26 王都ファルマーナ(2)
会話をなんとか続けようという努力は早々に尽きた。エルゼリにしてもシグレアにしても、そもそもそれほど口数の多い方ではない。名前をうかつに呼ぶこともできない中で無理をして会話を続けるというのは、エルゼリにはハードルが高すぎる。
よくよく考えればシグレアと二人きり、というのはあの事件の時以来のことだ。口を開くことを諦め、向かい合わせで座った彼の顔を盗み見るようにしながら、エルゼリは静かにそんなことを考えた。
あの時はとにかく、何かを深く考えられるような時間的精神的余裕はまったくなかった。ただ、必死だった。今もこうして息が出来ていて、彼とともに街に降りることができているということ自体が、不思議でならない。
シグレアの方は静かに店内を眺め見ているようだ。もしかすると周囲を警戒しているのかもしれない。エルゼリにはそのあたりの機微は分かりっこないが。
それにしても。こうして改めて観察して思う。シグレアは本当に美しい。目の前の光景がそのまま絵画のようだ。ありふれた街の一角、それほど目立つ場所ではない小さな店。その一角に腰を下ろし、涼しい視線を流すシグレア。口を開かず、時々の瞬きの他、彼は静かにじっと座っている。そうしているとなおのこと一枚絵のように見えてくる。
実際のところ、城内に放置された幾つもの絵画や彫刻、石膏像。文句なしに美しいそれらと比較しても、シグレアは何一つ劣ってはいない。同じ人間だと言われてもにわかには信じがたいことだが、確かに彼は生きていて、今エルゼリの目の前にいるのだった。
長い睫、深く落ちる影、すっと通った鼻筋に、骨の色を透かしそうな肌の白。そこにかかる髪や睫毛は白銀の色をしていて、絵本でしか見たことのない雪景色を思わせた。一つ一つのパーツを見ていけば優美さが際立つのに、全体を見た時にはそこになよやかさや女性的な印象はまるでない。むしろ無駄なくそぎ落とされ、骨の形を透かすあちらこちらのパーツがどうしたって騎士としてのシグレアを感じさせる。
「どうかしましたか。」
不意に視線を咎めるように尋ねられて、慌てて「いいえ!」と首を振る。まさかあなたの顔を見ていました、とも言えない。正直、ただ見とれたいただけだし疚しい気持ちは一切ないが、それをうまく説明できるような気はしなかった。そこから先はまた沈黙だ。シグレアの方も一度首を傾げはしたものの、有難いことにそれ以上こちらに何かを聞いてくることはなかった。
幸いにもそれほど待たないうちに、ガラガラとカートの音が近づいてきた。と同時に鼻の先でなんとも言えない甘酸っぱい香りがはじける。トマトソースの匂いだ。カートを引きながら現れたのは先ほどの女だった。
「はいよ! お待たせ。こっちがお嬢さんのね。トマトとチーズのリゾット。浮いてる葉っぱは香草だからね、ゴミじゃないよ! ……それとあんたのはいつも通り。香草の炒め物とハンバーグ特盛り。トマトスープは奢りだから代金は要らないからね。」
カートに載せられていた皿が、女の手によってドン、ドン、と実に大雑把な手つきでテーブルの上に並べられていく。それなりの広さのテーブルはしかし、すぐに皿で埋め尽くされた。
「はい、これで全部! ナイフとフォークはこっち。あ、これ伝票ね。食べ終わったら代金はテーブルの上にでも置いておいてくれればいいから。」
「分かった。」
茫然としたままのエルゼリを置き去りに、シグレアが軽く頷く。女将はそっけないシグレアの態度にも気を悪くした風もない。快活に笑った。
「じゃあね、シグ。ちゃんとまた顔出しなさいよ、まったくあんたは薄情なんだから。お嬢さんもまたね、シグみたいに愛想のない奴でも、訳アリ客でもうちはいつでも歓迎よ。」
「おい。」
鋭い刃のような視線に込められた、余計なことを言うなという言外の牽制にも彼女はまったく動じない。
「あーあ怖い。顔が綺麗な奴が怒るとおっかないよ。あははは。」
あっさりと話を切り上げて、女将はカートとともに去っていく。
彼女が一人去っただけで、店内はまたシーンと水を打ったように静かになった。他の客も何組かいるのだが、どうもこの店の中は喧噪から遠い。
いや、しかしそれよりも。エルゼリは目の前に広がる光景にただただ唖然とした。
「……? どうか?」
「し、シグ……あ、いや、その。ええと……随分、食べるんですね?」
対面に座るシグレアに向かい、エルゼリは恐る恐る問いかけた。たぶん顔も引きつっているだろう。目の前の光景がそれだけすごいのだ。
エルゼリ用に用意されたリゾットは、おそらく普通の分量なのだろう。エルゼリが両手を広げたくらいのスープ皿に丁度一杯分。食の細いエルゼリでは食べきれないかもしれないが、とはいえ常識を大きく外れた分量には見えない。
だが対するシグレアの方は、と言えば。
「痩せの大食いとよく言われます。……まあ、これでも騎士ですので。」
少々決まりが悪そうな様子で言ったシグレアの目の前には、エルゼリのスープ皿とほとんど同じくらいの特大のハンバーグが盛り付けられた大皿が一枚と、山と盛り付けられた炒め物の皿が一枚。さらにエルゼリ一人では三食分くらいになりそうなほどの白米が盛り付けられた皿が一枚と、どうやらハンバーグの付け合わせと思しき茹で野菜が載った皿が一枚。この合計四枚の大皿の隣に、エルゼリと同種のスープ皿が置かれている。たぶんこれがトマトスープなのだろう。普通サイズのはずの皿が小さく見えるのは一体どういうことなのか。先ほどまではがらんと何もなかったテーブルの上が、今では相当圧迫されている。
……シグレアと食事を共にするのはこれが初めてのことだ。いや、そもそも誰かと一緒に食事の席に着くこと自体が初めてかもしれない。だがはっきりと言える。これはたぶん普通の量ではない。
「全部食べきれるんですか? これ。」
「もちろんです。さ、食べましょう。ここの食事は私の贔屓目を除いても良い方だと思います。あなたの口にも合えばいいですが。」
結論から言えばエルゼリはリゾットの皿を空にすることができた。
「……美味しかったです。」
自分でもびっくりしながら空になった皿を見つめる。先ほどまではなみなみとトマト色に染まっていた皿は、今ではすっからかんだ。
一口リゾットを含んだ時、弾けるように広がったトマトの酸味の向こうに、うっすらと塩味と甘みが広がった。これはチーズの味だろう。
どちらかと言えばスープが多めのリゾットだ。奥底を掻き混ぜると柔らかく炊きこまれた米が顔を出し、口の中で柔らかく砕けた。次にスープの底から現れたのは、さいの目に切られたキノコの類だ。他にもいろいろな野菜が入れられていたようだが、エルゼリにはどれが何なのかまでは分からなかった。ただ美味しい、それだけ。
三口目が口の中で溶けると、あとはもうあっという間だ。スプーンは忙しなく口と皿の間を往復した。それしか覚えていない。
ほとんど無言で食べ続けたことを思い出し、エルゼリは今さらながら恥じ入るように赤くなった。かなり余裕のない食べ方をしていたはずだ。それももう今更なのだが。
ちなみにエルゼリが一皿を食べあげる頃には、シグレアもテーブルの上いっぱいの皿すべてを空にしていた。服に汁が飛んでいるとか、皿の上がぐちゃぐちゃということもないから、おそらく素早くも美しい所作で食べていたのだろう。もったいない、見ておけばよかったとエルゼリはどうでもいいことを考えた。正しく現実逃避だった。
「お口に合ったようでよかった。」
己のマナーの悪さを反省中のエルゼリを責めるでもなく、シグレアがほっとしたようにそう言い、口許を優雅にナフキンで拭う。
「美味しかったんです。……ちょっと、甘い味がして。酸っぱいトマトの味だけじゃなくて、もっと別の……。」
うまく説明ができない。なんとかこの味を、食べた時の気持ちを伝えたいとは思うのに。
咀嚼していた時のことを思い出そうとしても、美味しかったということ以外に言葉が出てこないのだ。だがそれでは伝わるまい。なんとか、思いつく限りの言葉でこの感動を伝えようと思うが、うまくはいかない。圧倒的に語彙が足りていない。
だがエルゼリの拙い言葉にも何かを感じ取ってくれたのだろう、シグレアがエルゼリに問いかけてきた。
「あなたは、甘いものがお好きなんですか。」
「好き? 甘いものが……?」
問われて、はたと考える。甘いもの。エルゼリが知っている限りでは氷砂糖とか、花の蜜とか、時々エマら侍女達が隠し持ってやってきてくれた飴玉とか。ああ、最近口にした果物も甘かった。エマが手ずから作ってくれたアップルティーも、砂糖をとかせばほんのりと。甘酸っぱい香りが喉から鼻へと抜けていき、林檎を口にしているわけでもないはずなのにその味が口の中いっぱいに広がって本当に不思議だった。
思い出しただけで胸がふわふわとした。この気持ちは分かる。エルゼリは半ば確信をもって頷いた。
「好きなんだと思います。……たぶん。」
「たぶん?」
首を傾げたシグレアに、エルゼリは苦笑しながら答えた。
「私は、いままであまり食べ物の味のことを考えたことがありませんでした。それが美味しいのかどうか、私はそれを好きなのかどうか、そういうことは、一切。」
食べることは生きることだった。最低限は保障されていたが、逆に言えば供されたそれがどんなものであれ、エルゼリは口に入れなければ生きられなかった。味なんて二の次だ。このような生活をするようになってからは徐々にものの味が濃く、強く感じられるようになってきているが、それまではまるで砂を噛むようにしか味を感じていなかったように思う。
エルゼリの言葉にシグレアの表情は目に見えて曇った。
そうして、しばし何かを考え込むように黙り込んだかと思うと、手にしていたナフキンをテーブルに戻し、立ち上がった。
「……ちょっと待っていてください。」
「え?」
そのままどうやら奥の方――先ほど女将があちらの方から来たことを考えると、向こう側には厨房があるのではないかと思う――へとスタスタと歩いていく。すぐに背中は柱の陰に隠れて見えなくなった。
壁が薄いのだろう、ほどなく話し声らしきものが聞こえてきたが、その内容は判然としない。低い声はおそらくシグレアのもの。それよりは幾分高い声は、あの女将のものだろうか。そう言えば名前を聞きそびれてしまったなと思う。
何度かやり取りが続いて――すぐにシグレアが戻ってきた。すぐにポケットから革袋を取り出し、その中から幾らかの金をテーブルに置く。お代なのだろうが、金の計算ができないエルゼリにはそれが多いのか少ないのか、あるいは丁度なのかは分からなかった。
「用事が済みました。行きましょう。……外に出ますから、フードを戻して。」
「はい。……ええと、ご馳走様でした。」
フードを戻しながら礼を言い、エルゼリも立ち上がった。
※ ※ ※
早い昼食を終えた二人が外に出る頃には、露店を冷やかす通行人の数も少し落ち着いたようだった。エルゼリに合わせゆっくりと歩くシグレアが、かすかに首を傾げたエルゼリにその理由を教えてくれた。
「早いうちに店を出す露店は、このくらいの時間になると店じまいにかかってしまうんですよ。客もそれを分かっているから、朝の方が人出が多いんです。」
確かに先の様子を知った後にこの状態を見ると、人通りが少ないように感じる。とはいえ充分すぎるほど賑やかだが。しかしよく見ればどの露店も売り物の数を減らしているようだ。めぼしいものは早いうちに売り切れていくということなのだろう。
世間話に興じる人達や、通りで遊ぶ子供たち。そぞろ歩く街の人。どこまでも続く七色の張り出し屋根の通りを、二人は連れ立って下っていく。
二十分程緩やかな坂を下り続け、ようやく中央広場にまでたどり着く。以前来た時と同じように、中央の広場には馬車がいくつも止まっているのが見えた。あの時と同じようにいくつかのテントも出ている。時々通過していく馬車の軽快な車輪の音、馬の蹄の音が耳に心地よい。
シグレアは広場の方には入らずに、広場の正面で足を止めた。
「教会に向かう馬車がこちらから出ます。」
指で示されたのは小さな立て看板だ。木の板で作られたそこに、矢印と行き先らしき文字が書かれている。おそらく文字が読めない者にも理解できるようにだろう、行き先の文字の下には教会の絵も描かれていた。
ほどなくして、屋根のない乗合馬車が通りの向こうからやってきた。以前乗ったものとは比べ物にならないほど簡素な、飾り気のない馬車だ。馬は以前と同じく二頭立てだが、背後にくっついている馬車は黒塗りの箱のように見える。
数名の客を乗せた馬車は、ゆっくりと減速し、二人の前でピタリと止まった。すぐに馬車の後ろから少年がひらりと降りてきて、乗合馬車の扉を開く。御者見習いだろうか。
馬車に乗っていた客がぞろぞろと降りてくる。五人を数えたところで馬車は空になった。
「まいどー。毎度ありー。……あれ、お客さん乗るの? この先は教会に行くだけだよ。今は修繕中だから中には入れないけど……。」
くるりと丸い目を瞬きながら少年が言う。シグレアが一度こちらに視線を向けた。フードの下から氷の色をした目がエルゼリを見ている。無言の問いかけに、エルゼリは大きくはっきりと頷いた。