21 勇者の来訪
「こんにちは、エルゼリアード王女。」
事件から一週間。四日前にシグレアに面会して以来、部屋の外には出ずじまいだったエルゼリの許に来客があった。
ほどなく衛兵の手で開かれた扉の向こうには、声の主、クルスが立っている。窓際に用意した椅子に腰かけ、ぼんやりとしていたエルゼリはそこで慌てて立ち上がった。エルゼリはこの部屋を住まいとして仮に宛がってもらっているだけの立場だが、客人が来たとあらばもてなすのが礼儀というものだ。
「……失礼しても?」
「は、はい。失礼いたしました。エマ、ご案内を。」
なんとかそれだけを伝えたエルゼリに一つ頷いて、傍らで寄り添うように立っていたエマがクルスの許に向かう。
エルゼリも一つ息をついてから、来客用のソファの方へと向かった。以前はふらふらしていた足取りも、今は普通に歩く分には危なげない。柔らかいカーペットにも近頃は慣れた。それでもほとんど成人と言っていい、しかも男性のクルスとエルゼリとでは歩く速度がまったく違う。エルゼリがソファの前にやってきた時には、クルスはもういつでも着席できるような状態で席の前に立っていた。エマが一礼して去っていく。続き間の方に向かったから、紅茶を用意してくれるのだろう。
互いに軽く挨拶を交わし、クルスには着席をすすめる。柔らかな礼の言葉とともに着席したクルスに続いて着席し、エルゼリは不躾にならない程度に視線を向けた。
――少し、痩せただろうか。顎の線が少し鋭さを増しているように見えるが、それも仕方のないことだろうか。平和になったと思われた街の中で突然教会を爆破されるなんてこと、誰が想像できるだろうか。それも、エルゼリが『視た』ものが確かならば――いや、この点についてはほぼ百パーセントの確信があるが、事実を第三者に確認したわけではないのであえて推量にとどめるとして――事件を引き起こしたのは、クルスやシグレアに近しい者。仲間内から犯人が出てしまったのだ。憔悴するのも無理からぬことだろう。
「どうですか、具合は。」
懊悩ひとつ匂わせることもなく、クルスが問いかけてくる。静かで穏やかな声だけを聞けば、まるでいつも通りだ。強い人だと思う。
「なんの問題もありません。お恥ずかしい限りです、先ほどは少しぼんやりとしていまして……。」
「窓の辺りにいらっしゃいましたね。教会でも、見ていらしたんですか。」
「……ええ。」
あっさりと言い当てられて、思わず目をそらす。
この部屋の窓からは街の様子が一望できる。ちょうど南西の方向に目を向けると、教会があった丘の辺りもかすかに見えるのだ。後になって気が付いたことだった。
記憶を探れば、たしかにあの辺りに先頭の一端が見えていたように思う。今はもう見えない。ただ、一帯が焼けたためだろう、かすかに灰色に変色したものが植えられた木々の隙間に見えるだけだ。
「はっきりとは見えませんけれどね。」
「あれは事故だった、と言ってもあなたには慰めにならないでしょうね。あなたが襲われたことは、あなたのせいではない。結果としてあなたが魔法を発動させたことだってそうです、と申し上げても……。」
「……。」
沈黙は肯定になる。何か言わなければ、と思っても言葉が出なかった。
どれだけ時間が経ったのだろうか。
それきり口を開くこともできず沈黙したままのエルゼリの前を白い手が横切った。クルスの前に置かれたのは白いソーサーだ。その上に音を立てることなく、やはり白いティーカップが配置される。立ち上る湯気は目の前でうねる波のような模様を描き、柔らかな茶葉の香りを広げた。
傍らで静かに礼をしたのは――。
「ありがとう、エマ。」
「いえ。」
普段は口数の多いエマだが、こうして客人を迎えるとなると話は別だ。作法通り、流れるような所作でテーブルの上に茶器が揃えらていく。
クルスに続き、エルゼリの前にもティーソーサーとティーカップが配置された。くゆる湯気が、かすかに感じている緊張を和らげてくれる気がする。気づまりな沈黙が一時途絶えたことに安堵しながら、エルゼリはティーカップに口を付けた。
温もったティーカップの薄い縁が唇に触れ、すぐに熱いほどの紅茶が喉の奥へと滑り込む。飲み込んだ瞬間に胃の辺りが温まり、エルゼリは反射的にため息を漏らした。美味しい。
「シグレアが、」
エルゼリが一息つくのを待っていたかのように、クルスが口を開く。慌てて下がろうとしたエマを手で制して、彼はそのまま先を続けた。
「彼が、そろそろ回復します。もっとも、もう少し療養する必要はあるでしょうが。あの場にいた者の中では、間違いなくシグレアの傷が一番酷かったですから。今もまだ眠っていますしね……。あなたには彼の本復を待ってマレイグに出てもらうつもりです。おそらく、二週間後辺りがめどになるでしょう。」
傍らでエマが強張ったのが分かった。だがエルゼリにとってその宣告は、疑うことのない、決められた未来の予定でしかない。
――そう。そもそも最初から未来は決められている。少なくともエルゼリが知る『フェイタル・フォーマルハウト』の筋書きの上では、そのように。
(それに、もしもそうじゃなかったとしても……。)
両手で包むようにして持ったティーカップの中を見つめる。
濃い赤色の液体の中には、エルゼリの顔が映し出されていた。僅かに水面に波が立つのは、己の手が震えているから。両手の先、手首には、あの日と同じく魔封じのための鉄の輪が嵌められている。
……だがあの時、なぜかエルゼリは魔法を発動させてしまった。そんなつもりはまったくなかったのに。
封じが壊れたのかとも思った。だから目覚めたあと、恐怖を押さえこみ己の中の魔力の流れを確かめようとした。しかし、エルゼリの中に確かにあるはずの魔力はぴくりとも反応を見せず、当然魔法も発動しなかった。
封じは壊れていない。エルゼリの中の魔法が忽然と消え失せたとも考えにくい。威力の大小はあれど、誰もが魔法を持つのだ。それが突如なくなるなどということがありうるのか――否。
だとしたらあれは、なんだったのか。
原因は、未だもって分からない。エルゼリ自身のことだというのに。
――自分の中に自分ではコントロールできない力がある。それも、他人の命を容易く奪い取ることが出来るほど大きな力が。
もともとあったものではあるが、己の希望で、己の意志で発動したことなどほとんどない力だ。それがあの瞬間だけは制御のしようもなく、暴発した。そういう力がエルゼリにはあると思い知らされた。
ただの小娘のエルゼリアードに、身に余るほどの、持て余すほどの力がある。
そのことが、今はとても怖い。
「クルス様。私は、私の力が怖いです。」
ようやく吐露した言葉で、エルゼリの胸がすっと緩んだ。ああ。そうだ。私は自分が怖い。自分の持つ力が。自分にコントロールすることのできない「何か」が息づいていること、そのものが恐ろしい。
たまらず縋るように見つめた先、クルスの茶色の瞳が静かに頷いた。
「……そうでしょうね。余波だけであたりの火を消し飛ばし、皆の傷を癒した。僕が持つ聖剣と同じか――それ以上に危険な力だ。神か、悪魔か……そのどちらにもなりうるだけの。あなたのような人が持つには強すぎる。」
「クルス様……!」
ここまで何とか口を出さずにいたというのに、主に対する明確な負の言葉に耐えられなかったか、エマが眦を釣り上げる。
「やめなさい、エマ。クルス様がおっしゃっているのは事実だわ。」
「ですが!」
「エマ。」
「……分かりました。」
言いつつも目線だけは厳しくクルスを睨み付け、エマが一歩後ろへと下がる。そんな彼女に視線を向けて、エルゼリは淡々と事実を告げた。
「エマ。クルス様がおっしゃったのは、その力を持つものに覚悟が必要だという話よ。私にはそれがない。それだけのこと。
……クルス様。私は、もう二度とあのようなことは起こしたくありません。私はマレイグに参りましょう。あの場所ならば、きっとこの力で誰かを傷つけてしまうようなことは起きませんから。」
マレイグは一年を通じて雪深く、人の出入りのない土地だと聞く。魔物さえ寄り付かない土地だとも。誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりすることが怖い。己の力が恐ろしい。……そんなエルゼリには、似合いの場所だ。
「あなたが聡明な方で助かります。」
僅かにほっとしたような表情でクルスが頷く。おそらくこれが彼の来訪目的。わざわざエルゼリに対して、説明のために訪れてくれたというわけか。
(……もうちょっと周りの人を頼りにされてもいいでしょうに……。)
本来、クルスの側には人質たるエルゼリアードに対して処遇の説明をする義務などまったくない。彼の考え一つで、どうとでもしてよいはずだ。いくらエルゼリが王族の末端に名を連ねていたと言っても、エルゼリ自身には王族としての力はほぼゼロだ。クルス達は、エルゼリをどう扱おうが、外に情報が漏れない限りはエルゼリを死なせないことにだけ注意しておけばいい。
それなのにわざわざこうして、本人が一人で訪れて説明をしてくれるなんて。何万もの大軍を率い、腐りきった王を倒し、国を転覆させた勇者が。
つくづくこの人は優しいのだろなとエルゼリは思う。あるいは不器用なのかもしれないが、これが彼の誠意の尽くし方なのだろう。
力を持つだけの理由がある人、なのかもしれないなとも思う。
誰よりも強い力を持ち、しかしその力に振り回されないだけの人物。清濁もろとも呑み込んで、前進する勇気を持つ――だからこそ、彼が聖剣に選ばれたのかもしれない。
(私には、できないなあ……。)
「それから……もう一つ、今のうちにあなたに言っておかなければならないことがあるんです。」
「はい?」
物思いから引き戻され、首を傾げたエルゼリに、クルスが伏し目がちに言った。
「ここから申し上げるのは、僕個人からのお願いに近いものだと思ってください。」
「……?」
割とはっきりものを言うクルスにしては珍しい前置きに、エルゼリはさらに首を傾げる羽目になった。
果たして。
「エルゼリアード王女。シグレアのことをあなたにお任せしたい。虫のいいことを言っているというのは承知していますが……どうか、頼まれていただけませんか。」
「は……?」