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29 出立

朝日が昇る。

街の向こう側、遠い山脈に沿うようにして立ち上った光の帯は、生まれた途端に空を、木々を、隙間なく並ぶ街並みをあまねく照らし出した。

藍色がかった夜色の空はすぐに背後へと追いやられていき、あとには橙を掃いた空と夜に置き去りにされた星のいくつかだけが取り残される。

雲一つ見えない素晴らしい天気だ。この分ならば今日は暖かくなるだろう。


今日が見納めとなる王都の朝日を目に焼き付けながら、エルゼリはゆっくりと伸びをした。そうして、窓を開く。ふうっと流れ込んできた風はまだひんやりと冷たい。

ブル、と背筋が震えた。寒さのせいでもあったし、この後に対する拭い去れない不安のせいでもあった。寝間着越しに肩に巻き付けたストールをぎゅっと引き寄せて、エルゼリは耐えた。

……だが同じくらいの期待もある。これまでのエルゼリにとって、『外』というのは別世界のように遠い場所だった。きっかけや結果はどうあれ、エルゼリはこの場所から出て行くことができるのだ。生きたままこの城から出て、他の土地に行けるなんて考えたこともなかった。それが幽閉を理由としたものであったとしても、恨む気持ちなんて欠片もない。


ぐるりと部屋を見渡したところで、奥の部屋の扉が開いた。エマだ。

侍女服ではなく動きやすそうなワンピースに身を包み、目立つ金の髪をひっつめただけでも、普段とはまた随分と印象が変わる。今はいかにもお忍びの、良家の子女と言った様相だ。

エルゼリと並んでいたら何も知らない人はエマのことを王女と勘違いするだろうな、などと考える。本人はどうもなんとも思っていない節があるが、エマの見目は人目を惹くのだ。

「おはよう、エマ。」

「おはようございます。エルゼリ様。……あら、どうかなさいました?」

「朝日を見ようと思って。ここからの景色は、もうこれが見納めだし。」

「そうですか。」

エルゼリの言葉に一つ頷き、近付いてきたエマが隣に並んだ。二人で静かに王都の景色に見入る。この部屋の窓からは見えないが、街の外をぐるりと覆う城壁近く――王都のはずれの方になればなるほど、戦の痕が色濃く残されていると聞く。つい先日はエルゼリがいたばかりに、教会の一つが爆破された。いまだに傷痕の残るこの場所から去ることに心残りが無いとは言わないが、ここにいたところでエルゼリにできることが無いのもまた、事実だった。


力が、ない。

そして、何より民衆が王族による統治を望んでいない。国は一度滅び、また新たな再生の時期に入った。この後のことはすべてクルス達に任せることになるだろう。


「さあ、エルゼリ様。あまりここにいると体を冷やしてしまいますわ。着替えましょう。出立までもうあまり時間もありませんし。」

「そうね。」

名残惜しく感じながらも、エルゼリは手を伸ばして窓を閉めた。



着替えを終えてほどなく、シグレアが部屋にやってきた。軽装鎧とマントを身に着けた姿は、ファルマーナ神殿に出向いた時と同じ格好だ。王城を出るということは、王城の守りの範囲からエルゼリが外れるということでもある。道中何があるかわからない以上は当然の備えだろう。

「お早うございます、エルゼリアード様。」

「おはようございます、シグレア様。」

「下の方は準備が整っています。そろそろ向かわれますか。」

エマの顔を確認する。大丈夫、と頷かれて、エルゼリも頷き返した。

エルゼリに初めて貸し与えられた、自分だけの部屋。ぐるりと一周見渡して、その光景を目に焼き付ける。一月ちょっと過ごしただけの部屋だ。それでも、何年もの時間を過ごした地下の一室とは異なる感慨があった。きちんと人として過ごした初めての場所だ。ここでエルゼリはエマと再会し、シグレアに出会った。クルスやスファルドとも。

(さようなら。)

胸のうちで、静かに告げる。この部屋に戻ることはもう二度とない。今日別れを告げる人達と出会うことも、恐らくないだろうと思うと、僅かに後ろ髪引かれる心地がした。

それを、自ら振り切る。


「行きましょう。」


別れの済んだ部屋に背を向け、エルゼリは歩き出した。シグレアの手で開かれた両開きの扉をくぐり抜け――あとはもう振り返らなかった。


※ ※ ※


誰もいない早朝の廊下を歩きながら、三人はつらつらと話をした。

「旅程については先にも説明をしましたが、街道沿いに北上をしていく形になります。エルゼリアード様の体調を見つつ移動する形になりますから、そうですね……順調に移動できたとしても、マレイグの麓近くの町まで行くのにも二週間はかかるでしょう。」

「そこからは山を登るのよね?」

「はい。道は整備されているはずです。昔は転送陣が麓の町に敷かれていたそうですが、今も機能するかどうかは不明だそうですので。」

三人で語らいながら廊下を進む。朝早いこともあって、すれ違う人はまばらだ。

「どんなところなのかしらね。マレイグって。」


本を借りるなどして少しは調べたエルゼリだが、具体的な様相はまったく想像がつかなかった。地理や歴史に関する書籍のほとんどが、王や王妃によって焼き捨てられてしまっているためだ。あの書店の店主に曰く、『アホな統治者はすぐに過去の資料を処分したがる』そうである。お伽噺や伝承のたぐいは辛うじて残っていたが、ドラゴンが襲い掛かった時にも落ちなかった堅牢な砦であるとか、かつては魔女の住処だったとか、エルゼリが知りたい砦の実情についての話はまったく引っかかりもしなかったのだ。


「雪解けの時期が無く、常に冬の寒さの土地だとは聞きますけどね。私もそのあたりはまったく存じ上げません。」

エマが肩を落とす。

「シグレア様は? 何かご存じですか?」

「いえ、残念ながらマレイグには向かったことはなく……。」

「いえ、いいんです。」

微かにシグレアが肩を落としたように見えたので慌ててフォローを入れつつも、エルゼリの胸のうちにかすかな違和感が湧いた。

(そう言えば規定事項だと思い込んでいて考えもしなかったけど……辺境の地は今、どんな状態になっているのかしら……。)

治安が乱れている可能性は高い。エルゼリが要らぬ刺激になってしまわなければいいが……。


エントランスホールを抜けた先で、クルスが待っていた。車止めには馬車が四台止められている。いずれも市場の辺りで見かけるような、飾り気の少ない馬車だ。夜明け直後の冷たい空気に、馬の鼻息が白く溶けているのが見える。

「おはようございます。エルゼリアード王女。」

「おはようございます。」

いつも通り、穏やかな笑みを浮かべたクルスの隣には、マルクやキリーク、スファルドの姿もあった。

「おっはよー王女様。」と手を振ってきたのはキリークだ。マルクの方は無言だ。以前からあまりよく思われていない自覚はあるので、エルゼリの方は目礼をするにとどめた。

彼らの背後には騎士と思しき人が数名立っており、どうやら彼らも旅の道連れらしいということだけは知れたが……事情がよく分からない。

「えっと……?」

首を傾げたエルゼリに、クルスが微かに笑った。

「シグレアの部下たちも行くと言って聞かなくて。あとの数名は護衛ですよ。僕らは見送りです。人数が少なくて、申し訳ないですが……。」

言われてよくよく見てみれば、騎士の中にはエルゼリの部屋の前を守ってくれていたあの二人の姿もあった。

「腕利きを集めましたので、安心してください。今はまだ、主だった街や土地の代表者と今後の国のことについて話し合っている最中だ。あなたを移送するにしても危険が無いとは言い切れないんです。さすがにあなた一人を外に放り出すなんてことは、できませんし、やろうとも思いませんし。」

エルゼリの移送一つで、手間をかけさせているなあ、と思う。いや、実際に考えてみれば手間が発生するのは当たり前のことなのだ。追い出すことを目的にしているのならばそれでもいいだろうが、クルスがエルゼリを管理しているという状況を作ることが必要とされる今、できる限り移送にも便宜を図ってくれることは分かりきったことだったのに。

感謝の気持ちを込めて、エルゼリは頭を下げた。

そして、騎士たちに近付き、一人ずつに挨拶をする。

「エルゼリアードです。道中、ご迷惑をおかけしないように頑張ります。」

「よろしくお願いいたします。」

扉の番をしてくれていた二人の他は、エルゼリにとっては初対面の相手だ。彼らの力なくしては、エルゼリはマレイグに行くことすら叶わない。顔と名前をなんとか一致させられるように記憶しながら、総勢十二名の騎士との挨拶を終える。

エルゼリが奏功している最中に、エマは先に馬車へと乗り込んだようだ。

「……では、そろそろ。」

「王女をよろしく頼むよ。」

「クルス様。ありがとうございました。皆さんも。」

馬車の手前で振り返り、王城を背景に立つクルス、キリーク、マルク、スファルドに別れの言葉を告げる。

「元気でやりなよ~。」

「とにかく無理をしないことじゃて。薬は積んであるから、そちらを使いなさい。」

「はい。」

無言のままこちらを見ているマルクにも目礼をして、エルゼリは最後にクルスに向き直った。

「クルス様。ありがとうございました。本当に。」

「……。」

複雑そうな色を浮かべた瞳が、かすかに微笑む。

「僕が言うのもなんだけれど。……元気に過ごして。しばらく窮屈な思いをされるだろうけれども……。」

「構わないです。こんなことを申し上げたら、失礼かもしれませんが……私は、これでようやく外に出ることができます。今はそのことに、感謝しているんです。本当に。」

「そう……。」

「はい。」

うまく、伝わっただろうか。確かに彼は父や母の敵ではあるが、エルゼリにとっては恩人でもある。

そうだ、と回らぬ頭がようやく一つの答えを導き出した。別れ際に、一番に伝えなければならない言葉がある。

生まれて初めて告げる、相手の幸せを祈る別れの言葉を、エルゼリはゆっくりと口にした。

「クルス様も、お元気で。」



足をタラップにかけ、馬車に乗り込む。エルゼリのあとからシグレアも同じ馬車に乗った。小さな馬車の正面にエマが座り、エルゼリの隣にシグレアが腰かける恰好だ。一歩でも足を踏み出せば、正面に座る相手にぶつかりかねない距離感ではあるが、相手がエマやシグレアであれば緊張もせずに済みそうだ。

シグレアが片方の窓を開いたところで、馬車が緩やかに走り出した。車窓越しに、クルスと一瞬目が合う。

ああ、もう本当にここに戻ることはないんだろうな。そんな実感がエルゼリの胸に滲んだ。

「さようなら。」

つい、そんな言葉が飛び出した。だがその時にはもうクルス達の姿は窓の向こうに見えなくなっていた。


「……。」


カラカラを回り始めた車輪はだんだんと速度を増した。あっという間に王城を飛び出した馬車が四台、人気の少ない早朝の坂を軽快に下っていった。

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