17 残酷な世界
誰かが泣いている。
「うわああああ……。」
男の声。聞いたことがある声だ。でも、誰だろう……名前は分からない。
男は悲痛な声を上げて泣いている。癖の強い茶色の髪は、ところどころがちりちりと燃えてなくなっているようだ。粗末な衣服にも焦げや黒い煤が目立った。どこかから焼け出されてきたのだろうか。そう言えば周囲は酷く焦げ臭い。さまざまなものが混ぜこぜのまま焼けた臭いだ。空に向かって黒々と立ち上る黒煙。そこに腐敗臭まで入り混じって、慣れない者ならばすぐにでも胃の中を空にしてしまうほどの凄惨な異臭を発している。
「どうして、どうしてお前が……!」
地面に突っ伏し身も世もなく泣き叫ぶ男の眼前には、打ち捨てられたように倒れる女の姿があった。すらりと細い女だ。この辺りは農村部だから、年頃の彼女も働き手だったのだろう。細身の割に発達した足は、スカートを千切られて際どい部分まで剥き出しになっている。
うつぶせのままだから分からないが、上半身の方もほとんど同じ状態だろうと知れた。見える範囲、全身の至る所に青痣が浮かび、ところどころには切り傷や不自然なへこみも見える。あろうことか足の一本は完全に曲がらないはずの方向に折れ曲がっていた。後ろ手に縛られている腕の辺りは皮膚がこそげて血を流しており、既に皮膚は全体が変色を始めている。酷い――だがもう痛みはすまい。一目で分かる。もう彼女は――。
よくよく見れば周囲には同じようにして何人もの女が倒れていた。若い女だけではない。子供や年嵩の女もいる。その誰もがもう息をしていない。荒地のように崩れ果てたかつての村の一角、まるで荷物か何かのように残された遺骸は、絶望の中で死んでいった彼らの恐怖だけをこちらに投げかける。
「よくも……よくもこんなことをしやがって……!」
がん、がん、がん、と男が地面を殴りつける。ぼろぼろに砕けた石畳の破片が容赦なくめり込んでも、男はその行為をやめない。血が流れ出し、膝のあたりまでを濡らしても、男の嘆きはおさまらない。
ああ。空を見上げた瞳は赤く燃えている。恨み、つらみ、絶望。昨日まで疑いようもなく続いていた日常が、あっという間に砕けて散ったのだ。愛するものを殺され、町を、生活の基盤である田畑を、心を冒し尽くされて、どうしてこの怒りを収めることができるだろう。
その彼の背後に、のろのろと誰かが近づいてきた。こちらも若い男だ。彼の頬にもまた涙の跡がある。村のほとんどの女が同じような目に遭い、そしてその果てに死んだ。彼にとって近しい人もまた、きっと。
「ジルバ。もう、やめろ。」
「やめろ? やめろだと? お前、これが黙っていられると……?」
近付いてきた男の一言に、ジルバと呼ばれた男が顔を上げた。涙に濡れた目の奥に憤怒の色がともる。だが相手はそれをいなすこともせずに言葉を続けた。その目の奥にはかすかに黒い炎がともる。
「シーリンも死んだ。母さんも。許せないよ。これが国を治める王と、その騎士がすることかってな……。死体を食い散らかす獣よりも酷い。こんなの、人間の死に方じゃねえよ。」
「だったら……!」
「だから。……だから、ちゃんとエレナのことも葬ってやろう。復讐は、その後でもできる。」
男の言葉に、ジルバがぴたりと動きを止める。彼は震える眼で相手を見つめ、その先を無言で問うた。
「復讐……? なんだって?」
「聖剣を携えた勇者の話を聞いたことがあるか。」
「あ、ああ……。」
「クルス・エルバンというそうだ、南のムーアから北に向かって進軍している。」
「ムーアから……ってことは、」
「数日もすればこの辺りに来るだろう。」
「数日……数日、か……。」
ジルバの目がよろめきながら女の遺骸に向けられた。かさかさに擦り切れ、血を流す唇がエレナ、と恋人の名前を紡ぐ。この世の苦しみから解き放たれた彼女はどうしているだろう。ああ、たったの数日。数日の猶予があれば彼女は死なずに済んだのか。少なくともこんな目には遭わずに済んだかもしれない。生きていることの尊厳を踏みにじられるような死に方をせずに済んだかもしれない……だって?
誰を恨むべきなのかだけははっきりしている。だが胸の奥にはべっとりと血糊のような黒ずみが張り付いて取れない。
数日。数日! 国王軍がやってくるのがそれだけ遅ければ。あるいは勇者が数日早くこの村にやってきてくれていたら。すべてはたらればの話だ。それでも――彼女が死なない未来があったのではないかと、ジルバの心はぐちゃぐちゃにかき回される。
「……俺はエレナをこんな目に遭わせた奴を許しはしない。」
地面を掻いた爪がべきりと折れる。ジルバは唇を噛み、己の中で荒れ狂う感情を噛み締めた。
世界は残酷だ。死ぬべきではない者が死に、命を奪われるだけでは飽き足らず犯され、食いちぎられ、打ち捨てられた。こんなことが許されていいのだろうか。いや、否。こんなこと、とても認められない。認めるわけにはいかない。こんな理不尽、どうして認めなければならないのか。それこそ理不尽だ。やり返さなければ――せめて一矢報いなければ、死んでいったものの心が慰められないではないか。
「勇者とやらの顔を拝んでやろうじゃねえか。」
エレナを殺し、村をぶち壊し、ジルバの安寧を壊したこの世界の何もかもに、ジルバは誓う。
「全部ぶっ殺してやる。」
「……何っ!」
「!?」
はっと見開いた眼前、白い光を放つ光球が中空で揺らめいていた。ジルバの右手の上部に浮かび上がったそれは、本来穏やかな暗闇に満ちているはずの回廊を真昼のように照らし出し、エルゼリやシグレア、ジルバの背後に長い影を引いている。
だが、それだけ。
「なぜ発動しない!?」
本来ならば周囲を焼き尽くすはずの爆発は起きず、まるで時が止まったかのように動かない。
シグレアも動かない。彼の背中に庇われる格好で立つエルゼリも動けなかった。
一瞬前まで、この場にいる全員の命が消えてなくなるはずだった。それなのに、三人を殺傷して余りあるはずの威力を持つ爆弾は種火の魔法が発動した瞬間のままで時を止めてしまっている。
時を止める。……そんな魔法が使える人間はそう多くはない。たとえば封じを受けていないエルゼリであれば可能だろう。だが今この場にいるジルバやシグレアにそのような大規模な魔法が使えるとは思えない。その道の魔導師に限ったとしても、ある特定の対象者の時間に作用するような魔法を使える者はそう多くないはず。騎士のシグレア、元は小さな町の民だったらしいジルバは言うまでもない。
――では、いったいどうして。
「なぜだああああああっ!」
凍り付いたエルゼリの脳裡をよぎる疑問に、悲鳴じみたジルバの声が重なる。
――最初に我に返ったのはシグレアだった。こちらを振り返った彼がエルゼリを攫うように脇に抱え込んだ。悲鳴を上げる間もなくふわりと浮かび上がる己の体。床を蹴り上げたシグレアの足に迷いはない。
すぐにジルバが気が付いた。
「シグレア! 裏切り者!」
床に投げ捨てた剣を引っ掴み、ジルバも駆け出すのが見えた。その目にともる憎しみの色は、先ほど『視た』ものと寸分変わりない色をしている。
(ああ。)
壁の向こうからはひっきりなしになにかが崩落する音が聞こえてくる。礼拝堂の中はどうなっているだろう。少し前までは、ただ静かに、厳かに祈りが捧げられていたあの場所は、今や灼熱の地獄となっているに違いない。
燃えたぎるような温度の空気に噎せそうになりながら、エルゼリは目をそらすこともできずにジルバを凝視した。
彼がやった。爆弾を投げ、なんの罪もないはずの、それもただこの場に居ただけの街の人達まで巻き込んで、エルゼリを、シグレアを殺そうとしている。己の心に張り付いた悲しみを、呪いを、世界に示さんと――。
――不意に気付く。光がはじけそうになった瞬間に垣間見たのはジルバの記憶だったのではないだろうか――あの瞬間、たぶん何らかの形でエルゼリの魔法が発動したのではないか、と。そうでなければ説明がつかない。
でも、どうして。
エルゼリはシグレアに抱え込まれたままで己の片方の手首を見つめた。ほどけかけたリボンの下、鉄の輪が今朝と全く変わりのない様子で揺れている。シグレアが駆ける速度で、髪も、リボンも、巻き付けたままの青いマントも白夜のごとき廊下に翻る。それが酷くのろのろと、スローモーションのようにエルゼリの目には映った。
(封じが、解けてる?)
まさか。でも。
ごう、と絶叫が響き、エルゼリの意識は揺り戻される。ジルバの涙が散る。隻腕が振り上げる鋼がぎらりと光をはじく。向けられたのは明らかな殺意。これまでもエルゼリの周囲に当たり前のように存在したそれ。エルゼリの全身はぎゅっと竦んだ。
吼えたジルバが全身をばねのように使って、手にした剣を投擲するのが見えた。風を、空気を、熱を裂き、黒々と燃える怨嗟を纏って剣が飛ぶ。
五メートル。三メートル。一メートル。驚くほどの速度でぐんぐんと切っ先がこちらに迫る。シグレアが顔だけで振り返る気配。腕にエルゼリを抱えたままでは全力で剣を振るうことなどできはしない。あと八〇センチ。五〇センチ。三〇センチ。ぐんぐんと迫る切っ先がシグレアの背中に触れる瞬間をエルゼリははっきりと見た。
刃の切っ先が沈み込み、シグレアの声からうめき声が零れる。己の背に突き刺さった剣の柄を視認してか、氷の色をした瞳が大きく見開かれた。崩れる膝。エルゼリを抱く腕の力は緩まない。
「――っ、」
「シグレア!」
倒れ込んでくるシグレアの肩に力一杯縋りついた。瞬間、体勢を崩したシグレアが膝から床に倒れ込む。当然抱きしめられたままのエルゼリも背中から床に落ちた。どっ、と叩きつけられて息が止まりそうになる。どろりと腹のあたりを濡らす血の匂い。くは、とシグレアの肺から息が押し出され、苦悶の声が続く。駆けてきた時の勢いを殺し切れずに床を転がった二人の背中に、ジルバが迫る。その背後に光が見えた。
エルゼリはシグレアを見た。シグレアもこちらを見た。一瞬の一秒が永遠にも等しいほどに感じた。
脂汗を浮かべ、きつく唇を噛んだシグレアの目の奥にはジルバが持っているのと同じ、疑念が渦を巻いているように見えた。
どうしてこんなことになったのか。
どうして味方だったはずの者が?
恨んでいたとはどういうことなのか。
敵は倒したはずだった。国王は死に、王妃も死に、国は平らげられたはずだった。これからようやく平和な日々が始まるのだと思って――。
それなのに、どうして。
瞳から輝きが失われて、ゆっくりと瞼が落ちていく。ぞっと血の気が引いた。
駄目。
「シグレア……! しっかり!」
「追いついた……!」
ジルバだった。息を切らし、しかしすっくと立つその全身には、仲間だったはずのシグレアを傷つけたことに対する葛藤や悲しみなどとは無縁の、やり遂げたという喜びさえ感じられる。
どこに隠し持っていたのだろう。ジルバの手には小さな小刀が握られていた。倒れたエルゼリとシグレアを真下に見下ろしたジルバが、迷いのない動作で小刀を振り上げる。全身全霊でぶつけられる、明確すぎるほど明確な殺意。先ほど垣間見た記憶がそれに重なって、エルゼリの全身を速やかに浸食していく。
――エルゼリもまた、いつでも死と隣り合わせの場所で生きていた人間だ。
言うことを聞かなければ、あるいは目的の能力を発動させられなかった時には、窒息寸前まで樽に頭を突っ込まされ、水を飲まされた。張り倒されたことも数えきれない。鞭を持ち出されたことも、薬物を飲まされて一昼夜苦しみ続けたことも、戯れに指を折られたこともある。
それでも。
そんなものはジルバが見てきた地獄には、遠く及ばない。彼の近しい人達が与えられた死に様には遠く及ばない。
エルゼリはやはりどうあっても王女だった。形ばかりの王族ではあったが、城に暮らしているが故に餓えることはなかったし、ごく少数ではあったけれどエマのような人達にも恵まれた。戦の影響を受けることもなく、城の下で延々と閉じ込められているだけで済んだ。犯されることも殺されることもなく生きてこれた。
ジルバの目を通して見た世界は、あまりにも惨く、辛かった。恋人を奪われ殺されて、町は跡形も残さず消えた。
彼の心は今もその荒野の中にあって、物言わぬ骸と化した恋人を抱きしめて泣いている。彼の全身には炎が蔦のように絡みつく。やがてジルバさえ燃やし尽くすだろうに、ジルバはそんなもの意に介しもしない。
エルゼリは今、ジルバの心ごと、刃を突きつけられているのだ。
――私は、シグレアは、ここで死ぬの?
疑問が言葉に変わった瞬間、痺れは痛みに変わり、全身が雷に打たれでもしたかのように震えた。
それは生まれて初めて感じる、恐怖。
「死ねえええええっ!」
とうとう振り下ろされる刃を、エルゼリはただ凝視した。
シグレア。
エルゼリの手首で、何かがバキリと音を立て。
――光が、あふれた。