33 街道の終点
前日の宿を後にして、針葉樹の森を抜け、山の裾をなぞるように進むこと半日。
道を抜けた先がぱっと開けた。山に囲まれるようにして佇む町の姿が見える。町、と言ってもかなり規模は大きい。町を中心に、いくつもの街道が交わっている様は、規模は違えど王都ファルマーナの付近とよく似ている。
今までは殆ど他の馬車を見かけなかったのに、町が近づくにつれ、合流してくる街道の方からやってくる他の馬車とすれ違うようになった。これまでもたまに他の馬車とすれ違うことはあったが、その比ではない。行商と思しきものもあれば、なんとなくエルゼリらと似たような出自を思わせる馬車もあった。エルゼリはそれを窓からじっと眺める。
人通りもある。王都よりも幾分涼しい風に旅装を躍らせる姿が、いくつも馬車の後ろに遠ざかって行った。
行く先にあらためて目を凝らす。山と山の間に抱かれるように広がる町が、だんだんと近付いてきていた。石組みの家。あまり高い建物はないようだ。中央の辺りには小さな砦のようなものがあり、四方はファルマーナと同じように、壁に囲まれているようだった。
「こんなに広い町、久しぶりね。」
馬車の車窓から町の方を眺めたエルゼリが感想を漏らすと、シグレアが同意した。
「王都ファルマーナほどではありませんが、かなり大きい町です。ここが街道の事実上の終点ですから。」
「終点? この先は?」
「もちろん道は続いていますよ。ただ、人の行き来はこれまでよりも少なくなります。この先は山が続くこともあって、人の出入りが少ないんです。――これがソドムアの地図です。少しだけごらんになりますか。お見せしたことはありませんでしたよね。」
差し出された紙を受け取り、広げる。何度も折り返して広げられた紙はところどころが薄くなりかけているが、書き取られた地図の絵や文字はまだくっきりとよく見えた。紙一杯に描かれた線が、おそらくこの国の全容にあたるのだろう。地図の中央にある城と城壁のマーク――これがおそらく、王都ファルマーナ。そこから南に視線を移動していくと、最南端に近い辺境に町がある。まだあまり文字を読み書きできないエルゼリだが、辛うじてムーアの地名は読みとれた。英雄クルスが生まれ、そして聖剣を手に入れた場所。
エルゼリがどこに視線を落としているかまでは、シグレアからは見えないのだろう。白い指がすっと一点を指した。
「こちらがファルマーナ。……そしてこちらがパークラーです。だいたいこれで旅程の半分程度でしょうか。」
シグレアの指が街道をゆっくりとなぞり、パークラーまでたどり着く。確かに街道はここから分岐し、その道幅を狭くしているようだ。これから向かう先の道は、左右にうねりながらいくつもの山間を通過し、その先の土地へと続いている。直線距離だけで言えばこの先の旅程の方が短そうだが、山間部を行くとなるとこれまでよりも移動は難しくなるのだろうということだけは想像ができた。それがどれだけ大変なのか、という具体的な想像はさすがに難しいが。
細い道沿いにはいくつか丸が書きこまれていた。これが先にある町を示しているのだろうと想像はついたが、そういえば、とエルゼリは先日聞いたロズムンドの報告を思い出した。
「ロズムンド様が報告にいらしたとき……この先の町はいくつかなくなっているかもって、言ってましたよね。どういうことでしょう?」
エルゼリの疑問に、ああ、と得心がいった様子でシグレアが頷いた。
「出回っている地図は皆、古いものばかりなんですよ。先王の時代には、地図はすべて発禁処分を受けていましたので……この地図も、残されていた中で一番新しい地図を写し、ロズムンド達の報告を書き加えたものですよ。」
言われてみれば、元々地図を写した際の文字と、その後書き加えられたらしい部分とではペンの色や文字の癖が微妙に違うようだ。書き加えられているのがシグレアの文字なのだとしたら、どうやら彼は見目だけでなく字まで麗しいらしい。羨ましいことだ。
「この写しの元になった地図は、発行時期が十年以上前のものになります。あなたをお連れしたあの貸本屋の主人から借り受けて、皆で写しました。古いものであっても、地図があるのとないのとでは違いますし。ただ、かなりの年数が経ってしまっていますからね。地図に書かれている情報がどこまで信用できるものかは――戦を挟んだ後ですので、なおさら。そのあたりは先行する者の報告や、町での情報収集でなんとかするしかないというわけです。」
成程、と思いつつ視線を再度地図に向けたエルゼリだが、すぐにシグレアは地図をしまってしまった。あっ、と追いすがったエルゼリは唇を尖らせる。
「もう少し見たかったのに。」
「やめておきましょう。町が近いから問題ないとは思いますが……馬車の中で読み物や書き物をすると、酔ってしまうことがあるのですよ。」
「酔う? お酒を飲んだわけでもないのに?」
「酒で酔うのとはまた違いますが……初日に、少し足元がふらつくとおっしゃいましたよね。ああいう感じです。あれが酷くなると、めまいや胃のもたれや、場合によっては戻してしまうことも……。」
「分かった。もういいわ。」
想像するだけでちょっと嫌な気分になる。足元のふらつきだけでもなかなか辛いというのに、さらに追い打ちをかけられてはたまらない。口許を押さえて言葉をつぐんだエルゼリを宥めるように、シグレアが言う。
「宿に着いたらじっくりご覧いただけますよ。」
「そうさせてもらってもいい? 前、貸本屋さんで地図を貸していただいた時には、ほとんど何がなんだか分からなかったの。」
今は前よりも少しは文字が読める。あの時よりは多少内容も分かるだろう。
わくわくと好奇心を隠しもしないエルゼリの言葉に、シグレアが律儀に分かりましたと頷いた。
※ ※ ※
「うわあ……!」
扉が開くやいなや、いち早く馬車を降りたエルゼリの口からは感嘆の声が零れた。外から見た時も大きな町だと思ったが、実際に中に入るとそれ以上だ。確かにファルマーナよりは規模が小さいらしい、ということは分かるのだが、それにしたって大きい。
道幅は広く、ここまでに辿ってきたいくつもの町とは比べ物にならなかった。明らかに別の土地から来たと思しき人の姿も多く、それがエルゼリにはなんだか嬉しかった。これまではどの町でも、エルゼリ達だけが異邦人だったのだ。もしかすると、そのことは思ったよりも心の負担になっていたのかもしれない。……いや、負担なんて甘えだろうなとエルゼリは自分の甘さに失笑した。エルゼリは相当に恵まれている。旅先でも殆ど野宿を経験せずに済んだ。どうしても宿を取れない時だって、馬車を優先的にあてがわれ、眠る場所に難儀するなんてことは一度もなかった。食べ物が足りなくてひもじい思いもしなかったし、着替えなどの汚れものの処理も宿泊先で面倒を見てもらえた。結果、ほとんど荷物同然で馬車に揺られているだけだった。やったことはと言えば、宿で自主的に行っていた文字の練習位なものだろうか。王城にいた時とほとんど変わらない。
風は涼しい。振り仰げば、町の向こう側でうっすらと雲間に透ける山頂には白いものが被っていた。山裾をなめる風は冷たく、春を迎えたばかりだったファルマーナよりもずっと強い。どことなくぴりりと気が引き締まる心地がした。山をこうして間近に見るのも初めての経験だ。遠くから見るとどことなく灰色っぽく見える山肌は、途中までびっしりと木が覆っている。
町の様子も、エルゼリを魅了した。
堅牢そうな石作りの町並みは建物の色だけを見ていると色彩に乏しいが、行き交う人々の装いがバラバラなこともあって不思議とそう感じさせない。見たことのない服装の人々も多い。旅の途中で立ち寄る人が多いからだろう。色とりどりの布を剥ぎ合わせた派手な衣装を着た人もいるし、エルゼリらと同様に外套を身に纏った人もいる。出店もいっぱいあるようだ。エルゼリはうずうずと足踏みをする。念のためにと被った外套がバタバタとせわしない音を立てた。
「いけませんよ。まずはお休みにならなくては。」
「……わ、分かってます……!」
ぎくり、と振り返ると、遅れて馬車を降りてきたシグレアがこちらを見ていた。目立つ髪や顔を外套で隠したシグレアの姿は、他の騎士達同様、道行く旅人とほとんど見分けがつかない。氷色の瞳と声とで辛うじて彼だと分かるが、町の中ではぐれたらきっと分からなくなってしまうだろう。
「エマ殿のおっしゃる通り、あなたはどうもご自身の体調には大ざっぱでいらっしゃるようですからね。宿の方に向かいましょう。ロズムンドが部屋を確保してくれているはずですから。」
手を差し出される。これは確実に迷子を心配されている。あるいは途中で好奇心に負けて勝手に町を散策し始めないかどうかを心配されているのかもしれないが。
エマを除けば、シグレアはエルゼリと一番長いこと一緒にいる相手になるわけだ。もとより隠しているつもりもないが、彼はある程度エルゼリの性質を把握しているのだろう。興味を惹かれるとついそちらに気が行ってしまいがちなあたりとか。でも、そんなにあからさまだっただろうか。これまでわりと遠慮していたと思うのだが。
分かったと言いながらも明らかに未練を匂わせるエルゼリを見て、シグレアはさらに釘を刺した。
「……あなたの素性が容易く露見するとは思っていませんが、何かあってからでは遅いんですよ。」
「さすがにそれくらいは分かってます。」
(シグレア様ほど綺麗だったら、そりゃあ目立つしバレもするでしょうけどね!)
綺麗に生まれたら生まれたで、そういう人にしかわからない苦労があることはなんとなく分かるが、それでもやっぱり羨ましいと思わない……わけがない。
とはいえ生来のものに今さらどうこう言ったところでどうしようもないのも事実だ。ふー、とため息を吐きだして、エルゼリはシグレアの手を握る。
馬の番として残る騎士に手を振って、一行は歩き出した。