19 あなたの罪の半分を、
「クルス……!」
胸の奥で渦を巻く訳の分からない感情の塊のせいで、ようやっと口から零れたのは彼の名前だけだった。クルスの視線は揺らがない。彼は背後に控えているであろう侍女らを振り返り、言葉少なに出ていくようにと命じた。侍女たちの気配はあっという間に遠ざかり、パタリと扉が閉じられて、部屋の中にはクルスとシグレア、二人だけになる。
「三日だ。」
「……何?」
「三日経っている。君と、エルゼリアード王女が爆発に巻き込まれてから。」
三日、とぼんやりと繰り返して、シグレアは愕然とした。確かに目覚めた段階で王城に連れ戻されていることから、かなりの時間が経ったものという予測はしていた。だがまさか三日も経っていたとは想像だにしていなかったのだ。
――背中を刃に貫かれ、エルゼリアードに向かって無様にも倒れたあたりから己の記憶は曖昧だ。恐怖に見開かれたエルゼリアードの青い瞳だけが瞼の裏にこびりついたようにはっきりと浮かび上がるが、それ以外はなにもかもが判然としない。薄れゆく意識の中で、彼女を守らなければという使命感と、彼女に何度も呼ばれたことだけは記憶に残っているが。
「エルゼリアード様は……?」
何よりも一番気にかかったのはそれだった。あの時、ジルバはとても普通の状態とは言えなかった。迷うことなくシグレアの背に剣を突き刺し、更にはエルゼリアードさえも手にかけようとしたのだ。そもそも、あのようにまったく無関係の一般人ばかりが集まった場所で魔弾を放つなどとても正気とは思えない。
「さっきも言った通り。無事だよ。怪我ひとつしていない。君の方がよっぽど酷かった。――といっても、あと数日もすれば動けるようになるだろうけどね。」
言ってクルスはベッドの脇に腰を下ろした。ぎしりと寝台が軋む。
斜め上の方から見下ろされるような格好になって、シグレアの居心地の悪さはいや増した。丁度窓の方から光が差し込んでいることもあってか、クルスの顔には影が落ち、表情が読みづらい。微かに口許が微笑みの形に歪んでいるように見えたが、影になっていてさえ分かる鋭い眼光がその表情を裏切っている。
他を圧倒する空気、とでも言えばいいだろうか。普段は人好きのする、どこにでもいそうな青年――しかしこういう時のクルスは違う。当たり前のように泣いたり笑ったり喜んだり落ち込んだりする「普通」の仮面を取り払った時、その下から現れるのは、勇者クルスだ。仲間として永らくともに過ごしてきたシグレアは、それを感覚のレベルで理解している。
「君は覚えていないようだけど。僕らが教会の中に入った時にはもう、君の背中の傷は塞がっていたんだよ。まあ、神官の癒しと同じで、組織が馴染むまでには時間がかかるようだし、君の怪我は相当に酷かったようだからしばらく無理は禁物だそうだけど。」
「どういうことです。」
「エルゼリアード王女の能力だ。彼女の魔法が、君の体を癒やした。スファルドが言うには、本当ならば君は死んでいてもおかしくなかったそうだ。出血がひどかったようだから。」
あとで背中の傷を見てみればいいよ、と言われ、一瞬遅れて意味を認識した。確かにあの時、シグレアの背中には深々とジルバが投擲した剣が突き刺さっていた。死んでいてもおかしくなかったという言葉を、まさか、と笑い飛ばすことは出来なかった。クルスの目が、それが事実だと雄弁に語っている。
何一つ言葉を返せずにいるシグレアをどう見たのか、クルスがぽつりと続けた。
「エルゼリアード王女の能力を甘く見ていたよ。」
「は……?」
「彼女の力は本物だ。想像以上だった。本人の意志とは無関係に発動した魔力のおかげで、君の命は助かった。教会に放たれた火も消えた。ジルバも、死んだ。」
「……。」
ジルバが死んだ? あの場にはシグレアとエルゼリアード、二人しかいなかった。あの時シグレアは最後まで剣を握っていたはずだが、それを振るうことが出来るような状態ではなかった。エルゼリアードに至っては武器の一つも持たぬ丸腰――それ以前の問題である。最近ようやく足腰に筋肉がつき始めたとはいえ、ほとんど幽閉されたまま十年以上の時間を過ごしてきた彼女に、そんな力があったとは思えない。
それに。……目の前で父と母の首が刎ねられた時ですら動じなかった青い瞳が、あの時ははっきりと恐怖を映していた。床に転がったシグレアに抱きつき、何度も何度も名を呼ばわって。
あんなにも小さく、か弱く、力のない王女が、あのジルバを害するなどということが……?
シグレアはただ茫然と、彼の言葉を聞いた。
「エルゼリアード王女が言っていた。ジルバを殺したのは私だ、と。この結果までは予想していなかったが……これで少なくとも、これ以上の過剰反応は抑えられる。」
その一言で。
シグレアははっきりと認識した。
「……っ、」
エルゼリアードを外に出すと言われた時に感じた違和感の正体はこれだったのかと。何か裏があることだけはおぼろげながらに想像はしていたが……彼女を使ってあぶり出しを行ったのか。それがまさか、こんな理由とは。
ふつふつと沸き上がる感情の渦は、間違えようもない、爆ぜるような怒りの感情だ。
「彼女が放った魔法の残滓が、教会の外まで届いた。炎を消し止めたのも、多数の負傷者を触れもせず癒やしたのも彼女だ。この後、彼女を表立って排除しようとすれば、反対する動きも出てくるだろう。結果だけを見れば上々だ。まさか……ジルバが、罠にかかるとは思わなかったけれど。」
言われている内容を頭が理解したくないと訴えている。だが目を、耳を塞ぐこともできない。布団の中でぎゅっと握りしめた手の感覚が遠い。心臓の辺りに滲む痛みだけがシグレアにこれが現実だと教えてくれる。
わなわなと震える唇が確かめたくもない現実を確かめるのを、シグレアはどこか遠いところで聞いた。
「クルス、あなたまさか……!」
「そうだよ。君が考えている通りだ。」
クルスの目がすうと細くなる。
「彼女を殺されるわけにはいかない。今も、これから先しばらくも。そのための保険を買ったんだ。」
もしもこの時。
シグレアの心に僅かでも余裕があれば、クルスの表情に痛ましげな色を感じることもできただろう。だが身も心も傷ついた状態で、想像したくもなかったことを一番告げられたくない相手に突きつけられて、シグレアはとうに限界を通り越していた。
そしてクルスは。シグレアがそういう状態であることを十二分に知ったうえで、一言たりとも言い訳の言葉を口にしなかった。
※ ※ ※
「目が覚めたんですね。」
翌日。
クルスに連れられてシグレアの許を訪れたエルゼリアードは、そう言ってかすかに微笑んだ。シグレアは静かに彼女の様子を確かめる。日に当たることのない肌に、ところどころ治療のためのガーゼが張りついている他は、異常はないように見えた。あの時はっきりと恐怖に染まっていた大きな青い瞳にも変化は見られない。ただただ静かに、年齢不相応なまでに凪いでいる。それこそ異様なまでに。
「お守りすることが出来ず、申し訳ありません。……おまけにこのようなありさまで。」
起き上がることもできないから、正式な礼に則って詫びることもできない。ただ視線だけをそちらに向けて詫びたシグレアに、エルゼリアードの方は気にした様子もなく構わないわと頷いた。しかしすぐにその表情が曇る。
「むしろ私の方こそ、詫びるべきなのではないかと。……ごめんなさい、シグレア様。」
深々と頭を下げつつ告げられた言葉に、シグレアの混乱は深まった。
「……どうして。」
「あなたにそのような怪我を負わせてしまったのは、私のせいですから。」
言ったエルゼリアードの青い瞳が、静かに陰りを帯びた。
「私が狙いだったのですよね。他の方は誰も関係なかった。怪我を負った方も、亡くなった方も、みんな巻き込まれただけです。」
「それは……。」
言葉に詰まる。
それは、確かにそうかもしれない。
エルゼリアードは、ソドムア王の血を引く最後の一人だ。虐殺を繰り返し、民に不当な負担を強い、散財や享楽に耽り、とうとうその罪を己の命で贖うことになった王の娘。彼女自身がその所業に加担していなかったとしても、その事実はどこまでもついて回る。少なくとも、ジルバは間違いなくその事実を理由にエルゼリアードを害そうとした。そんなことをしても虚しいだけだと理解していなかったとは思えないが……きっとそうしなければならない、理由があったのだろう。きっと。もう確認のしようもない話だ。
クルスから聞いた話では、死者は数名で済んだものの、あの場に居た者のほとんどすべてが大なり小なり怪我を負ったということだった。運悪く礼拝の時間に重なったことで、被害が拡大してしまったことも聞いた。
エルゼリアードが教会をあの時間に訪れると知って、ジルバが事件を起こした。災厄を招いたのはエルゼリアードだという見方も、確かにあるだろう。……だが、それは本当に彼女の責なのか?
「エルゼリアード様。それはあなたが望んだことではない。違いますか。あなたはただ、クルスに誘われて『外』に出ただけだ。」
言ってシグレアは、エルゼリアードの傍らに立つクルスに視線を向けた。クルスの視線は揺らがない。言いたければ言えと、その視線が雄弁に語る。
……彼は起きたことに対してすべてを負うつもりでいる。だからこそ彼は勇者として、何千何万もの民衆の先頭に立てたのだ。そしてシグレアも、そんな彼に惹かれた。そのはずだった――だがもう、分からない。彼が何を考えているのかが、シグレアにはまったく見えなかった。これまでもそうだったのだろう、きっと。ただ『見えている』『理解できている』と錯覚していただけのことで。
(あなたの命がこれ以上脅かされることがないようにと、クルスが芝居を打った。それだけのこと……。)
その真実をエルゼリアードは知っているのだろうか。――いや、とすぐにシグレアは己の思考を否定する。もしも彼女がクルスの企みを知ったとて、いったい何の慰めになるだろう。起きたことは何一つ変わらないし、変えようもない。命を失った者、怪我を負った者、心に傷を負った者。壊れてしまったものを直したとしても、二度と同じ形には戻らないのだ。
(私とクルスの間にあったものも、壊れた。)
「……それでも、私にも罪はあります。」
シグレアのもの思いはその一言で途切れる。エルゼリアードだった。
それまで、波紋の一つも浮かべることのなかった瞳に、かすかに光が宿ったように見えたのは気のせいだろうか。一度瞳を閉じたエルゼリアードは、再度見開いた瞳でまっすぐにシグレアを見つめた。
「私はあの時――間違いなく、死にたくないと思いました。シグレア様が死ぬのも見たくなかった。ジルバ様に、明確に、はっきりと、殺意を抱きました。たぶんそれが、そのまま魔法に変わって……。」
エルゼリの目が、シグレアを通り過ぎる。言葉は独りごとのようなものに変わった。
「あの人はただ、喪ってしまった幸せが痛すぎて、重すぎて、吐き出すことも出来なくて。大切な人を助けることが出来なかったことを最後までずっと悔やんでいただけだったの。あの人には傷ついた心を癒すだけの時間が必要だった。本当はそれだけでよかったはずなのよ。死ぬことなんてなかった。もっと別の……。」
水面の奥底に零れた月明かりの如く、本当にかすかな揺らめきは、言葉を紡ぐにつれてはっきりと光を増した。その光は内側から浮かび上がったかと思うと――大粒の、涙に変わる。
「私、わたし……私たちのせいで何もかもをなくされたあの人を、私が殺した……私が……。」
言葉の意味はほとんど飲み込めない。だが、それがジルバのことを言っているのだということ――それと同時に、彼女が、本当にジルバを殺したのだということだけを、シグレアは理解した。
大きな瞳から静かに零れた大粒の涙は、拭われることもなく頬を流れ、顎から零れ落ちた。それ以上の声もなく、しゃくりあげるでもなく、ただただエルゼリアードは涙をこぼす。声を出して泣きわめくことが出来れば、少しは救われることもあるだろうに――きっとこれまでも、音を立てることもなく涙を流すことしかしてこなかったのだろう。あまりにも子供らしからぬ、悲しい涙。
彼女はその結果を、たった一人その背に負おうとしている。僅か十二の子供が。親を失い、国を失い――生まれながらに与えられてしかるべきものさえ持たなかった少女が、たった一人でそれだけのことをしようとしている。
その生き様は、あまりにも潔く、悲しい。そして、貴い。
思わずその涙に手を伸ばそうとして、動けないことに思い至る。今のシグレアは彼女の涙一つ拭うこともできないのだ。
やがて。
「エルゼリアード王女。……まだあなたも本調子ではない。シグレアの件はこれで安心なさったでしょう。戻りましょうか。」
頑なに声を上げることなく泣いていた王女の背中から、クルスが静かに声をかける。ゆっくりと両頬を拭ったエルゼリアードが、顔を上げた。未だに濡れたままの瞳が一瞬シグレアを映し、僅かに迷うように揺れ――一つ、静かにうなずく。
「ご無理を申し上げて申し訳ありませんでした、クルス様。シグレア様も。……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。」
いつもよりはたどたどしいながら、しっかりとした口調で詫びたエルゼリアードが、深々と頭を下げる。そうしてゆっくりとまた、頭を上げた。
くるりと小さな体が踵を返そうとする。
「エルゼリアード様。」
シグレアの呼び声に、エルゼリアードの足が止まった。静かにまたこちらへ向き直ったエルゼリアードの顔を、シグレアは静かに見つめ返す。表情からは読み取れない彼女の心を透かし見るように。そしてできれば、これから告げる言葉が彼女の心に届くようにと。
胸の痛みを無視して大きく息を吸い込んだシグレアは、ゆったりと、できる限り鮮明に聞こえるように、エルゼリアードに向かって告げた。
「私は、あなたに助けられた。」
「……。」
「確かにあなたは、あなたが言う通り、ジルバを殺したのかもしれない。あなたがいたことで、沢山の人を傷つけたのかもしれません。ですが、私はあの時、あなたが側にいなければ死んでいたでしょう。」
エルゼリアードの目が、シグレアを見ている。そこにはどんな表情も浮かんではいない。ただ、静かな凪が広がっている。だがその奥底にはきっと彼女の心があるはずなのだ。どうかそこに届いてくれと、シグレアはそれだけを祈る。
普段は己の想いを、心を、口にすることはない。だが今僅かにでも躊躇ってしまったら、エルゼリアードはどう受け取るだろうか。その罪を、己一人に起因するものだと断じてしまいはしないか。
彼女はこう言った。『死にたくないと思いました。シグレア様が死ぬのも見たくなかった』と。
彼女がジルバを殺した罪をたった一人その身に背負うというのなら。その半分は、間違いなくシグレアのものだ。彼女だけが背負う罪ではありえない。そもそも、罪の出どころの話をするのなら、その罪は仕組まれたもの。しかしその事実を告げたところで、彼女の心はいかほども慰められはしないだろう。
ただの慰め、あるいはシグレアの自己満足かもしれない。起きた結果も、起こしてしまった事実も変えられないが――それでも、彼女の罪の半分は、自分のもの。それで彼女の負担が僅かでも軽くなるのであれば。
「あなたは私の命を助けて下さった。あなたの行いに罪があったとするならば。その半分は、間違いなく私のものでもある。」
「……そんな馬鹿なこと、」
ぐしゃ、とエルゼリアードの表情が崩れた。だが涙は零れない。己のために流す涙が、彼女にはないのだろうか。
だとしたら恐ろしい。あまりにも潔癖すぎて――怖くなる。この人はシグレアの知らぬところで、唐突に、消えてしまうのではなかろうか。思いはそのまま、するりと言葉に変わった。彼女を繋ぎとめるための言葉に。
「私は、生涯この恩を忘れることはありません。」
「……。」
「この恩に報いたい。私を側においてください、エルゼリアード様。あなたの意志で。」
与えられた命によってではなく、彼女自身の意志によって。
「……シグレア。」
クルスの咎めるような声を無視して、シグレアは言い切った。
「どこであってもついていきます。それが、城の中庭であろうと、北のマレイグであろうとも。――もうだいぶ前から、そのことは決めていましたが、あなたにはお伝えしていなかったので申し上げておきます。」
「……今も、側についていただいています。」
「それでは意味がないのです。今のあなたは、クルスによって命じられたことを、ただ受け入れているだけに過ぎない。もちろんクルスの命は絶対ですが……そうではなく、あなた自身の意志で、私を側にと望んでいただきたいのです。」
「そんな権利は、私には……。」
「権利、ですか。……ではクルス。」
シグレアはクルスを呼ぶ。決裂ははっきりとしていた。昨日、目覚めた時に話をした時点で、そのことは互いによく理解していた。永らくともに戦ってきたから分かる。もう、元に戻ることはあり得ない。
「いつだったか、彼女のことを頼むと私に言いましたね。その心に変わりは?」
「ないよ。」
「エルゼリアード様の護衛に、私以外を使う予定は。」
「無い。」
クルスの答えに、シグレアは一度目を閉じた。そして。もう一度見開いた瞳で、じっとクルスの顔を見つめる。
「では。今日を限りに、あなたの軍から外してください。」
一瞬目を見開いたクルスは、次いで目を弓なりに細くした。もう答えは分かっているのだろう。ふ、と静かに息を吐き出して、クルスは静かにうなずいた。
「……成程、そうきたか。……分かった。」
エルゼリアードだけが話についていけない様子で二人の顔を交互に見ている。シグレアはエルゼリアードの方に視線を向けた。
「エルゼリアード様。お聞きになりましたよね。」
「え……。はい……。」
「私は今日を限りに、反乱軍から外れます。報酬は不要です。あなたの私兵として、側に置いていただけませんか。」