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しんと静まり返った王女エルゼリアードの部屋に、数名の男が集まっていた。シグレア、クルス、マルク。そして反乱軍に医師として随行してくれていたスファルド医師の四名だ。腰骨の曲がった、既に老齢と言ってよい年齢のスファルドは、しかし患者の命がかかっている場面では歴戦の古参兵よりも余程恐ろしい。清濁を知り、医療術に長け、政治や思想よりも患者の命を間違いなく優先する人物。王女を診療させるのにこれ以上の人物はいない。


取り乱したシグレアに追い立てられて遣いが走らされた。城下の一角で戦傷者の治療に当たっていたスファルドは、呼びつけに「せっかちな奴じゃのー」と言いながらも城にやってきたが、寝台に横たわる王女を見た途端に血相を変えた。

今度はシグレアが使いっぱしりにされて、部屋の監視を務めていた騎士や兵士らとともに湯を沸かしたり氷を用意したりと散々に使われる羽目になったがそれも仕方のないことだろう。シグレアにも否はなかった。

なにせ相手は王女、いずれ死なれる分にはともかく、今ここで命を落とされては困る。――もちろんそれは体面の話で、結局のところシグレア自身が、いかにも虐待を受けてきたとしか見えぬ小さな子供を放っておけるような性格の持ち主でなかったということの方が理由としては大きかった。

詳細を教えられていなかったスファルドもその点は同じだったろう。すぐさま王女の胸に聴診器を当て(いきなり服をひん剥きだしたので、シグレアは他の騎士たちともども慌てて後ろを向く羽目になった。)、細い腕に針を刺し、王女の全身を検めはじめた。


……数分後には、王女の部屋での騒動は執務室にとどまっていたクルスに届いた。当然だ、なにせ部屋としても幾つも離れていない位置にあるのだし。騎士どもが廊下をバタバタ走り回っていれば当然そうなる。

慌てて駆け付けたクルスとマルクは、部屋を忙しく出入りする男らを呼び止めて「王女が倒れた」というところまでは確認ができたものの、いざ部屋に踏み込んでみればスファルド老に一喝されてしまった。

「乙女の裸を見るなどもってのほか、わしが許可したつかいっぱしり以外は処置が済むまで部屋に入るな」と厳命されてしまい、ようやく部屋に入れたのは一時間後のことである。


今は既に応急処置が済んだ後らしく、寝台の上にはスファルドの持ち物らしきさまざまな道具が銀のトレイに載せられた状態で置かれている。眠る王女の体は、大きなベッドに半ば埋もれてひどく小さく見えた。

呼吸は静かで、ぐっすり眠っている様子が傍目にも分かる。だがぎょろりと大きな目が閉じられたことで、落ちくぼんだ眼窩が酷く目立った。こんなに幼い子供が……と思うと、立ち会う面々の心は三様に痛んだ。


「彼女の具合はどうです。」


シグレアが口を開いた。普段は凍り付いたように表情を変えることの少ない男だが、さすがに己が触れた瞬間に目の前で気を失われたとあって、男にしては白い顔がさらに青ざめている。


「そうさな、単純に疲れが出たんじゃろうなあ。見たところ胃も小さいし、飢えには慣れとるようじゃ。いきなりこんなことになって、バランスが崩れた……というところかねえ。」


長いひげを擦りながらスファルドが言う。

血流の乱れや心音の乱れ、肺の音の異常がないこと。鉄分が明らかに足りていないこと。体格は未発達で、本来起きているはずの性徴が発現しておらず、見た目の肉体の年齢だけで言えば十歳がせいぜいだということ。


「幸い病ではなさそうだし、その点は心配せんでもええ。しかしなあ。下手をしたら王都の孤児院の子供の方がよほど発育がいいわい。胸も腹もペタンコ。これだけやせ細っていちゃあなあ……。」


診察のためにドレスは僅かにはだけられていた。襟ぐりの紐を解かれ、鎖骨の少し下まで白い肌が露わになっているが、そこにはくっきりと赤い幾つもの傷が浮かび上がっていた。熱が上がったことで血流が良くなり、目立ってしまうのだろう。どれもこれも、どう見たところで第三者に痛めつけられて刻まれたもの。

それでも彼女の肌は青ざめた色のままだ。「日に当たってない上に、血が足りておらん。とにかくこの状態で雪山なんぞ連れていくのは無理じゃて」とスファルドは唸った。


「どの程度の期間、静養が必要になりますか?」


病によるものではないと聞いて少しばかり顔色を戻したシグレアが再度スファルドに問いかける。うむ、とまた顎を一撫でしたスファルドは、そうさな……と考えてからこう答えた。


「このお嬢さんの体力しだいというところはあるだろうが、少なく見ても半年は。心身ともに根こそぎ弱っておる。内臓の方も気になるのお。きちんと動くようになるまでは時間がかかるもんじゃ。……遅れた発育の分まで取り戻す、という話になるなら年単位の話になるじゃろうて。これまで随分な目に遭っているようだし、心と体のバランスが戻らぬまま一生を終えることもありうる。そのくらいの状態じゃな。」

「そんなに……?」


マルクが絶句した。


「人間が一番残酷に人間を傷つけることが出来る。そういうことさね。……まあ栄養剤も入れておいたし、二、三日眠れば目を覚ますじゃろう。後のことはそこから考えればよろしい。それよりも、」


喋りながらあらかた出していたものを片づけ終わったスファルドが、小さな背を伸ばすようにしてクルスを見上げた。腰のまがった老人ではあるが、スファルドに耄碌という言葉は遠い。自然とクルスの背筋も伸びた。


「女の医者に当てがないし、我らが軍にもそういう者はおらんからな。診療はわしが見るしかないにしてもじゃ。侍女でも雇わんことには、このお嬢さんの世話に困るんじゃないのかい? 着替えにしても湯あみにしても、お前さんたちじゃ役にも立たんわ。それでなくとも、嫁入り前の若い娘っ子が医者でもない男どもに肌を晒したとあっては、いらんショックを与えるだけじゃて。」


どうにかせんかい、と言い放ったスファルドに、クルスももっともだと頷いた。老翁のご忠告は、確かに過去おしゃまな妹を持っていた兄には理解できる話だ。


「おっしゃる通りですね。……なんとかしましょう。」



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



結論から言えばクルスが手を打つよりも先に、侍女の件は解決した。

王女のうわさを聞き付けた女が一人王城にやってきた。王女が倒れて二日後のことだ。


「すみません! 王女は――エルゼリ様はどこに!? どこにいらっしゃるの!?」

城門の警備に当たっていた反乱軍の兵士に臆することもなく噛みついた女は、すぐにクルスの許へと通された。




「エルゼリアード王女のことをどこでお知りに?」

「申し遅れまして……私はエマ・ユール・カスペンと申します。数年前に、エルゼリ様の許で侍女をしておりました。その時の契約書もお持ちしました。」

「成程……本物みたいだね。」


王冠を模した印が押された書類には、複製が出来ないように特殊な用紙が使われることになっている。魔法で施された透かしを確認し、クルスは先を促した。


「……勇者様がこちらの王城を制圧した際に、エルゼリ様を発見されたという噂を耳にして、どうしても一目お目にかかりたいと……。」


エマが言葉を詰まらせる。粗末な衣服に身を包んではいるが、彼女は恐らく貴族の子女だ。ちょっとした所作や言葉の違いからクルスはそう感じ取る。

しかし彼女の身なりはかつてのクルス以上に粗末だった。靴は泥にまみれボロボロで、手にした旅用の革袋も汚れている。手指が荒れているところを見ると貴族位を捨てるなりなんなりして市井で生きていたのだろう。そうして噂を聞き、慌てて飛び出してきた。そんなところだろうか。


殆ど確信を抱きながらも、クルスはエマに重ねて問いかけた。


「どうして彼女の許を去ったあなたが今になって彼女を訪ねようと? ……失礼かと思いますが、あなたは自ら王宮を去ったのでしょう?」


クルスの言葉に、エマが顔を上げた。見開かれた目は震えている。青ざめた顔のままでエマは叫んだ。


「エルゼリ様に……エルゼリ様に懇願されて、どうして断れましょう!」


ぶわっと緑の瞳から涙がこぼれる。ひたすらに悔しい、口惜しいとばかりにエマは拳を握りしめた。拳の上には痛々しいほど真っ白に骨が浮かび上がる。


「出ていけと命じられたのです。これ以上この場所にいても、命が危ういからと。エルゼリ様は私のことを随分と心配してくださって……あの時おそばを離れなければ良かったとどれほど後悔したか。私ではあのお方をお助けすることもできなかった。まだとてもお小さかったのに……!」


それきり言葉もない様子で俯いたエマを、クルスはじっと観察した。おそらく彼女ならば大丈夫だという確信があった。きっと彼女はエルゼリアードを裏切らない。

これが一番重要で、しかも今のこの国では一番難しい条件かもしれなかった。反乱軍にも女性は何百人と在籍しているが、彼女らは一様に王族憎しで結束してきた仲間ゆえに、エルゼリアードの世話を任せるには不安の残る相手である。では他の国民から――となっても、こちらも事情があまり変わらない。弱りきり、抵抗する術を持たない現在のエルゼリアードを安心して任せられる女性、という条件自体が酷く難しいものになってしまっていたのだ。


そんな中、エマがやってきた。渡りに船だ。少なくともここまでの話で、エルゼリアードとエマの間にはクルス達の知らない深いつながりがあるのだろうと思えた。隣で話を聞いていたマルクも頷く。


(王女の反応を見れば真偽はすぐに明らかになるだろうしな。)


ここまで何百、何千もの軍勢を率いてきたクルスの目に狂いがなければ、その必要もなさそうだが。


「分かりました。では案内しましょう。エルゼリアード王女の身柄は僕たちが確かにお預かりしています。」

「…………は、」


ひゅう、とエマが息を吸い込む音がした。


「エルゼリアード王女の傍付きを用意しないとならない状況になっていたのです。ですが僕たちの中から選ぶのは、エルゼリアード王女のお命のことを考えた時に、リスクが高い。お願いできますか、エマさん。」


クルスの言葉に、はじめは信じがたい、という表情を浮かべたエマは、しかしこちらの言葉が嘘ではないと感じ取ったのだろう。眼を見開き、はい、はい、と何度も大きく頷き、涙をこぼした。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



エルゼリ様、エルゼリ様。しっかりなさってください。


誰かがエルゼリを呼んでいる。


(……誰?)


優しい女の声だ。聞いたことのある声。こんな風に優しく話しかけてくれる人なんてこの城には居なかった。少なくともエルゼリの知る限りは。


いや、かつてはいた。エルゼリが遠ざけた。己の傍に仕えた何人もの女性達。その中でも一番親しくしていた女性の名が、ポロリと口をついた。


「エマ……?」

「エルゼリ様……!」


薄く開いたエルゼリの瞼の向こうで、金色の髪の女がわっと泣き崩れ、倒れ込んでくるのが見えた。


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