2 鳥籠の中の元王女
エルゼリ、消耗中。
あのあと、引きずられるようにして王城の一角に閉じ込められたエルゼリは、居心地悪くベッドの上に腰かけていた。手首には鉄の魔封じがはめられたままだが、その間を繋いでいた鎖は外されている。お蔭で先ほどよりも余程楽だ。こんなに楽でいいのか、と思うくらいに。
広間を去るまでは乱暴に扱われていたエルゼリだが、人目がなくなるや否や騎士の一人に横抱きにされ、あっという間にこの部屋へと閉じ込められた。騎士は二人。一人はエルゼリを部屋の入り口に下ろすと「失礼」とだけ断ってさっさとこの場を去っていき、もう一人は「すぐに着替えや食事を用意するので、しばらく待て」と言い置いて、鎖を外すとこれまたさっさと部屋の外へと出ていった。
すぐに外側から鍵をかけられた音がしたが、そういう扱いに慣れたエルゼリとしては、気にもならなかった。むしろかけてもらってよかったくらいかもしれない。鍵に閉ざされた部屋の中ならば安心だ。今この国の国民と顔を合わせでもしたら、エルゼリとて無事では済まないだろう。
(まあそれでもいいんだけどね、私は……。)
すべては始まった瞬間に終わっている。
この世界――『フェイタル・フォーマルハウト』の世界は、戦略シミュレーションゲームの世界だった。プレイヤーが自軍のキャラクターを操作して、マップを移動し、敵を倒していく。詰将棋のようなゲームと言えばいいだろうか。あるいはチェスのような。
勇者の名前は確かクルス、と言ったはずだ。なんとなく十字架のような、聖なるものをイメージさせる名前だと思う。この世界にはもちろん十字架はないけれど。
内側から鉄釘で格子を取り付けられた窓に視線を向けながら、エルゼリは勇者のことを思った。プレイヤーにとっては分身。しかしエルゼリの目の前に現れた彼は、まぎれもなく人間だった。
生きた人間。もちろんエルゼリもそうだ。この世界に生きている数多の人々も。
しかし突如エルゼリに流れ込んできた知識は、この世界が『フェイタル・フォーマルハウト』の世界であることをこれ以上ないほど突きつけてきた。妄想だと思いたかったが、恐らく事実。何しろエルゼリが知る限りのシナリオと、この顛末が恐ろしいほど一致しているのだ。登場人物の行動、発言。これまでの経緯。王と王妃が殺されてエルゼリだけが生き残り、北の山脈に幽閉されるという結末まで。
せめてこの記憶がもっと前に判明していたら。そうすれば少しは状況を変えることが出来ただろうか。あの父と母を説得し、こんな戦が起きるよりも前にその芽を摘むことが出来ただろうか。たらればの話をしても仕方がないことは承知してはいるが、それでもエルゼリはそう思わずにはいられなかった。
しかし、全てはもう終わっている。そしてエルゼリはどんな記憶を思い出しても、エルゼリでしかない。もしも随分昔にこの記憶がよみがえっていたとしても、きっと父と母を改心させることはできなかっただろう。彼らにこそ、エルゼリは一番疎まれていたのだから。会話さえままならぬ相手に改心を促す――ありえない。
(だいたい、どうやって説得すればよかった? あなたたちはこのままだと殺される。すぐにでも散財をやめて民衆のために生きろ、とか? 私は未来を知っている、言うことを聞かないと天罰が下って酷い目に遭うわよ、とか?)
どれもこれも荒唐無稽あるいはちょっと危ない妄想のような説明にしかならない。これでは確実にダメだ。しかももしもここが本当にエルゼリの知るゲームの世界だとしたら――悪役は悪役の座を降りることが出来たのか? という問題もある。
いやいや、そもそもゲームはゲーム、この世界はこの世界、かもしれない。登場人物もシナリオもそっくりそのまま……とはいえ確かにエルゼリは生きている。痛みを感じ、傷つきもし、今は疲労からこれ以上動く気力もない。父も母も確かに目の前で断末魔の悲鳴を上げて死んだ。
これがすべて幻? 作り物? ……そんな馬鹿な。
「……っ、」
あの生首を思い出しそうになって、エルゼリは軽く頭を振った。
過ぎてしまったことはもう仕方がない。それよりも今は、己がなにをどうすべきかを考えるべきだ。もちろん閉じ込められたままで出来ることなどたかが知れている。見たところ部屋の中には暇を潰せるようなものはないし、せいぜい考え事くらいしかできないだろう。
だが今はそれさえ億劫だった。疲労にも空腹にも慣れたものだが、気持ちが落ち着かないのだ。この部屋が広すぎて、豪奢に過ぎることが原因だった。あまりにもこれまでの住環境と違いすぎる。
足が沈み込んでしまうほどにふわふわしたカーペット(うっかり足を取られて転んだ時も全く痛くなかった)、どこもかしこも繊細な彫刻を施された調度品。ものによっては彫刻だけでは飽き足らず、宝玉を嵌め込んだり金箔を貼り付けたりまでしているようだ。窓から差し込む日差しで部屋の中全体が光って、眩しさに慣れないエルゼリを困惑させた。
(キラキラしてる。暖かそう。)
燦々と輝く日差しは冷たい冬の終わりを思わせた。
そう言えば日差しの下を歩いたことなんて、これまで何度あっただろう。かつては優しい侍女も居て、両親の目を盗み庭に連れ出してくれたりもしたが、王や王妃の目を盗んで抜け出すのは難しく、もっぱら夜半過ぎだった。
戦が激しくなった頃には彼女らも一人また一人とこの城を去っていった。エルゼリの説得の結果だ。幸せでいてくれればいいけれど。
(どうなるのかな、これから。)
『フェイタル・フォーマルハウト』は玄人向けながらそこそこ売れたゲームだった。しかし続編などは作られなかったようだ。当然舞台の幕が下りた後の知識は、エルゼリにはない。
少なくとも――北の山脈に幽閉されることだけは、確定しているのだろう。エンディングで語られているのだからそれは間違いないと思う。その先のことになるととんと見当はつかないが。幽閉先で凍死でもするのか、はたまた向かう道すがら殺されでもするか。どちらにしてもあまりよい想像は出来そうにもない。
エルゼリ自身は赴いたことはないが、マレイグという土地は霊峰連なる寒さの厳しい土地で、山頂と言わず山全体に魔力を含んだ猛烈な吹雪が年中降り注ぐ場所と言われている。
だが、意外にもエルゼリは幽閉されること自体には不安を感じていなかった。この城から出られる、それも生きたまま。むしろ今までよりも余程いいのではなないだろうか?
凍えるほど寒さの厳しい土地だったとしても、途中で命を落とすかもしれなくても、ただ道具のように他人の思考を読まされ続けるような生活よりはマシだ。
(ま、先のことはおいおい考えよう……今考えたってどうしようもないし。)
割り切り慣れたエルゼリは、この時もこうして己の気持ちを割り切った。少し気持ちが落ち着いたら、疲労がさらに身に堪える。
ことんとベッドの上に倒れ込み、天蓋の上へと視線を向けてみた。そして、呆れた。なんと部屋の天井どころかそんなところにまでフレスコ画が施されているのに気がついてしまったのだ。眩暈がする。
だが呆れも、夢のような寝心地の前では無力だった。沈み込むようなマットレスの感触にエルゼリは陶然とする。呆れは流され、身に染みた疲労がほどけた。なんて素晴らしい寝心地なのだろう。まるで雲の上にでもいるみたい。もちろんエルゼリは雲の上に行ったことなどないから想像の中の話だ。
ふわあ、とあくびが漏れた。ふかふかの柔らかなマットレスに吸い込まれるように、全身が重くなっていく。思考もどんどんおぼつかなくなっていく。
フレスコ画は静かにそんなエルゼリを見下ろしていた。天使が羽を広げ、空を舞う絵だ。調度へのこだわりもここまで来るといっそ病的である。
(そりゃあこれだけ散財していたら、いくらお金があっても足りないわよね……。)
馬鹿な母。そしてその我儘を咎めもしなかった愚かな父。
音にまつわる魔法を得意とするエルゼリは、何度も何度も王が捕えてきた間者やら農民やら反乱軍の兵士やらの記憶を覗き込んできた。そのたびに、彼らは一様に心の中で叫ぶのだ。この愚王め、と。
言われて当然だ。王城の規模を知らぬエルゼリではあるが、この部屋だけでもどれだけ金がかけられているのかを察することはできる。数多ある部屋のすべてがこの調子であれば、当然税を絞り取られた国民は困窮することだろう。しかも国内で生産できないような目新しいものばかり、ということは金はすべて他国に流れてしまったわけだ。王の散財によってより一層国は困窮していく。悪循環――。
その時、コンコン、と音がした。鍵を開ける音がして誰かが入ってくる気配がする。閉じかけていた瞼をようやっとこじ開けはしたが、全身を包む倦怠感には抗いがたい。
起き上がるだけの気力もないエルゼリは、横たわったままで近づいてくる相手の気配を確かめる。先ほどの騎士のうちの一人だとすぐに分かった。足音はカーペットに吸い込まれてしまって聞こえないが、先ほどと同じ音がする。甲冑が擦れる金属音だ。鈴の音のようにも聞こえる。
確実に手練れと分かる無駄のない動きに合わせて、その音も近づいた。
「エルゼリアード王女。よろしいですか。」
よろしいもなにも、答える言葉を持たないエルゼリは、起き上がることもせずただ頭と視線だけを横たわったままでそちらに向けた。……誓って怠惰な気持ちからではない。とてもじゃないが起き上れるような状態ではなかったのだ。体の方は睡眠を欲しているようでこれ以上言うことを聞いてくれそうにない。
「……。」
横倒しになった視界のまま、視線がぶつかる。氷の色をした温度のない瞳がこちらを見ていた。
一分の隙もなく撫でつけられた銀色の髪に、揃いの色をした鎧。先ほどエルゼリの頭を床へと押し付け、広間を出た後は一転、エルゼリを横抱きにし、こちらにエルゼリを置いた後はすっといなくなってしまった騎士その人だった。名前は、と考え記憶を探れば、至極あっさりとその答えに行き着いた――もちろんエルゼリはそれを口にしたりはしない。
彼は起き上りもしないエルゼリを責めることもなく、静かにしゃがみこむと、淡々と口を開いた。
「シグレア・アルフレド・バルディスと申します。先の無礼については釈明をいたしません。必要なことでしたので。」
「……そう。」
辛うじて声が出た。掠れた酷いものだ。おまけに小さい。しかしシグレアの耳には確かに届いたようで、彼の目が僅かに見開かれたのが見えた。驚かれる理由が一瞬分からなかったエルゼリは、しばらく考えてようやく思い至る。反乱軍を相手に口を開くのは、これが初めてだったのだと。
シグレア・アルフレド・バルディス。
見目麗しく、能力も高い。馬を駆り、剣と槍を使い分ける凄腕の騎士だ。
クルス率いる主人公軍の中でもかなり初期に仲間になるユニット。元はこの国の騎士だが、ある時突然、何度となく下された国王の命に背き、反乱軍に下る。
反乱軍の中には彼に家族を殺された者も多い。恨みも多く買っている。口が悪いわけではないが言葉の選び方が不器用で、ゲーム内でも何度となく他のキャラと激突する。冷たい性格というわけでもなく、むしろ性根は熱い。しかし氷を思わせる麗しい見た目と、言葉のそっけなさ、無駄を嫌う愚直な性格とが重なった結果、他人との間には距離がある。
脳裏からようやっと取り出したパーソナル情報は、確かに目の前の男と合致しているようだった。だが――次の行動まではさすがのエルゼリも予測しえなかった。
「具合は。食事と湯あみの用意をさせていますが……。」
えっ、と思う間もなかった。
失礼、と言って手が伸びてくる。
普段だったら断じて触れさせたりなどしなかっただろう。エルゼリは触れた相手から音を拾うことで、相手の記憶を読んでしまう。もちろん今は両手にぶら下がる鉄の輪が魔力の放出を押さえてくれているからそんなことにはならないだろうが、身に染みた反射というものはどんな状況でも出てしまうものだ。
だがこの時エルゼリの方はとうに通り越した限界のその先まで来ていた。拒否することも、ましてや逃れることも、悲鳴を上げるようなこともできなかった。あっという間に相手の手が額に触れる。
(あ。)
人の手が触れてくるなんて、いつ以来だろう――。
ぴとりと触れた生身の皮膚がしっとりと冷たくて、エルゼリは思わず目を閉じた。
「……!」
瞬間、シグレアの目が大きく見開かれたが、エルゼリはそれを見ることもなく気を失った。体の方が限界を迎えてしまったのだ。すぱりと糸が断たれたかのように意識を失った王女を前に、シグレアが慌てて立ち上がる。
「医者を! すぐに呼べ! 早く!」