31 旅路(2)
部屋の中に一筋の光が差し込む。柔らかな雲の隙間から伸びた光を反射して、埃がきらきらと舞い遊ぶ。
ううん、と夢の名残に返事をしながら、エルゼリアードは薄く瞼を持ち上げた。先ほどまで部屋はまだ昼間の光の中だった気がするのだが、どうも明るさの加減が違う。夕方? と思いかけて数度瞬きしたエルゼリは、ありえない事実に気が付いて愕然とした。
「あ…………っ。朝!?」
うそっ、と叫んでがばっと布団を押しのけ起き上ったところで額の奥がガンガンと痛んだ。うっとあげたうめき声に、ベッドの上にうつぶせていたらしいエマが、エルゼリの名を呼ばわり起き上がる。かすかにぼんやりとした目をこちらに向けた後、彼女は慌てて居ずまいを正し、エルゼリに頭を下げた。
「申し訳ありません、このようなところで眠ってしまうなんて……。」
「そんなこといいのよ、ねえ、それよりも私まさか朝まで寝てた!?」
目頭を一度揉んでから、エマは窓の外に視線を向ける。そうしてその通り、と一つ頷いた。
「お加減はいかがですか? 昨日は熱を出されていたのですよ。」
「熱?」
ということはこの頭痛もそれに付随する症状ということだろうか。耐えられないほどではないが、不快感は拭いようもない。痛みに呻いたエルゼリの目の前にはグラスが差し出される。
「少しぬるくなっていますが……このくらいの方が飲みやすいかもしれませんね。」
「いただくわ。」
数度に分けてグラスを空け、自分の喉がカラカラだったことに遅ればせながら気がつく。グラスにまた水を注いでもらい、再度それを飲み干してから、エルゼリはようやくふうとため息をついた。ともかく、今日は今日とて移動をしなければならないはずで、身動きも取れないほどの病状でない限り、このベッドで安穏としていることはエルゼリには許されない。
エマにそれを言わせる前に、エルゼリは言い切った。
「大丈夫、動けそうよ。着替えをしないとね。」
「お辛くはありませんか?」
「スファルド様がおっしゃっていた通り、体がびっくりしてるだけだと思うの。そのうち、慣れるわよ。病気ではないのだし。」
にこりと笑ってそう言えば、エマがようやくかすかに表情を緩めた。責任感が強すぎるきらいがあるエマのことだ。エルゼリが調子を崩せば、彼女の方が死にそうな顔をするに決まっている。実際のところ、エルゼリは日中、ただ馬車に揺られていればいいだけの立場なので、無理をすると言ってもたかが知れている。
気の毒なのはこの道行に付きあわされている騎士達の方だ。彼らだけならば馬をひたすら飛ばしてさっさと目的地に行くことだってできるだろうが、エルゼリのような人間を伴う時点でそのようなわけにもいかない。
せいぜい自分が気を張ってなんとかなるのであれば、そうしてみせるのがエルゼリの役目だ。
(こういうとこに魔法がうまく使えたら便利なんだけどなあ……。)
じゃら、と手元で鋼の腕輪が音を立てる。リボンで隠されてはいるが、いくら体温を吸ってもどことなく冷たい金属の感触は隠しようもない。そして、その下から覗く奴隷紋。この世にはもういない、両親の名残。
教会でシグレアの命を取り留め、己の命を選んだあの日。残念ながらあの時の魔法は命の危機に瀕した際のまぐれだった、のだろう――と思う。実際魔封じを付けているのだし、そもそも大したコントロール法も知らないエルゼリだ、ここで都合よく熱が下がったりは……。
(しないわよねえやっぱり。)
その後、諦め悪く喉を擦りながらうーんと念じているエルゼリを見て、エマが首をかしげていた。
日が上りきってすぐ、まだ町が目を覚ますよりも前にエルゼリ達は出立することになった。
「どこ行ってもこんな感じなんですかねえ。」
馬車を止めていた広場の辺りで、騎士の一人がそう言った。前日から数名交代で寝ずの番をし、馬車と馬の安全を確保してくれていた人員だ。報告を求めたシグレアに対して、彼は頬をかきながら続ける。
「遠巻きにこっちを見てるの、分かっちゃうんですよねえ。いや、もちろん略奪とかそういう物騒な話にはならないでしょうが、こちらの出方を観察しているというか。」
シグレアにくっつく形で騎士の言葉を聞いていたエルゼリは、うーんと唸った。
「確かに悪目立ちしてしまうわよね。騎馬だけならまだしも、馬車に騎馬が随伴してる状態って……。」
「はい。貴族にいい印象を持っていない人も多いので。」
シグレアも頷く。
馬車自体は珍しくもなんともないが、問題は馬車に騎馬が随伴している状況にあった。もともと馬車自体は貴族が好んで使用していたような高級品ではなく、市井で見かけるごく普通のもの(もちろん表からは見えない車輪の一部や、長時間座席に座り通しになるエルゼリ向けに改造はされているが。)。とはいってもそこに物々しい騎馬隊がくっつけば、目立たないほうが無理というものである。
警護をしているところを見せることで、未然の危機を防ぐという考えがあってこのような形での移動になっているのだろうということはエルゼリにも察せられるが、目立ちすぎて警戒を招くのであればあまりにも意味がない。
「もう少し目立たないほうがいいということ……?」
「様子を見ながら考えることにしましょうか。どちらにしてもそろそろ出ておくべきです。」
シグレアに促されて、馬車に乗り込む。エルゼリがそうしている間にも二、三言葉を交わし、シグレアも馬車に乗り込んだ。
※ ※ ※
連日の移動による疲れが蓄積していく。三日経ち、一週間が過ぎ、二週間目。
最初に音をあげることになったのは永らく城に閉じ込められていたエルゼリではなく、エマだった.
今日の宿になる町に入った一行は、それぞれ休む宿を探して散っていった。
王都を離れて二週間。街道は幾度も分岐を繰り返し、町もだんだんと規模を小さくしていく。一つの宿で全員がまとまって休めることはほとんどなくなり、一部の騎士が取れなかった宿の代わりに、馬車の中で眠るようなことも増えていた。
幸いにも今に至るまで、騎士達が力を発揮しなければならないような場面はほとんどなかった。細いとはいえ街道沿いを選んでいることもあるのだろう。小型のモンスターを追い払う程度が関の山。当初懸念されていたであろう、エルゼリを狙うような輩は今のところ現れていない。
だが、町の様子でひしひしと感じる。住人たちが抱く緊張や恐れ、これから先この国がどうなっていくのか。期待と怯え、そういったものをない交ぜにした負の感情を。
エルゼリやエマ、騎士たちの姿に、かつて土地を支配していた貴族を思い出すのだろう。町に入れてくれれば僥倖。ここにたどり着く前に二つほど町に立ち寄ったが、そちらでは立ち入りさえ認めてもらえず追い出された。はっきりと断られることもあれば、やんわりと立ち去るよう促されることもある。自警団を組織して町の入り口自体を塞いでいる場所もあった。
王都を離れれば、エルゼリらを見て、元王女一行と悟られることはないと考えていたのは安直過ぎたかもしれない。実際のところ、顔を見られたところで王女と見破られることは一度もなかったが、代わりに貴族階級者たちに対する根深い遺恨は王都を離れれば離れるほど酷くなっているように感じられた。
やむを得ないことなのだろう。恐ろしい思いをして生きてきた人も多いはずだ。王都から離れて行けば行くほど、勇者の威光も届かなくなる。かつての騎士が、貴族が町を襲う――そんな悪夢をエルゼリ達の姿に見てしまう人もいるのだろうと想像はついた。
既に日か落ち、暗く沈んだ宿の一室。ようやっとの思いで取ることのできた宿屋のベッドの上にはエマの姿があった。傍らに腰かけたエルゼリとシグレアを交互にみやって、エマが嘆く。
「申し訳ありません、エルゼリ様、シグレア様……。」
「私たちのことは気にしなくていいのよ。とにかく休んでいて。」
ベッドに寝かされたエマの顔色は赤い。この辺りでよく流行する風邪だそうだ。薬草を煮詰めた薬液で全身を拭き取り、薬を飲み――症状が完全に落ち着くまで長いと一週間はかかるという。世話をしようにも不慣れなエルゼリでは大したこともできない。が、看病され慣れていることもあって、やるべきことは分かった。頭の上に置いた布を定期的に取り換えてやったり、時間ごとに水を飲ませたり。自分にもそれなりにこういうことができるのだという事実は、エルゼリにとっても新鮮だった。
「エルゼリ様、本当に移ってしまっては困りますから、私の側には近寄らないようになさってください。馬車も……分けていただいたほうがいいでしょうね。」
エマの言葉に、エルゼリとともに隣についているシグレアが呆れたような顔をする。
「その状態で移動をするつもりですか。最悪でも二日は安静にと言われているんです。あなただけじゃない、皆そろそろ疲れが出てきている頃ですし気になさらずに……。」
「……でもこの人数でこの町に連泊し続けるのも無理がありますよね。」
意外にしっかりした口調できっぱりと返されて、シグレアは唸った。
あわせて一五名での移動は、規模としては貴族のお忍び程度で通せるレベルの人数ではある。が、この国にはもうそもそも貴族という身分自体がないようなもの。目立たず済ませるのは難しい。
それでも王都周辺の町であれば、クルスの睨みが効く分、不安は少なかった。だが今は……。
「隊を分ける?」
「はい。人数を減らせば、それほど目立つことはありませんので。」
「エマを置いていく、とかじゃなく……?」
「エマ殿とエルゼリアード様には別の馬車に乗っていただきますが、勿論彼女にもマレイグまで来ていただきますよ。置いていったとしても、あの調子では後から這ってでもやってくると思いますし。」
らしくもない冗談を言ったシグレアを見て、エルゼリはほっと息を吐き出した。あの後エマはすぐにすとんと寝入ってしまったので、互いに声は抑えめだ。二人はベッドから少し離れた位置にある椅子に小さな丸テーブルを挟んで腰かけ、冷えた茶を啜っている。
揺れる蝋燭の明かり。シグレアの伏せられていた長い睫毛があがり、エルゼリを見た。
「……もともと随伴の騎士達は護衛として用意している人員です、守りが薄くなるのは望ましくない。エマ殿の回復を待つ人員としてこちらに四名残し、七名はエルゼリアード様とともに。残りの四名は先に行かせます。先に行く先の町の様子などが分かっていれば、こちらも対応のしようがあります。」
「危ないことはないの?」
「ゼロ、とは申し上げられませんが、それは今までも同じです。――数日に一度は落ち合う地点を決めておくなりして、人員を入れ替えるようにして運用します。お恥ずかしながら部下にも多少疲れが出ていますので……少しずつは、休ませてやりたく思います。」
ぐ、とエルゼリは黙り込む。エマもそうだが、他の人員だって無理をしていないとはとても言えない。大荷物で、しかも旅慣れないエルゼリのような人員を任されて移動している騎士達だって、エマのように体調を崩しかねない。もちろん彼らは笑って否定するが(実際騎士のうちの一人を捕まえて疲れの有無を聞いたことがあるが、鍛えていますからと笑い飛ばされてしまった。)それだって本人が疲れを自覚していないからという可能性もある。
シグレアがこんな話を出してくるという時点で、何かしら変調の兆候があるのかもしれない。
「ご心配をおかけする形になって申し訳ありません。」
そこでどうして私が謝られるの、とエルゼリはとっさに首を左右に振った。黙り込んでしまったことで変な誤解を与えたのかもと気が付いて、慌てて言い募る。
「違うのよ、別にあなた方を信じていないとか不安がとかそういうことじゃなくってその…………あ、」
しー、とジェスチャーで静かにと指示されて、語尾がすぼんだ。軽く咳払いをして、エルゼリは先を続ける。
「私には難しいことは分からないけど、皆さんが無理をして倒れるようなことになるのは望みません。だから必要であるなら、その方法で構わないです。皆さんが疲れ切った状況で何か起きてしまったとしたら、その方が危険だし。」
「危険はないように努めますが、集団で行くよりは何かあった時の戦力という意味での危険度は増します。――必ずお守りしますが。」
身命を賭してと言わんばかりのシグレアの様子に、エルゼリはたじろぐ。真剣な顔をするとシグレアは見目のせいもあってか、異様な凄みを帯びる。それこそ何か事でも起きれば、本当に命を懸けてエルゼリを守ろうとするだろう。
それがなぜなのかはエルゼリには理解ができない。まさかあの時、偶然に任せて命を救ったことを恩義と思われているのだとしても――そんな恩義のために命を投げ出されては、エルゼリの方が困ってしまう。
「先に申し上げておきます。私のために貴方が死んだりするのは許しません。」
「は……。」
「そういうのは、駄目です。全員できちんと、目的を果たしましょう。」
「……。」
「そうお約束していただけるなら、どういう風に運用していただいても構わないです。もとよりクルス様も、そういう判断を貴方にお任せになっているのでしょう?」
エルゼリには到底判断できないことだから、それで間違いないはずだ。そしてこの道行における最高責任者はシグレアである。案の定シグレアが静かに頷く。
「私からお願いするのは一つ。皆でマレイグにきちんとたどり着く、そのための手段を考えましょう、ということだけです。もちろん、今からでも王城に帰りたいという方は、お帰りいただくべきですが……そうでないなら、きちんと最後まで一緒に行きます。」
きっぱりと言い切ったエルゼリに、シグレアはしばらく無言だったが、やがて「はい」と頷いた。