28 あなたの心を信じたい
「……どうしてそんなこと言いきれるの。」
もはや口調さえ取り繕うこともできないまま、エルゼリは苦い思いで言葉を吐き出した。ここが外でなければ、あるいはエルゼリがこんな立場でなければ、みっともなくも大声で叫び、泣き出したかもしれない。
クルスの傍を離れてまでエルゼリに剣を預けようとしてくれたシグレアを、自ら振り切り、逃げ出すような勇気はエルゼリにはなかった。だからこそシグレアの方からエルゼリを見限ってくれたらと――。あまりにも自分勝手な言い分であることは承知している。だからって、まさかこんな切り返しをされるなんて。
あなたを信じられない、とは口が裂けても言えなかった。シグレアは、文字通り命を懸け、体を張ってエルゼリを守ってくれた相手だ。どうしてそんなことが言えるだろう。いや、いっそそうやって嘘をついてでも、シグレアに背を向ければよかったのだろうか。
(でも……そんなこと。)
誰かに必要とされて、大事にされたい。喉から手が出るほど渇望していたものを差し出されている今、それを自分の手で振り払うなんてことがエルゼリにできるはずがないではないか。
まさかシグレアにそこまで見透かされているとまでは思わないが――だからこそ先ほどの言葉はエルゼリに突き刺さった。詰るでもなく、背を向けるでもなく、彼はエルゼリに対し勇気のなさを突きつけてきたのだから。
「確かに私はただの小娘です。普通に考えたら、あなたを殺すなんて、とてもできない。でも、私の中には間違いなくあなたを殺せるだけの力がある。それも、私の意志でコントロールできないものが……。それなのにどうしてそんなことが言えるの。」
「根拠ならありますよ。」
血を吐くような気持ちで吐き出した言葉を真っすぐに弾き返されて、今度こそエルゼリは絶句した。
「あの時。ふがいなくも私は死にかけておりました。あなたの目の前にはジルバがいたはず。そうですよね。」
その場面はすぐに脳裏によみがえった。もちろん細部を細かく記憶しているわけではない。炎の熱、倒れ込んできたシグレアの真っ白な瞼、べとりと触れた生ぬるい血の匂い、目の前で恐ろしい形相をしたジルバが躊躇うことなく剣を振り下ろそうとしたことが断片的に浮かんでくる。
確認するように尋ねられ、ただ馬鹿みたいに頷く。涼し気なシグレアの瞳が、すうと静かに細くなった。
「エルゼリアード様。あなたは自分が生き延びるためだけに、ジルバを殺したとおっしゃいましたよね。ですが……私や、あの場にいた人のすべてを癒し、助けてくださったのもまた、あなたです。あの時、無意識にでもそのように力を振るわれたことこそ、証明たりえるのではありませんか。」
想像外の言葉に、一瞬頭が真っ白になり――足から力が抜けそうになった。目の前では真剣そのものの表情をしたシグレアが、エルゼリの言葉を待っている。
喉の奥が干上がっている。ごくりと一つ、ろくに沸き上がりもしない唾液を飲み込む。
まったく根拠のない話だ。たまたまそのような結果になったというだけのこと。だがシグレアは結果に対し、欠片も疑問を抱いていないように見えた。
めちゃくちゃだと思う反面、シグレアの言葉を信じたくなってしまう自分もいる。エルゼリに対して、こんな風にほとんど無条件の信頼が向けられたことは、かつて一度もなかった。それこそ、血がつながっているはずの両親からでさえ。
「まさか、それが根拠? そんなの……ただの偶然でしょう……?」
「そうでしょうか。」
「だって私はあの時、そんなこと考えてませんでした。私もシグレア様も、ここで死ぬのかって……ただそれだけ。」
探るようにこちらを見つめる氷の色をした瞳から逃れたくて、エルゼリは視線を下に向けた。
死にたくない。生きていたい。あの時、エルゼリの頭の中を占めていたのは、そんな願いだけだった。誰かを癒そう、助けようなんて大それたことを考える余裕もなく、ただ近付いてくる死の気配に恐怖していた。
ただの臆病者だ。自分が助かることしか、考えていなかったのだから。
エルゼリの言葉に何を感じたのか、シグレアが微かに息を吐き出す。その気配に気が付いて顔を上げ――ぎくりと心臓が不自然に鳴ったような気がした。
シグレアが、笑っている。
「それこそが、根拠ですよ。」
「は?」
本気で何を言われているのかが分からず、エルゼリは唖然とシグレアを凝視した。
「あなたは、少なくとも誰かをやみくもに傷つけるようなお方ではないということです。ご自身のお力も含めて。あなたは混乱なさっていた――あの場にいたありとあらゆるものを壊すことだって造作もなかったでしょうに、そうはなさらなかった。」
「……。」
「確かにあなたには恐ろしい力があるのかもしれない。ですが私には剣の腕がございます。騎士として厳しい修練も積んでまいりました。あなたがそういう力をお持ちであると知っていれば、自分の身くらいならば自分で守れます。」
そんな馬鹿なとか、やっぱりそれは楽観的に過ぎるとか、言うべき言葉はいくつもあるはずだった。だがもう、言葉が出てこなかった。
エルゼリが持つのは、呪文や意志で制御可能な、形の定まった力ではない。そしておそらく父や母の反応を考えれば、エルゼリ以外に持ち主がいない……あるいは知られていない、稀有なものだ。
それこそエルゼリは、悪意を持って何もかもを殲滅することも、人の心を覗き見ることも、あるいは心を狂わせることもできるはずだ。音を媒介にする以上、どうしてもその範囲だけは限定されてしまうが――それでも、恐ろしい力であることに変わりはない。
その片鱗を目の前で見せられておきながら、それでもエルゼリを信じるとこの人は言いきったのだった。エルゼリの力にも負けぬ、と。
あまりにも根拠のない暴論と聞こえる。だがその言葉に、心を動かされてしまっている己がいるのもまた事実だった。
何よりエルゼリ自身が、本当にシグレアが言う通りであればいいと思ってしまっている。誰彼構わず傷つけたりしない。もしもエルゼリがシグレアを傷つけそうになった時にも、シグレアならばエルゼリに負けない――そうであったら、どんなにか。
思わずエルゼリは確認するようにこう口にしていた。
「……正気ですか?」
「正気です。気を違えているように見えますか。」
「じゃあ、冗談とか?」
「教会が崩れたとはいえ、ここは聖なる土地です。そんなことは申しませんよ。」
淡々と追い詰められてエルゼリはたじろぐ。
冗談であってほしかった。本気で言っているのが分かるから性質が悪いのだ。
シグレアはこう見えてかなり頑固な人だ。そして、恐ろしく堅物で真面目な人である。エルゼリが今更何を言ったところで、折れてくれるような人ではないのは分かりきっている。
そう思い当たったとたん、じわりと、諦めとも安堵ともつかないものが胸の奥を満たした。
今もエルゼリは己のことが信じられない。内側に息づく力が誰かを傷つける可能性に、いつだって怯えている。それでも。
エルゼリに傷つけられたりなどしないと言ってくれるこの人を、信じたい。
「良い機会です。確認させてください。」
手を伸ばしてくれる人が今、ここに居る。シグレアはエルゼリの力の発動を、それも目の前で人を殺してしまった場に居合わせたうえで、それでもなおエルゼリを信じると言っている。エルゼリは――その手を取っても、いいのだろうか。
「先日のお答えを、お伺いしておりません。……私を、側においていただけますよね、エルゼリアード様。」
エルゼリの心に巣食っていた恐れや不安をあっさりと躱したシグレアが、跪いたままで諾の返事を待っている。
差し出された心を、相手の幸せを願いつつ無視できるほどには、エルゼリは大人ではなかった。だからといって心の赴くままに縋りつけるほど子供でもない。
散々考えて、ようやく告げた言葉はあまりにも可愛げがなかった。
「……分かりました。ですが、度を過ぎた過信は、シグレア様の身を滅ぼしますよ。私のそばにいるつもりなら、充分ご注意なさってくださいね。」
「肝に銘じましょう。――エルゼリアード様。ありがとうございます。」
それだけでこちらの返事を察したのだろう。シグレアがまた微かに笑ったのが分かった。きっと見慣れない人には分からない程度の、ほのかな笑みだ。それでもシグレアの整いすぎた顔立ちから受ける印象は大きく変わる。その変化の鮮やかさは、間近で目の当たりにするエルゼリには分かりすぎるほどで、とても見ていられなかった。
※ ※ ※
今にも泣き出しそうな顔で精一杯の嫌味を吐き出した彼女の手を引き、歩き出しながら、シグレアは詰めていた息を吐き出した。
この剣を預けるに足るたった一人をようやく見つけて、受け入れてもらえた。望外の喜びが胸を満たしている。
騎士として生きることのない彼女には分からないかもしれないが――誰のために、何のために剣を振るうか。この道を見出すことこそが、本来の騎士の道である。方向を持たぬ、見出さぬ力は、ただの暴力でしかありえない。そこに正しい方向を与えてはじめて、騎士は騎士となりえるのだ。
『……どうしてそんなこと言いきれるの。』
周囲も、自分さえも信じられずに生きてきたのであろうエルゼリアードの目は、それでも真っすぐにこちらを見る。まるで心の奥底を透かし見るように。そこには恐れも驕りもない。ただ事実を見極めようとする静寂があるばかり。……まだ幼くはあるが、それでも彼女こそが命を、剣を預けるに値する人だ。彼女の目を見るたびに、シグレアにはそう思えてならない。
かつて剣を手にすると決めた時、父親に言われたことがある。
(『捧げるべきを持たぬ剣は愚かなり』……か。)
正しきを成すために、信念をもって力を振るえと教えられていたにもかかわらず、シグレアはそうすることができなかった。しかしエルゼリアード王女は、教わってもいないはずなのに、その本質を理解している。だからこそ己の力を恐れ、人を遠ざけようとする。これまでの不遇を思えば、あるいはその年齢を考えれば、真っ先に人のぬくもりを求めても許されるはずなのに。
稀有な人だ。この人についていきたいと思わせるものを、彼女は確かに持っている。クルスに感じたものとはまた違う。もっと静かで、自然と頭を垂れたくなるような――。
(あるいはこれが、本来王となる者の気質なのか……。)
最早彼女がその座に就くことはないにしても。いや、彼女が何者であろうと関係ない。シグレアは既に己の剣を、もっと言えば命を、彼女に預けると決めた。
――約束は、守らねばならない。何を差し置いたとしても、必ず。
彼女の命を守るのは当然のこととして。己のこともまた守らねばならない。
エルゼリアードに告げた言葉に嘘は一片たりとも混じっていない。それでも彼女の力のすさまじさをシグレアもまた目の当たりにしている――己の命にそれだけの価値があるとは思わないが、もしもシグレアがエルゼリアードの力の前に屈すれば、彼女の心は傷ついてしまうだろう。
崩れた教会を背に、誓いを立てる。口に出さず、相手にも告げず。
エルゼリアード王女を残して死ぬことだけはすまい、と。
手を繋いだまま、言葉もなくエルゼリアードと二人、坂を下る。
歩を進めるに連れて街の喧騒が近づき、教会の静寂は遠ざかっていく。不敬を承知でつないだままの小さな手は、かすかに暖かいような気がした。