32 旅路(3)
「じゃあ、先に行くけど……本当に三日間はきちんと休むのよ。」
「分かってますけど……エルゼリ様、本当にお一人で大丈夫ですか? 私が居なくても……。」
「普通のお嬢様育ちなんかじゃないから大丈夫です。エマがいろいろ教えてくれたし。エマだって分かってるでしょう? そりゃあ、大したことできるわけでもないし、どっちかと言わずともお荷物だし……私はエマが居ないと寂しいけど。」
翌朝。ベッドの中で辛そうにしているエマを前に、エルゼリは眉を下げた。普段はしっかりしすぎの感があるエマも、熱が出ているせいもあるのだろうが、少々気が弱くなってしまっているように見える。放っておくのが心配になってしまいそうなほど。
エルゼリはつい、シグレアを見上げた。
「シグレア様……。」
「きちんと宿の主人には頼んでおきましたし、医者も手配しました。……残した騎士については、皆信頼できる人員です。ご安心ください。」
おそらく多少金を多く積むなりはしてくれているのだろう。後ろ髪引かれつつ、入れ替わりにやってきた医師と宿の主人にもくれぐれもお願いしますと頭を下げ、エルゼリ達は出発した。
※ ※ ※
エマよりも二日ほど先行することになったエルゼリ達は、エルゼリが乗る馬車一台と騎馬が三騎付き従う形で進んだ。
残る一台の馬車と一隊はエマの元に残し、もう一隊の別動隊はエルゼリ達よりもさらに少し先を行く形だ。日に二度ほど、馬を休ませる時間があるので、その時を見計らって先行する別動隊のうちの一騎が報告がてらこちらに戻ってくる。
「――とりあえず今日は次の町辺りでお休みになられるのがいいかと思います。」
「そうか。」
頷いて答えたシグレアが、ぐるりと周囲を見渡す。
この辺りは針葉樹の森が広がる森林地帯だ。ここまでずっと平野沿いにきていた道が、数時間ほど前に、その街道が山の方に向かって曲がったのだった。馬車連れの移動、しかも後続を待つ形で先行しているので、それほど距離を稼いではいない。それでも景色は王都の周辺とはまったく違う。連なる山の峰。この辺りはまだ平地と言っていいが、木々の群れがところどころ視界を遮るようになっているので、見通しは先よりも悪くなってきている。道も直線とは言い難い。
そんな中、先に商隊が使ったらしい野営の跡を見つけた。なんとなくこの一帯だけ木々の侵食を免れた小さな草地の中央には、火起こしの痕跡があったが、ほとんど草に埋もれている。
ここまで健気に走ってきた馬にとってはこれがごちそうの山となったようだ。主の手入れを受けながら思い思いに草を食む馬のしっぽが、時折はたりと揺れている。
シグレアのとアリに立っていたエルゼリは、ふと辿ってきた街道を振り返った。遠く向こうの方には貴族が放棄したらしい古城が見えた。その先に名前も知らない川と山。守るべき主人のいない城は、まるで墓標のようにエルゼリの目に映る。
ぼんやりと周囲を見つめているエルゼリをよそに、大人二人の会話は続いている。
「それにしても、この辺りまで来るとだいぶ冷え込むようになってきたな。」
「そうですね。次の町では防寒着を買っておいた方がいいかもしれません。持って来たものだけでは不足するかもしれませんし。時にエルゼリアード王女、お寒くはないですか?」
ロズムンドの問いかけに、エルゼリは首を振る。旅慣れしていないエルゼリだが、当初の懸念よりはずっと良い状態を維持できていた。
「風邪を引いたりも特にしていませんし、いたって健康です。寒くもありません。今までで一番調子がいいと思えるくらいですよ。……お城の空気の方が合ってなかったのかしらって。」
「エルゼリアード様、あまり無理をするものではないですよ。本調子ではないでしょうに。」
釘を刺した上官と、軽く首をすくめたエルゼリを交互に見やり、ロズムンドがカラカラと笑う。その反応に、エルゼリは思わず頬を膨らませた。
「私こう見えて案外丈夫だと思うんだけど……。」
「スファルド殿にも注意されていたでしょう。本来ならばあなたは城で養生しておくべき人だったんですよ。あまりご自身の体力を過信してはいけません。第一あれから多少下がったとはいえ、まだ熱もおありでしょう?」
エマがいないにもかかわらず言い返せないところを突っ込まれ、エルゼリが一瞬口ごもったところに、ロズムンドの宥め声が割り込んできた。
「まあまあ、シグレア様も、エルゼリアード様も。」
馬を宥めるのと同じような具合で笑いかけられ、二人そろって黙り込んだ。
最初に出会った頃には想像もしていなかったが、シグレアは少々過保護というか心配性のきらいがあるとエルゼリは思っている。無表情の奥に不服そうな内心が透けて見えるような気がして、思わずこみ上げた笑いをなんとか堪えた。
緩んだ表情を見せていたロズムンドが一つ咳払いをして、報告に戻った。
「後発隊も二日遅れで来ます。予定通りいけば……この辺り。次の街道に入る手前で一度人員を入れ替えるといいかと。先は山道なので。町や村ごと潰れてる場所もあるかもしれませんし。」
「パークラーか。」
言葉少なくシグレアが呟いたのは町の名前だろうか。疑問符を浮かべたエルゼリに、ロズムンドが「この辺りで一番大きな町なんですよ」と補足する。先ほどから会話に合わせて指で指示される地図は、大人二人の目線でやり取りされているのでエルゼリの視界には入りようがない。
「先だっての戦ではうまいことミロンド伯がまとめていたようで。町には傷一つありませんでした。治安もそこそこ良さそうですよ。といっても、ミロンド伯もご家族もまとめて追い出された後のようで……。我々を受け入れてもらえるかは微妙なところなので、可能ならば鎧一式なんかは外しておいた方がいいでしょう。商隊を装っておいた方が無難です。」
「止むを得ないか……。分かった。後発隊にも伝えられるか? 外套の下に軽装鎧くらいは着込んでおくように。」
「もちろん。さすがに何かあってからじゃ遅いですしね。」
「パークラーで落ち合うとして……我々が二日、全体でおおよそ四日のずれか。先行隊は調整を?」
「はい。後発隊がやってくる四日後にはパークラーへ戻ります。」
「分かった。では後発隊に伝令を頼む。」
「承知いたしました。」
じゃあ私はこれで、と手を振ったロズムンドが、少し離れていた位置で草を食んでいた愛馬に近付いていき、さっとまたがる。賢い馬は軽くステップを踏むと、そのまま駆け出していった。あっという間に遠くなるロズムンドの背中を、エルゼリはぼんやりと見送った。
「エルゼリアード様。」
呼ばれてはっと気がつく。辺りで休んでいた騎士達も、身支度を整えて出発の準備を始めたところだった。
皆、先ほどロズムンドが言っていた通り目立つ武具を外して外套やマントを羽織っている。意図して服装をそろえないようにしている辺りは芸が細かいが、とはいえここにいるのはほとんどが貴族階級出身の騎士達だ。初見ではバレないかもしれないが、所作なり言葉遣いなり、ひとところに長居してしまえばどこかで露見するだろう。さすがに元王女一行とまでは見破られないだろうが、話に聞く限り元貴族階級者に対する風当たりはなかなか強そうだ。エルゼリ自身が当たられるくらいならなんとも思わないが、それでもなるべくことを穏便に済ませたいとは思う。
後発隊が予定よりも早く町を発ったか、あるいはなんらかの手段で距離を詰めたか、いずれにしても二日ほど遅れてこちらに追いつくことは会話の内容で察せられた。それでもエルゼリ達は後発隊を待つ間、四日ほど同じ町に滞在することになる訳だ。これまで、複数日同じ町にとどまったことは一度もない。それがエルゼリには少々不安だった。
「大丈夫でしょうか……?」
「この辺りでは一番大きな町です。表向き貴族であったことを隠している人も紛れ込んでいるでしょうし、我々だけが注目を集めるようなことはないと思います。静かにしていれば住民達もこちらにどうこう、ということはないでしょう。むしろ……。」
「むしろ?」
言い淀んだシグレアに問いかける。だがシグレアは静かに首を振り、それ以上の会話を打ち切った。
「いえ。なんでもありません。ただ、注意はしてください。」
私から離れないように。かすかに緊張を含んだささやきに、エルゼリはごくりと息を呑み込んだ。