27 胸のかさぶた
「おやっさーん、出していいよ!」
「あいよっ!」
少年が乗合馬車の扉を閉め叫ぶと、馬車の前に座った御者が鞭を鳴らした。ヒン、と一声馬が嘶く。
すぐにガラガラと車輪が回り、馬車が走り出した。
緩やかな進みはあっという間に道行く人の速度を追い越した。屋根のない簡素な馬車だ、速度が上がるのに比例して頭の上から被ったフードがバタバタと音を立てはじめる。時折そこに馬車の揺れる音が重なった。馬車は円形広場をまわりながら、速度を上げつつ道を曲がる。教会の方向へ向かう道なのだろう。道は緩やかな上り坂に変わった。
エルゼリは己の顔を隠すフードを両手で押さえながら、流れていく街並みを見下ろしていた。前回クルス達と歩いた道とは異なる道らしく、どの家にも見覚えがない。
「あ、」
進行方向の一角にエルゼリの目が釘付けになる。ずらりと屋根が並ぶ中、そこだけ家が立っていない角地だった。家に面していたと思われる石畳はいくつかがめくれ上がり、補修もされていない。そこにいくつもの花が捧げられている。不幸な何かによって壊された家であることは事情を知らないエルゼリにも分かった。
ぐんぐんと角地が近づく。その時、献花の前に立っていた人のうちの一人と、エルゼリの視線が絡み合った。だが馬車は止まることなくその場所を通り過ぎ、結びあった視線はあっという間に途切れる。家の惨状も通りの向こうに飛ぶようにして消えた。
言葉もなくただ後方をじっと見つめるエルゼリの隣で、シグレアが静かに囁いた。
「ああいう場所は他にもあります。……円形広場よりも向こう側に行けば、あちらこちらに。」
それが分かっていて、前回はここを通らなかったのか。どうしてあの日、途中から徒歩だったのかを察して、エルゼリは目を眇めた。
「あれも、戦争のせいなのね。……私たち王族の。」
「あの家の被害は我々に起因するものです。それにあなたは少なくとも、この件に関与してはいない。」
「それでも戦争の引き金を引いたのはこの国の王族でしょう。私も完全に無関係とは、言えない。」
たとえば一人の人が一人を殺したとして。多くの場合において、その責は相手を殺した犯人が負うべきものだろう。
だが戦争となると話は変わってくる。一対一ではなく、多数対多数であればなおのこと。誰もその責を正しい意味では負うことなどできない。そのために組織には「上」がいる。
戦いを起こしたのは誰か。民衆を集め、国を相手に戦いを始めたのはクルスだが、その引き金のきっかけを作ったのは王だった。……顔も碌に思い出せない相手だが、エルゼリは確かに彼の王の血を引いている。責任を突きつけられても仕方がない立場なのだ。こんな風にシグレアに気遣われる立場では、間違ってもない。
(私を殺したいほど憎いと思っている人は、いっぱいいるでしょうね。それなのに私、こうして生きてる。それどころか死にたくないだなんて……酷いわね。)
自分が生きるために他人を犠牲にした。どこが国王と違うものか。
(まったく同じ……。)
フードを目深に抑えつつ、エルゼリは自嘲した。
※ ※ ※
揺られること数分。あっという間に坂道を登り切って、馬車はゆっくりと教会の前に止まった。
「まいどありー!」
快活な礼の言葉とともにシグレアから代金を受け取り、少年はひらりと馬車の後ろにおさまった。すぐに馬車は走り出す。石畳を蹴る車輪の音が、坂道を転がるように走る姿がみるみる遠ざかっていく。
たった二人残されたエルゼリとシグレアは、正面に見える教会の跡地をただじっと見つめた。……いい陽気だ。太陽の光が燦々と空から降り注いでいる。だがあれほどいた信徒の姿はひとりもいない。神官の姿も見えない。
――教会は殆ど崩れ落ちていた。幾つもの巨大な柱や、壁の一部と思われる構造物、壁と一体化した形で残された二階部分の一部が、部屋の内側を丸ごと剥き出しにしたまま残されているほかは、名残と言えるようなものがほとんど残されていなかった。あの日エルゼリを魅了した見事なステンドグラスの部分も完全に消え失せ、開いた大穴からは教会の裏手に広がる木々の群れが見えている。壁はところどころまだらに変色し、火災の激しさをうかがわせた。僅かに残された白い瓦礫が、黒との対比でいっそう鮮やかに見える。
敷地内では、何人もの男が作業をしている最中だった。崩れ落ちた石を退けたり、残ってしまった構造物を引き倒したりしている。一度更地に戻し、再度立て直すのだろう。爆発によって致命的なダメージが与えられてしまっているのであれば、それもやむないことなのかもしれない。もったいないことだ。本当に綺麗な建物だったのに。
「全部崩してしまうのね。」
「天井や壁の一部が崩落してしまいましたし、ステンドグラスも爆発で吹き飛んでしまったそうですから。壁や柱にもひびが入って、いつ崩れるか分からないからと。」
緑豊かな芝生と、白い石で覆われた道はそのままだが、教会だけが原型をとどめていない。だがすべて崩し終るのにはまだしばらく時間がかかるだろう。爆発による無差別破壊と異なり、ロープや滑車を利用しての解体作業は重労働だ。安全性を確認しながらの作業であればよりいっそう。
じっとその末路を目に焼き付けながら、エルゼリは静かに呟く。
「……ここに来れてよかった。」
「どうして、とお伺いをしても?」
――形が完全に失われた後では、胸に痛みを残すのは難しい。ただでさえ人は忘れていってしまうものだ。エルゼリがかつて受けていた扱いの数々を、細部にわたって思い出すことが難しいように。父や母の死に顔を思い出せないように。先ほど食べた美味しいリゾットの味を、明確に思い出すのが難しいように。
だから、形があるうちにもう一度だけ確認しておきたかった。自分がやったこと、その結果を。
「私がいたから、この教会が壊された。忘れてはいけないことだと思いますから。」
「ですがそれはあなたのせいでは、」
「私のせいでもあるでしょう? 少なくとも私は、私が生き延びる、ただそれだけの利己的な理由のために、ジルバ様を殺しました。」
記憶にはないが、それでも彼の魂の悲鳴は覚えている。繋がった記憶から流れ込んだ絶望も。何もかも炎の中に消えてしまった。間違いなくエルゼリの手によって。
シグレアの声がわずかに険を帯びた。
「あなたは正当防衛、という言葉をご存じないのですか。」
「私が、私を理由に人を傷つけたのは、事実でしょう。それを忘れてはいけないと思うんです。」
「誰だってすることですよ。あの時のあなたの状況ならば、仕方がない。」
「そうかもしれません。でも、じゃあ開き直っていいのかと言ったら、違うでしょう。」
緩く首を振り、エルゼリはシグレアを見上げた。横並びよりも半歩後ろに立つシグレアの表情は殆ど窺えない。丁度背中の方に太陽があるから、フードに隠れたシグレアの顔は影に入ってしまっている。
だがきっと、彼の眉間には皺が寄っているはずだ。機嫌が悪いときはもちろんのこと、シグレアは思い悩んだ時にそんな顔をする。冷たく整った容姿をした人ではあるが、根本的に優しい人なのだ。付き合いがそれほど長いわけでもないエルゼリにまで心を砕いてくれるほどなのだから。
苦笑をこぼしつつ、エルゼリは言った。
「そんなに優しくしてくださらなくて、いいんですよ。そんな資格、私にはありません。」
「……エルゼリアード様。」
咎めるように名を呼ばれて、エルゼリは笑った。
「どうしてあなたはそんなにご自分に厳しくされるのです。」
「――怖いから。」
「怖い?」
確かめるような声に促され、エルゼリはきっぱりと頷いた。
「怖いからです。私には、誰かを傷つけるだけの力があります。感覚で知ってはいましたけど――あんなことになって、はじめてきちんと、分かりました。分不相応な力なんだって。恐がられて当たり前の力なんだって。」
この力。
音によって現象を引き起こす、不定形のエルゼリの魔法は、エルゼリが物心ついたその時から常に身近なところにあった。見えない手足のようなものとも言えるだろうか。だからこそエルゼリはこの魔法の恐ろしさを本当の意味では分かっていなかった。もちろん、隠すなんて思いもよらないことだった。ごく当たり前のように父や母の目に触れ――そこからすべてはおかしくなった。
『やめて! やめて、おかあさま!』
『やるのよ! さあ! 言うことをお聞き!』
がぼがぼと水がめに顔ごと突っ込まれ、息も絶え絶えのエルゼリの手が、半死半生の見知らぬ誰かの額に押し付けられる。その瞬間、エルゼリの口から零れる悲鳴、溢れ出す魔力の渦――どっと頭の中へと押し寄せる血の匂い、記憶、相手の人生。エルゼリと相手との境目は曖昧になり、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。どれが己の、どれが相手の記憶? たびたび崩れる境界線に、幼いエルゼリの心は早々に悲鳴を上げた。
他人の頭を覗き見るのことが、エルゼリに課された仕事だった。もちろん覗き見た後は洗いざらい見たことを吐き出させられる。その後にようやく食事だ。味のしない食べ物をそれでも何とか胃に押し込み、次の召喚がかかるまでの間眠りにつく。日の光を浴びることは稀で、閉じ込められた城の地下と牢獄を往復するばかりの日々。時間の経過は酷く曖昧だった。一日というサイクルはそこにはなく、淡々と消化される日々だけが横たわっていた。
今思い出そうとしてもはっきりと思い出せない、永遠に続くと思われた日々はしかし、それしか知らないエルゼリにとっては身になじんだものだった。自分が傷つけられて当たり前の世界に生きていたあの頃のエルゼリであれば、相手を殺して自分が生き延びようなどと考えはしなかっただろう。
だがエルゼリは変わってしまった。安寧を知り、外の世界を知り、死にたくない、自分こそが生き延びたいと思えるように。
それは、果たして正しいことなのか。エルゼリには分からない。
「もしもあの日に戻っても、私はきっと、自分が生き延びる道を選んでしまうと思います。認めざるを得ないです。それが、怖い。」
被害が限りなく小さく済んだと言われても、エルゼリがジルバの命を奪い取ってしまった事実は変わらない。きわめて利己的な、己が生きたいという理由だけで、相手を顧みることもなく。そういうことが、エルゼリにはできる。
両手に絡みつく奴隷の紋。それを隠すようにつけられた鉄の封印と、その上に巻き付けられたエマの心遣い。この体に宿っているのはエルゼリ自身にも底の見えない恐るべき力。
封印は、どうやら完全ではない。エルゼリの体内を巡る不可視の力は、ため込んだ分だけその力を増してしまっている。今回の事故は、エルゼリの制御がなっていなかったという以上に、この力がエルゼリの手には余り過ぎるという事実を露呈した。
いっそ死ぬのが自分だけであればまだしも安心できる。問題は、ああして感情の波にのまれた時、またもう一度同じ現象を引き起こしてしまうこと。――その結果。今となっては両親がエルゼリを恐れた気持ちも分からないでもない。コントロール不能の、ただただ大きいだけの力を持つ子供なんて、恐ろしくてたまらなかったことだろう。そんな化け物が自分達の血を引いているだなんて。
「シグレア様は私のことが、怖くはありませんか。私は、私が怖いです。いつ誰をどうやって殺してしまうか、分からないですもの。もしかしたらあなたのことだって殺すかもしれません。たった一時の感情で。……恐ろしいでしょう?」
自分でも気が付かないうちに下に落ちていた視線を、無理やりにシグレアの方に向ける。
恐れられても仕方がない。嫌われたとしても、それもやむないこと。自分自身でも受け入れ切れない自分のことを認めてもらおうなんて、甘すぎるのだ。
だったら、今すぐにここで、はっきりと拒否されてしまいたい。他でもない、シグレアに。
シグレアは優しい。それは今までも十分すぎるくらいに感じてきたことだ。
だからこそその優しさを受け取りたくなる自分が嫌になる。そんな資格があるものか、と。
恐ろしい事件の結果は今、目の前にある。エルゼリの力を目の当たりにして、態度を変えない人はいない。――エマは知る限り唯一の例外ではあるが、その彼女だってエルゼリが己の命可愛さに力を発動させ、目の前で誰かを殺せば、恐れおののくことだろう。ましてやエルゼリの力を知らなかったシグレアがエルゼリを嫌うとしたら、それは当たり前のこと。
それだけならばまだいい。……シグレアはエルゼリに仕えたいとまで言っている。このままずるずると一緒に居たら、エルゼリは彼に甘えてしまうようになるだろう。心までもしも預けてしまったら――その果てにもしも喪失があるとしたら。それも、エルゼリ自身の手によってシグレアを失うことになるのだとしたら。
だったら今この場で切り捨てられた方がましだ。
そんな気持ちで見上げた先で、シグレアが緩く首を振った。
「いいえ。」
……嘘だ、そんなの。
信じられない気持ちで、エルゼリは瞬く。零れ落ちそうなくらいに目を見開き、シグレアを凝視する。震えそうになる唇を一度噛んで、みっともないくらいにかすれた声でエルゼリはようやく口にした。
「嘘。」
「嘘ではありませんよ。」
「……嘘でしょう。誰だって怖いと思うに違いありません。」
あなただって。言外の言葉に気が付いてか、シグレアは再度静かに首を振った。
「確かに恐ろしい力なのだろうと思います。私はあの時あなたと一緒にいた。魔法に対する造詣はありませんが、あなたから噴き出した魔力が尋常じゃなかったことくらいは分かっています。」
シグレアが言うことはもっともだった。彼が一番近くで、エルゼリの暴走を見ていたのだ。
「だったら……。」
「それでも、」
外套が地面にこすれ合うことにも頓着せず、静かにシグレアが腰を落とした。一気に視線の距離は縮まり、エルゼリはそのことに酷くたじろいだ。
「私の命を救ってくださったのは、あなただ。……どうしてあなたを否定できましょう。」
想像もしない答えに、全身から力が抜けそうになる。
嘘。そう言いたかったが、できなかった。
エルゼリが言葉を飲み込まざるを得ないほど、シグレアの目は真剣で――とても嘘をついているように見えなかったからだ。
いつの間にか喉の奥がからからに干上がっている。シグレアの涼やかな顔を凝視したまま、逃れることもできずにただ言葉の続きを聞く。
「あなたの力は確かに恐ろしいものかもしれません。ですが、その力の持ち主があなたであればこそ、私は恐ろしいとは思いません。」
「そんなの、嘘よ……。」
頭の中でぐるぐるとその言葉だけが空回りする。
期待させないでほしい。今だったらまだ間に合う。エルゼリはシグレア切り捨てて忘れることができる。シグレアだって。
長い長い、にらみ合いにも似た時間が続いた。先に折れたのはシグレアの方だった。
「どうすれば信じていただけますか、エルゼリアード様。」
「……シグレア様を信じられないんじゃないんです。私が、私のことを信じられないだけで……。」
「同じことでしょう。私はあなたを信じています。ですが、私が信じているあなたを、あなた自身が否定している。――これでは私のことを信じていただけないことと、同じでは?」
「そんなの、詭弁ではないですか……。」
「では言い方を変えましょうか。私はあなたに殺されるほど、弱くはないつもりです。」
胸を突く言葉だった。
それこそが今一番、エルゼリが恐れていることなのだから。