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24 変化する日常

王城から出て、北のマレイグに向かう日。その日が迫るにつれ、エルゼリアードの身辺は慌ただしくなった。

といってもエルゼリ自身が何かをすることはほとんどない。とにかく体調を万全にしておくことと、日中は供を連れれば外に出てもよいので歩きなれておくようにという指示を受けているだけ。実際に大変なのはエマをはじめとする、旅支度をする面々だ。

「旅に出るって大変なのねえ。」

「それはもう。特に今回は北の方に向かう旅ですから。街道沿いにもあまり大きな町はありませんし、最低限必要なものをそろえるとなりますと……それに、いくらか私物を処分しておかないと。馬車に積める荷物には限りがありますからね、私物はあまり持ち込めないんです。食料や武器、防寒具辺りが優先になりますから。」

言いながら、エマはせっせと外套を繕っている。これはエルゼリ用だ。城の中に残されているもののうち、マレイグに旅立つにあたって使えそうなものはなんでも使っていいというのがクルスからの下命だった。サイズが少々大きいので、エマが手ずからエルゼリの背丈に合わせて丈を詰めているところだった。ちくちくと滑らかに進む針。その後に続く縫い跡も綺麗なもので、縫い合わせの後がまったく見えない。器用なものだ。

エルゼリなど、針を持ったところで針穴に糸を通すくらいのことしかできない。一度エマがエルゼリに針と糸、練習用に端切れを渡してくれたのだが、縫い始めのところで指にぶっすりと針が刺さって以来「今度きちんとお教えするまではやめておきましょう!」の一点張りで手伝わせてくれないのだ。

必要な品を書きだして買い出しに行くなどということもエルゼリにはできない。独りでこの部屋の外に出ることは許されていないから。

エルゼリが外に出るためには、必ず誰かの付き添いがいる。以前まではシグレアがいなければ出てはならないと言われていたが、あの事件以降シグレアが臥せったこともあり、その制限は外された。

とはいえエルゼリに個別で接触することを許されているのは、現時点ではエマとシグレア、そしてクルスの三人だけだ。医師のスファルドでさえ、いずれかの人物がいなければこの部屋に足を運ぶことはない。しかしクルスはあの日を最後にエルゼリの前に姿を見せることはなくなったし、エマはこの通り。シグレアは……無理を言って臥せっているところに見舞いに行った日以来顔を合わせていないが、エマの話を聞く限り、落ちてしまった筋力の増強や、体の調整に忙しいようだ。結果、エルゼリはひたすらにじっと部屋の中で時間を潰すよりない。

待ち時間を潰す、と言ってもエルゼリにもできることはある。そのうちの一つが勉強だった。先日足を運んだ書店から届いた絵本を読んで文字を覚える努力をしているのだ。だがそれだってずっと続けていては集中力が途切れてしまう。いや、もっと頑張れと言われてしまえばそれまでだが。何しろエルゼリは文字をろくに書けもしなければ読めもしない。絵本とともに届けてもらった地図なども、絵的な意味で楽しむことはできても土地の名前一つ読めないのだから。

手にしていた絵本を閉じ、エルゼリはため息を吐く。

(こんなこと言ったら申し訳ないけど、ちょっと暇だわ……。)

がっくりとうなだれたエルゼリの背後でコンコンコン、と扉をたたく音がした。

「はい。」

エマが素早く針を針山に押し込み、立ち上がる。エルゼリも立ち上がった。

すぐに開いた扉の向こうから、数日ぶりの顔がのぞいた。いつも通りの涼しげな顔。多少やつれた感はある。軽装鎧どころかいつもの制服さえ着込まず、平服の装いで現れたのは、永らくエルゼリが待ち望んでいた相手だった。

「シグレア様!」

「お役目を離れ大変失礼いたしました。本日より復帰いたします。」

あまり表情を変えないはずのシグレアが、そうと分かるくらいに微笑んだ。




「少し外に出ましょうか」というシグレアの提言に諸手を上げて賛成したエルゼリは、連れ立って部屋を出た。考えてみればエマを連れずに二人で、というのは初めてのことかもしれない。いや、あの教会での一件を入れれば、二回目と言えるのかもしれないが。

回廊には外からの光が差し込んでいる。眩しい光に照らされて、辺りを舞う埃がキラキラと光った。

人の姿はまばらだ。しかし階段を幾つも下り、回廊を進むにつれてすれ違う人の数も増えていく。

(どこに行くのかしら。)

そう言えば目的地を聞いていなかった。

変装用のローブを着込んだエルゼリは、ちらと隣を歩くシグレアを見上げた。観察してみた限り、特に足を引きずるとか、体が傾くとか、不自然な動作はないようだ。あの怪我の影響が残らなかったのであれば本当に良かったと思う。

こちらを見ているエルゼリの方に気が付いたか、シグレアが問いかけてきた。

「中庭でも、街でも好きなように出ても構わないと許可を取っています。どうされますか。」

「えっ……。」

街まで出てもいいの? とは聞けなかった。あんなことがあった後だ。外に対する興味は常にエルゼリの中にありはするが、かといって危険があるならば無理に出たいとは思わない。その気持ちは、以前よりもずっと強くなっている。実際の問題として、自分に大した政治的価値がないことは事実だが、あえてエルゼリアードに価値を見出す者もいるわけだ。そのことは教訓としてエルゼリの中に十分すぎるほど刻まれた。

「大丈夫ですよ。少なくともしばらくは。」

「そう……なの?」

「はい。クルスが少々手を打ちましたから。それに、あなたも今は変装をなさっているでしょう。」

「あ。」

そう言えば、とローブを少し摘み上げてみる。もともと華美な装いをしていないエルゼリは、そのまま町を歩いていてもせいぜいどこかの下級貴族の娘、くらいにしか見られないような見た目をしている。顔立ちもおとなしく、髪も国王や王妃の金髪とは似ても似つかない上に珍しくもない黒色だ。エルゼリアード王女の容姿については、前回のこともあって人の口に昇る機会も増えている可能性があるが、その噂とエルゼリ自身を結び付けられる人間は少ないはずだ。とにかくエルゼリの容姿は地味の一言に尽きるし、特徴が無さすぎる。

「あ、でもシグレア様が隣を歩いていたらさすがに……。」

「そういう話になるだろうと思いまして、私もいつもと服装を変えているんですよ。」

「成程。」

いつも身に着けている青いマントや白銀の鎧、詰襟の制服を脱ぎ捨てたシグレアは、いつもの触れがたい鋭さを僅かに減じているようには見えた。代わりに身に着けているのは、ボタンを二つほど開けた白い襟付きのシャツにカーキ色のマント、少しゆったりとした紺色のズボンと、歩きやすそうな革靴だ。先日街で見かけた市民の装いと何ら変わらない。変わらない……のだが。

「…………あの、それでもシグレア様はちょっと目立ちすぎるように思います。私の考えすぎならいいんですけど。」

エルゼリの指摘に、シグレアは少々驚いたような様子を見せ――微かにまた笑った。

「おかしなこと言いましたか? 私。」

「いえ。そういうわけではありませんが。」

「笑っているじゃありませんか。」

「なんでもないんですよ。そうですね、なんと申し上げるべきか……。」

二人の足はエントランスホールに向かっていた。どうやらシグレアは街の方まで下りるつもりのようだ。王城を出ることには迷いのあったエルゼリだが、はっきりと街に出ると告げられた訳でもないので拒否のしようもない。


やがて二人は揃ってエントランスホールまでやってきた。いつ見ても広いホールだ。天井のフレスコ画は今日も美しく、ただこちらを静かに見下ろしている。

本当に素晴らしい絵だ。だがこの城にあるものはほとんどすべてが国の財を搾り取って作り上げられたもの。悲哀と血とで出来上っているものを率直に美しいと表現してよいのかどうか、エルゼリはいつも迷う。

「……? シグレア様?」

ふとそこで前触れもなく立ち止まったシグレアにつられ、エルゼリも立ち止まる。この辺りまで来るとすれ違う人の数も増える。誰もが皆、一瞬シグレアに視線を向けていく。

おそらくシグレア自身もそう言った対応に慣れている。特に相手に対して何を言うでもなく、涼しげな表情でその視線を受け流す。なんとも思っていないのだろうとそれだけでエルゼリに伝わってしまうくらいにそっけない態度で。

視線の種類は様々だ。嫉妬を含んだもの。単純に美しいものに対する感嘆を含んだもの。頬を染めて去っていく女性も多い。そういう人は決まってエルゼリの方に怪訝そうな視線を向けた。シグレアの隣にいる人間に興味があってのことだろう。別段エルゼリをどうこう、ということもないだろうし、エルゼリのことを「エルゼリアード王女」と知って向けてくる視線でないこともなんとなく分かる。だが正直、こうも視線を向けられるのは辟易だ。まるで珍獣扱いではないか。よくシグレアも黙っていられるなあというのが正直な感想である。

「あの……?」

困惑気味の声に、シグレアがはい、と答え、こちらを向く。氷の色をした瞳がエルゼリの青い目にぶつかった。その視線が先ほどまでの、なんの感情も含まない文字通りの氷色ではないことに、エルゼリ自身は気が付かない。シグレアがエルゼリに向けてくる視線はいつだって真っすぐだ。そうと分かる温度はないが、こちらを安心させてくれる目だとエルゼリは思う。

シグレアが何も言わないので、エルゼリは少々焦れて問いかけた。

「先ほどからどうされましたか。皆さんものすごくシグレア様を見てますけど…………あの。私の顔に何かついてます?」

エルゼリの言葉にシグレアがまた笑った。珍しい。こんなに笑う人だっただろうか。

(って言ってもそんなに分かりやすく笑ってるわけじゃないけど……。)

内心首を傾げたエルゼリに、シグレアが言う。

「そういうわけではないんですよ。……行きましょうか。」

言ってシグレアは左手でその特徴的な髪をフードの下に隠した。そしてこちらに向かって右手を差し伸べる。騎士そのものの優雅な所作で。

差し伸べられた手の意図が分からずにシグレアの顔と手とを見比べていたエルゼリだが、シグレアはただフードの下で首を傾げ、こちらを見るばかりだ。

これは手をどうぞ、ということだろうか。外に行くことに対する了承を求めているとも取れる。

「……。」

見つめ合うこと、数秒。

最終的に観念したのはエルゼリだ。己の小さな手を、シグレアの手に預ける。以前と同じように、エマにリボンを巻きつけられた鉄の輪が微かに音を立てた。

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