゃったとおり、あなたの仕事は体を休めることです。当面はまず、固形物を食べられるようにすることと、お一人での移動に不都合がないように歩ける程度の体力をお付けいただくこと。」


いずれは北の山脈に行かなければならないのだ。それは分かる。


「そこに異論はないけど。……ねえ、私別に一人でここから出て行ったり、勝手に死んだりなんてしないから、少しくらいあなたたちも外に出てきていいのよ? あなたたち、ずっと休みなしじゃない。私が起きてるときはずっとここに居るでしょう? 窮屈じゃないの?」

「エ、エルゼリ様、あまり縁起でもないことを言わないで下さいよ……!」

「やだ、もののたとえよ。クルス様がお命じになっていることでも、私からお断りさせていただくこともできると思うの。」

「いいんですよ。私は。もう帰る家もありませんから。」


きっぱりとエマは言い切る。――かつてエルゼリの元を去った後のエマは、その足で実家を出、ここよりも北の町で雑用をして暮らしていたそうだ。実家のカスペン家はその後、国王によって取り潰しの憂き目にあったが、結果として彼女を含め、カスペン家の人々は散り散りになりながらも命を奪われることはなかった。

何が幸いとなるかなど、後になってみないと分からないことだ。エルゼリには想像もつかないほど苦労を重ねたに違いないが、それでもあの時彼女を手放せてよかったと思う。狂った王と王妃の傍にいて、無事でいられた保障など全くない。今こうして再会するために別れたのだと思えば、あの行動がちゃんと実を結んだのだと思える。


エマは煌めく緑の目を愛しげに細めた。


「あんな風に突然押しかけましたのに、エルゼリ様のお側にお仕えできるだけでも大変な幸せですわ。おまけに続き間においていただけているので、お仕事もとてもしやすいですし。

エルゼリ様、私はエルゼリ様のお側に居させていただくためにお仕事を引き受けているのですよ。目的が逆なんです。だから暇を出そうなんて絶対におっしゃらないでください。死ぬだなんて冗談でもダメです。私、大泣きしますわよ。」

「そう……? シグレア様は?」


エマはまあ、付き合いの長さもあるし気心も知れているから、返答を含めて想像内ではあったが、それではシグレアはどうなのだろう。

エルゼリの問いかけに一瞬目を見開いたシグレアは、ああ、と頷いた。


「私はあなたのために命を捧げると決めていますから。」


しれっ、と告げられた一言に、開いた口が、塞がらなくなった。

それはもうきっぱりと、まるでそれが当然のことのように答えたシグレアの顔を見ていられず、エルゼリは思わずうろたえた。涼やかな瞳が少し緩むだけで、近寄りがたい美しさは一気に様相を変えてしまう。

まずい。真面目一辺倒のシグレアにまったく他意がないことなんて分かっているのに顔が熱い。

片手で頬の引きつりを隠しつつ、エルゼリは誤魔化すような笑みを浮かべた。


「えっと……?」


黙れ、という意味でごまかしの微笑みを浮かべたつもりだったのだが、それをさらに説明せよ、という意味と勘違いしたのだろう。シグレアがこれまたあまりにも当たり前とでも言うかのように、迷うことなく先を続けた。


「主の身辺に侍り、危機の際には必ず主をお助けするのが騎士の役目。今の私は、エルゼリアード様をお守りするためにいるのです。可能な限りにおいてお側に仕えるのは当然のこと。

もしもあなたに危険が迫ることがあれば、私は私の命の限り、あなたをお守りします。誰にも触れさせたりなどしません。」


言葉にはまったく迷いもよどみもない。女子二人は引きつりながらも顔を見合わせた。なんという破壊力。そういう意味じゃないなんてことが分かっているから誤解もないが、それでも真顔で言われたら恥ずかしい以外の何物でもない。


「……その言葉、本当に素で言ってるんだから恐ろしいわ……。」

「私もそう思うわよ。」


ぼそりとエマがこぼした一言に、エルゼリも同意する。顔の美しい男が臆面もなくこんなことを言いだすと、気障を通り過ぎて絵になりすぎてしまうので本当に始末に負えない。ジョークにもならず、笑いにもできない。つまるところただただ心臓に悪いだけである。


エルゼリは深々とため息を吐き出してから、シグレアを睨み付けた。


「お願いだから人前でそういうこと言い出さないでね。」

「何か問題がございましたか?」

「どう考えてもその台詞、誤解されるから。あなたの頭の中には恥ずかしいって言葉はないのかしら……。」

「は……?」

「ないのね。そうなのね……。」



時間は滑らかに過ぎていく。

王族として生まれながら、王族として認められず、奴隷のように生きていたエルゼリと、騎士シグレア、侍女エマ。年齢も、ここに至る経緯も、立場も、なにもかもがバラバラの三人。

しかし、三人だけの箱庭は、不自然なほどに平穏そのものだった。


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