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30 旅路(1)

馬車の外を、エルゼリは静かに眺め見た。

夜が明けてすぐの、まだ朝市にも早い時間だ。しかし街中にはちらほらと人の姿が見える。こんな時間に街を出て行く馬車の姿に目をくれることもなく、彼らは今日の一日を過ごすための準備をしているのだ。

せいぜい数回歩いたきりの街。エルゼリにとっては、はじめて間近に目にした街。それぞれの人たちの一つ一つの営みが積み重なり、この街を形作っている。さながら数えきれないほどの人の集まりによって国が形作られているかの如く。

坂道を下りきった馬車は、円形広場を半周巡って別の大通りへと飛び込んだようだ。見たことのない、そして今後恐らく見る機会のない景色にエルゼリは食い入るように見入った。

王城に近い区画とは異なり、この辺りにはまだまだ戦の爪痕が色濃く残されている。崩れかけた家屋や、瓦礫の山。砲弾の鉄球がそのまま残されている場所もある。人の姿は見られない。区画ごと放棄されてしまったのか、それとも住んでいた人たちがもうこの世のものではなくなってしまったのか――。昇り始めた朝日に照らされた破壊の爪痕は、かつての国の墓標のようだった。


「……。」


景色はあっという間に飛ぶように後方へと消えた。

ほどなくガタリ、と馬車が揺れた。その揺れを最後に街並みは途切れる。これまでの人生のすべてだった王都ファルマーナの城壁が遠ざかっていく。


「街道に出たようですね。この先は揺れますよ。」

エマの声でようやく我に返る。

「ご気分は大丈夫ですか。乗り物は初めてでしょう。」

「え? ええ……そうね。大丈夫。」


あらためて問われると、落ち着きなく揺れる足元や、つられて跳ね上がる全身が少々心もとなくはある。だが気分が悪い、というようなことはなかった。ひっきりなしに響くガラガラという音にも、いずれは慣れるだろう。むしろこの狭い空間が一番気になると言えば気になった。


「窓、開けておいてもいいかしら。」

「日除けを引いたままであれば構わないですよ。それと、慣れない方は具合を悪くすることもありますから。移動方向に体を向けて座った方がいいですよ。」

「分かったわ。」


小窓から顔を離し、エルゼリはエマの隣に腰を落ち着ける。正面ではシグレアがじっと静かに座っていた。いつも腰に帯びている剣は、座る際には邪魔になるのだろう。ベルトから外され、今は座席の横に置かれている。馬車の揺れに合わせ、鍔と鞘の接点がチリチリと音を立てた。


「今日はどのくらい走るの?」

「昼過ぎまで走って、宿に入ります。」

「そんなに早く?」

「エルゼリ様は移動に不慣れでいらっしゃいますし、体調の面に変化がないかどうかも考慮しないといけませんから。」


少しこちらを気にしたようにエマが言う。こちらが気に病まないようにと気遣ってくれているのだろう。むしろそれがまた申し訳ない。おそらくエルゼリがいることで、移動の時間にしても手間にしても本来よりもかかっているはずだ。


「とにかく体調を崩さないことよね。分かった。頑張る。」


両手を握って頷いたエルゼリに、エマが笑った。




朝日が完全に上り、馬車に陽の光が浴びせられるようになると気温はみるみる上がった。馬車の中も汗ばむほどの陽気だ。左右に開いた小窓から入ってくる風が唯一の癒しである。時々の休憩を挟んだりしながらも一行は進んだ。


やがて緩やかに馬車の歩みは止まる。先ほどから車輪の音が変わっていたことに気が付いていたエルゼリは、そっと小窓の外を覗き見た。


「ついたようですね。」

ここまでほとんど沈黙したままだったシグレアがそう言った途端、外から声がした。

「失礼いたします! 扉をお開けします。」

シグレアの短い応えを待って、扉が外から開かれた。眩しい日差しが差し込み、外の景色が一瞬見えなくなる。すぐに光に慣れた目には、小さな町の景色が飛び込んできた。どうやらここは馬車の停車場らしく、他にも数台の馬車の姿が見えた。

そして馬車の入り口、扉の向こうには騎士の姿がある。今朝がた初めて顔を合わせた騎士だ。緊張の面持ちで、彼はこちらに向かって一礼する。


「お疲れ様でした。どうぞお降りください。」


騎士に手を差し伸べられ、エルゼリが最初に馬車を降りた。扉をくぐると、すぐに鉄製のステップがあるが、小さなエルゼリにはこの段差がなかなかきつい。ほとんど介添えの騎士に縋るような格好で、なんとか地面に足がつく。


「ありがとうございます。」

「いえ。お加減はいかがですか。」

「…………大丈夫です。」


実はあまり大丈夫じゃないエルゼリである。これ程の長時間座り続けた経験がないこともあって、腰がぱんぱんに張っている。それに足元が今もぐらついているような錯覚があって、地面に立っていてもなんだかふわふわと落ち着かない。まるでまだ馬車に乗っているみたいだ。

「地面がゆらゆらしないってすごいことだったのね……。」

思わず零した一言に、騎士が妙な顔をした。

「えっと、ごめんなさい。初めての馬車だったもので……。地面があんなにいつも揺れていたら大変だなって実感したといいますか……。」

「な、成程。」

律儀に何か言おうとしてくれる騎士に申し訳なくなって口を開こうとしたエルゼリだが、エマの「エルゼリ様」という声で我に返った。馬車の中からエマとシグレアが困った様子でこちらを見ている。

「非常に言いにくいんですが……入口を塞がれてしまうと、降りるに降りられないんですが……。」

「ご、ごめんなさい。」




停車場から宿屋まではそれほどかからなかった。もとよりそんなに大きな町ではないのだ。エルゼリが初めて目にした王都ファルマーナの広さには比べるべくもない。道幅は狭く、町中を馬車で行くのは少々無理があるのはエルゼリにも分かる。


昼を少し回ったくらい、まだまだ日の高い時間帯だが、町の中は長閑なものだ。だが道行く人たちがこちらを遠巻きにしているのは肌で感じられた。。あまり外から人が来るような町には見えないから、それも無理のないことなのだろう。おまけにエルゼリたちがワケアリなのは見ただけでも判別がつく。それなりの数の騎士と、侍女が一人と、なぜか混じっている子供が一人。どう見ても普通の旅人には見えないだろう。


ぽつぽつと家屋の並ぶ道を行けば、やがて先の方に宿屋らしき建物が見えてきた。どうやら馬車を止めてきた辺りは商店が並ぶ通りのはずれだったらしく、

この辺りまでくると多少人の姿が増える。

ふと目に入った通りの中央には、片方の腕が折れた彫像があった。戦禍によるものだろうか。

揃ってここまでやってきた一行は、ここで二手に分かれることになった。どうやらもともとその計画だったらしく、シグレアに指示を受けたうちの一人がエルゼリの前で腰を折る。


「エルゼリアード様はこちらでお休みください。腕利きをこちらに残します。私どもが宿泊する館もそれほど離れた場所にはありませんから、何かあればすぐに参りますので。」

「分かりました。今日はありがとうございました。えっと……。」

確かこの人の名前は、と思い返し、ああ、と思い至ってエルゼリは我知らず笑顔を浮かべる。

「ロズムンド様。」

「はい。」

驚いたように目を丸くした騎士、ロズムンドにエルゼリは一礼した。

「明日もよろしくお願いいたします。皆様よく休まれますように。」

ロズムンドは思わず、といった様子で破顔し、こちらも再度一礼してから騎士をまとめて去っていく。その背中を見送ってからエルゼリ達一行も宿に入った。




古いなりによく手入れされた宿は、部屋の一つ一つが小ぢんまりとしていてエルゼリにはむしろ好ましく映った。

シグレアの隣の部屋にエマとともに入ったエルゼリは、真っ先に部屋の窓に飛びつく。留め金を外して窓を開けば、柔らかい風が通り抜けた。日差しは高いが、カーテン越しであればそれほど厳しくは感じない。

宿屋は小さな二階建て。窓の外に見えるのは小さな家の屋根、その下には人の行き交う大通り。その規模は王都ファルマーナとは比較にならないほどに小さい。だが前よりもずっと外が近い。こちらから町の人たちの顔が見えるくらいだ。人の営みが見えるのはいい。独りだと思わなくて済む。


「王宮のお部屋は広すぎて正直落ち着かなかったけど。これくらいのお部屋はいいわね。」

「あまり広いところはお好きではないですか。」

エマが今日の分の衣服を取り出しながら言う。

「お城のお部屋はちょっとね。あれだけ広いところに一人でいると思ったら落ち着かないわよね。隣にエマがいたからまだよかったけど。」

「あのお部屋もそんなに広い方ではありませんけどね。」

「そうなの?」

「そういったことにステータスを見出す人もいますから。」

「……理解できない……。」

ううん、と唸ったエルゼリに、エマが笑った。

「私も正直理解できませんけどね。お掃除が大変なだけですし。」

「エマはそういうとこ、徹底してるわよね。」

「機能的な方がいいじゃないですか。」

「そういうものかしら……?」

「少なくとも私にとってはそうですね。さ、エルゼリ様。お疲れでしょう。少しお休みになっては?」

「こんな時間から?」

まだ昼を僅かに過ぎたくらいの時間だ。昼寝にも少し早い。


「私の目を誤魔化そうとしても駄目ですよ。お加減、あまりよくないのでしょう? こんなに長く移動するのは初めてですものね。」

「どうしてわかっちゃうの。」


ぼやきつつ溜息をつく。地面がぐらつくような違和感は少しマシになってきているが、胃の辺りが不自然にぐるぐると音を立て、むかつきを訴えている。ほとんど同じ姿勢のままでずっといたこともあって、体中が痛い。少しのぼせているような感じで頭の辺りもふわふわとしている。


「寝間着をお持ちしてますから、着替えましょうね。はい。ではお休みください。」

「本当に今から寝るの……?」


ベッドに追い立てられ、布団をかぶせられ、それでも昼間に眠ることの不自然さを訴えるエルゼリに、エマは有無を言わさず言い切った。


「はい。エルゼリ様は今から夕刻まではお休みのお時間です。ほら、目を閉じて……すぐに眠れますよ、きっと。」


側におりますよ、そう言って瞼の上に触れられる。暖かな掌に思わず全身の力が抜けた。そしてそのまま体の感覚が闇に向かって放り投げられる。エルゼリ自身すら信じられないほどの速さで、意識はすとんと落ちた。


※ ※ ※


コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響く。エルゼリアードの額を静かに拭っていたエマは、タオルを桶に戻した。そして傍らに置いてあった燭台を一つ手に取り、扉へと向かう。

薄く開いた扉の向こうにシグレアの姿を認め、部屋に招き入れる。本来主が眠っているところに客人を――それも男性を入れるというのはありえないことだが、エルゼリアードからはあらかじめ、シグレアかクルスであれば部屋に招き入れて構わないと許可を得ている。


「エルゼリアード様は。」

「ぐっすりお休みですよ。やはり移動が負担になってしまったようですね。」


仕方がないんですけど、と言ってエマは嘆息した。

エルゼリはまだ目覚めていないが、陽は既に落ち、今はもう夕食時と言っていいような時間だ。燭台の明かりの向こうにエルゼリアードの白い頬が見える。


「熱は?」

「それほど上がっていないのが幸いですね。……ご用件は、明日のことですか。」

「はい。少しずつでも移動をすべきだというのが結論です。」

「エルゼリ様には酷ですが、そうするべきでしょうね。」


王都からそれほど離れていない土地であればあるほど、エルゼリアード一行に対する警戒の目も厳しい。あまりこの街に長居をしてもいい結果にはつながるまいということは、今日の町の人たちの反応からも明らかだった。


「宿の主人に軽食を頼んでおきました。これを。」

「まあ。」


今の今まで気が付かなかったが、シグレアはバスケットを片手に持っていた。受け取って中をあらためれば、ぎっしりとサンドウィッチが詰め込まれている。


「勝手ながら毒見はこちらでさせていただきましたからご安心を。日光に晒さなければ明日の昼頃まではもつでしょうから、お二人でお召し上がりください。」

「何から何まで……。」


食事のことまでは気が回らなかった。恥じ入るエマに、シグレアが首を振る。


「エルゼリアード様に無理をさせてしまっているのは我々です。少しずつでも移動に慣れていただくしか。」

「マレイグに行けば、少しはエルゼリ様も息苦しくなく生活できるのかしら……。」

「砦と、小さな町だけですし、王都からはかなり離れています。気候は厳しいと聞きますが、一目を気にして生活をするようなことにはならずに済むかと。」


静かにそう口にして、シグレアがちらりとベッドに視線を向ける。


「後ほど、水差しをお持ちしましょう。エマ殿もあまり遅くならぬうちにお休みになってください。」

「分かりました。ありがとうございます。」


では、と短い返事を残し、シグレアが部屋を後にする。

閉じられた扉の鍵をかけ直し、エマはまたエルゼリアードの枕元へと戻った。ひそやかに息を繰り返すエルゼリアードの額から濡れた布を取り上げて、一度桶の中の水にくぐらせてからよく絞り、再度額に置きなおす。静かだ。王都にいた時よりも外の喧噪は近いが、それだって小さな町だからささやかなもの。宿の階下では早くも酒を引っかけ始めた人たちの歓声が響いているが、それも別世界のもののように遠い。


「お城にいた時みたいですね。エルゼリ様……。」


窓の外では日の入りを告げる鐘が数度、打ち鳴らされた。

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