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25 王都ファルマーナ(1)

シグレアに手を引かれたまま僅か数段ばかりの階段を下り、足を一歩、エントランスホールの外へと踏み出す。


久しぶりの外だ。

柔らかく差し込む太陽の光はフード越しにも眩しく、エルゼリは思わず目を眇めた。歩き出しながら見上げた空は青く、どこまでも澄んでいる。

足の裏に感じるのは細かな砂の柔らかさ。エルゼリが一歩足を踏み出すたびに、白い砂がシャリシャリと音を立てた。

正門に向かって真っすぐ伸びた道の左右には緑の芝が揺れて、屋内では感じ取れない青い匂いを運んできた。何もかもが鮮やかで、美しい。窓から眺めているのとはまったく違う。

大きく息を吸い込みながら、エルゼリは一歩、一歩と足を進めた。地面を踏む感触が体に馴染むにつれ、歩く速度も少し上がった。

歩くエルゼリとシグレアのすぐそばを幾人もの人が通り過ぎていく。王城に入る者、出て行く者。エルゼリはもちろん出て行く方だ。

王城に出入りする人の数はそれほど多くはない。だが城が解放されてからは市民らが自由に出入りできるようになったこともあってか、数えきれないほどの人とすれ違う。こんなに人が出入りしているなんて、エルゼリは今日この時まで知らなかった。

「どこか行きたいところはありますか。」

エルゼリに歩調をあわせながら、シグレアが尋ねる。迷いもなくエルゼリは答えた。

「教会へ。」

「……分かりました。街を抜けた先で馬車を捕まえましょうか。」

エルゼリの答えが想定内だったのだろうか、シグレアが静かに頷いた。


城門を抜けるまでにも以前とは比べ物にならないほどの時間がかかった。前回は馬車、今回は徒歩なので当然のことなのだが。


やっとの思いで城門を抜けた途端、目の前の通りの角からもう人がごった返している。エルゼリはシグレアと並ぶようにして、人ごみの中へと足を踏み入れた。


フードがまくれ上がらないように手で押さえながら歩くエルゼリの耳を、耳慣れない声が掠める。

「さーあ、安いよ安いよ! 寄っておいで、一串100ラーダだよ!」

「おばさん、一つ!」

「はいよ、持っていきな!」

「あっこっちにも! 肉の串三本と、そっちの野菜も……。」

石畳の道路に沿ってずらりと並ぶ露店。そのあちらこちらから掛かる客寄せの声はどれもこれも威勢がよく、ついつい視線はそちらに泳いでしまう。

なんて胸の踊る光景なんだろうか。大小様々な、色とりどりの生地で作られた張り出し屋根が下り坂の向こうまでずっと続いている。屋根の下には色とりどりの野菜や果物、あるいは織物、見たことのない用途不明の道具や雑貨が所狭しと並べられ、更に彩を添えている。肉を焼いて売っている店からはぷんと香ばしい香りが漂う。朝餉からまだ半日と経っていないが、歩いているせいか喉の奥の方で胃がきゅるりと音をたてはじめた。

街中が活気に満ちていて、人々は明るい。その只中に自分が身を置いていることが、エルゼリにとっては夢のようだった。きっと馬車の上からこちらを見たら、エルゼリがいることなんて誰も気が付かないだろう。まるで彼らの一部になれたような、不思議な錯覚さえ覚える。

それにしても凄い数の人だ。馬車の上から見ていた時とあまりにも印象が違う。身長の低いエルゼリはさながら絵本に出てくる小人族のようなものだろうか。人の波は空が隠れてしまうほどで、うっかりするとシグレアとはぐれてしまいそうだ。

――気が付けばシグレアの背中とエルゼリの間に見知らぬ人が入り込んでいた。このままでは早々、シグレアを見失い、迷子になってしまう。

慌てて手探りで人を掻き分け進もうとした手が相手の背中を押してしまったらしい。ぐるりと振り返った男に睨まれる。思わず竦みあがり、ごめんなさいと謝りつつ手を引き戻す。そこでうっかり立ち止まりかけた足は、さらに後ろから押されてつんのめった。

「わ、」

石畳に足を取られたと気が付いた時には、体勢が崩れていた。

驚くべきタイミングで振り返ったシグレアが、エルゼリの前に居た人を弾くようにして手を伸ばす。伸ばした手をぐいと引き上げられ、辛うじて転倒せずに済んだエルゼリは、ようやくほっと息を吐き出した。


フードの隙間から、シグレアの心配げな視線がこちらを見ている。立ち止まった二人の左右を、沢山の人が通り過ぎていった。こんなところで立ち往生をしては、周りにも迷惑だろう。人ごみを歩きなれていないのは事実だが、あまりにも気まずい。シグレアにはそういう場面ばかりに立ち会われているような気がする。

「ごめんなさい、歩くのが下手で……。」

「私の配慮が不足していました。申し訳ありません。手を。」

そう言えば最初につないだ手は、街に降りるまでの間にいつの間にか離れていた。恥ずかしいと思う気持ちもありはするが、かといってこんなところで迷子になる訳にもいかない。伸ばされた手に、今度は迷うこともなく、おとなしく手を重ねた。すぐにシグレアの手がエルゼリの手を包み込むように握り込む。

大人の男性の手だな、と思った。柔らかさはなく、がっしりと固い骨の浮いた手は、指先の部分が僅かに固い。エルゼリよりは日に焼けているとはいえ、元々持っている色素が薄いのだろう、男性にしては白いシグレアの肌は、しかしなよやかさには遠かった。

エルゼリが手を握ったのを確認し、シグレアがエルゼリの手を引くようにして歩き出す。ゆっくりと、エルゼリに歩調を合わせるように。

「気になるものがあれば言ってください。ご案内しますから。周りを見ながら歩くには、少々人が多いですし。」

「ごめんなさい。」

エルゼリが謝ると、シグレアが困ったような顔でこちらを振り返った。

「そんな。あなたに非があるわけではありませんから、謝らないでください。……私の言い方が悪いのかもしれません、そういうことではなくて……せっかくの機会ですから。あなたの希望に沿いたいと、それだけのことなのですよ。この先どれだけこのような機会があるか、分かりませんし。」

確かにその通りだ。いずれ北に向かうエルゼリにとって、この町を散策する機会はそれほど多く残されてはいまい。

「もちろん危険なところにはお連れしません。ですがそれ以外ならばご案内しますよ。そうですね……広場まではまだかなりありますし、先に少し、腹ごしらえでもしましょうか。」



シグレアに連れていかれたのは、表通りの一本裏にある小さな店だった。

赤い張り出し屋根と小さな看板がある他は、民家と言われても信じてしまいそうな見た目をしている。通りに面した窓は二つ。そうっと覗き込むと、カーテン越しにも店内がそこそこ空いているのが分かった。

「入りますよ。」

シグレアが扉を開く。カランカラン、と鈴の音が響いた。すぐにパタパタと足音が近づいてくる。この店の従業員だろうか。長い黒髪をきっちりと結い上げたふくよかな女は、シグレアを目にした途端、ただでさえ丸い目をさらに丸くした。

「いらっしゃーい。……あら。珍しいお客さんだ。どうしたの、そのお嬢さん。」

「詮索不要だ。名前も呼んでくれるなよ。」

「はいはい。分かってますよ。」

「奥、空いてるか?」

「もちろん。」

どうぞ、と案内されたのは、入口から一番離れた位置にある席だった。ボックス席でこそないものの、ちょうど席を隠すように柱が立っているので、他の席からは死角になる。

エルゼリの椅子の背を引き、座らせたシグレアは、特に構う様子もなくあっさりとフードを外した。シグレアの人目を惹く容貌が露わになる。

「えっと……問題ないんですか?」

「ここの女将とは馴染みです。問題ありませんよ。……あなたもここでならフードを外して大丈夫です。名前だけ、呼ばないように。」

万が一周りに聞こえたら面倒だということだろう。シグレアの言葉にエルゼリは頷いた。

しかし馴染み、とはどういうことなのだろう? 確かにシグレアと女将の会話は随分と気安い様子に見えたが……。

と、そこに先ほどの女が戻ってくる。盆に載せたグラスをドンドンといささか乱暴な手つきでテーブルに移しつつ、女がニコリと笑った。所作や表情に得も言われぬ愛嬌がある。

「さあさあ、今日は何を食べていく? 今日は熟れたトマトが入ってるからね、リゾットとかトマトクリームのソース使った料理がオススメよ。」

はい、とメニューを渡されて、エルゼリは眉を下げた。一枚きりの紙でできたメニュー表には癖の強い文字が並ぶばかりで、残念ながらこれを見てもエルゼリには何がなんだか分からないのだ。それにそもそも、料理の名称がよく分からない。

エルゼリと同じようにメニューを受け取ったシグレアは、黙り込んだエルゼリの様子にすぐに気が付いたようだった。

「そうですね……彼女にはリゾットを。私の分はそちらに任せる。」

「はいはい。いつも通りね。……そうだ、お嬢さん。嫌いなものは何かあります? あれば抜きますけど。」

「えっ、」

突然水を向けられてエルゼリは固まった。嫌いなもの……食べ物のことかとようやく思い至り、「無いです」と答える。

「その年でえらいねえ。私なんていまだにキノコ食べられないのに。」

「……はぁ。」

「ま、ちょっと待ってな。混んでいないからすぐにできるよ。」

といって女はあっという間にメニュー表を取り上げ、去っていった。最初から最後まで彼女のペースに巻き込まれ。まるで嵐のような人だ。ぽかんとその背中を見送ったエルゼリは、そこでようやくほっと息を吐き出した。

「勝手に注文をしてしまいましたが、大丈夫でしたか。」

「あ、ええ、ありがとうございます。私、文字がまだちゃんと読めないので。」

エルゼリの言葉に、シグレアが少々ばつの悪そうな顔をする。慌ててエルゼリは言葉を重ねた。

「時間を作って少しずつ覚えれば、きっといつかは文字が読めるようになると思って、勉強しているところなんです。今はまだ料理の名前もよく分からないし……助かりました。それにしても……あの、女将さんとシグ……あなたとは、お知り合いなんですか?」

話が途切れるのが気まずくて、慌てて先ほど気になっていたことを口にする。うっかり名前を呼びそうになったのはご愛嬌だ。シグレアは気を悪くした様子もなく答えた。

「彼女は私の乳母をしていた者の娘なんですよ。おかげでここに来ると懐かしい味にまた会える。」

その言葉にかすかに寂しそうな色が混じっているような気がしたが、さすがにそこを突っ込んで聞くような勇気は出せなかった。

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