16 あんたには分からない
「――!」
思わず目を瞑ったエルゼリの全身に焼け付くほどの熱が吹き付ける。轟音。続く悲鳴。何かが砕ける音。背中をきつく抱きしめられたまま、目の前の胸に縋りつくことしかできない。
それからどれほどの時間が経っただろうか。長い時間が経ったような気もするし、一瞬のことだったような気もする。
息ができる。すん、と鳴らした鼻孔には焦げたようなにおいと一緒に、清潔な石鹸の香りがした。
エルゼリは、そろりと瞼を持ち上げる。目の前に見える青い布、胸に当たる固い感触――シグレアが身に着けた鎧だ。エルゼリは押し倒されるような格好でシグレアに抱きかかえられているのだった。
何が起きた? 通路の中央からステンドグラスを見ていた時、階下ではまだ祈りが続けられているところだった。そこで数名の人影が立ち上がり、そのうちの一人がエルゼリの名前を呼んだ――。
ここでようやく何かが火を噴いたことをはっきりと思い出して、エルゼリは目の前に広がる青を揺さぶった。重い。半分伸し掛かられているのだから当然なのだろうが、エルゼリの手ではびくともしない。肺のあたりが圧迫されて息をするのも辛い。気を失っている? まさか彼の身に何か? 考えた瞬間声が出ていた。
「シグレア! シグレア、大丈夫ですか!」
「エルゼリ、アード様。ご無事ですか。」
げほ、と咳き込んだシグレアは、しかし意外にも機敏な動作で身をずらした。どうやら声を聞く限りではシグレアも無事らしい。
かすかに安堵したエルゼリの喉に、開いた隙間からぶわりと熱を帯びた煙が流れ込んできた。辺りには靄のような埃がもうもうと立ち込めているようだ。目と鼻の先にあるはずのシグレアの顔はかすかに灰色がかって見えるし、いつもは白い頬のあたりや白銀の髪にまで黒いものが散っている。
よくよく耳をすませば、周囲からはぱちぱちと何かが爆ぜるような音も聞こえてきた。あの爆発だ、当然火事が起きているはずで――。
そこまで考えたところで、横たわったまま視線を動かしてもシグレア以外の気配が感じられないことに気が付いて、エルゼリの全身から血の気が引いた。
「みんなは?」
「相手の狙いは間違いなくあなたです。……しっ。」
言うが早いか引っ張り起こされ、あっという間に壁の方に押し込まれる。エルゼリを片腕で押さえ込むようにしながらシグレアは階下を確認しているようだ。シグレアの視線は厳しく鋭く、エルゼリは問おうとした声を飲み込むよりなかった。シグレアはらしくもなく舌打ちをする。
「ここからでは見えないか……。」
そのままシグレアの肩越し、僅かに開いた隙間から視線を通路の方へと転じ。
「通路が……。」
それ以上は言葉にならなかった。礼拝堂と左右の居住棟を繋ぐ形で設けられていた通路の中央が破断している。当然そこにはエマの姿も、クルスの姿も、キリークの姿も、先ほどまで隣にいたはずの神官の姿もない。ただ、中空にぱらぱらと名残が舞っている。近付くことなど当然できるはずもないが、その下十数メートルの位置には礼拝堂があるはずだ。先ほどまではたくさんの人でにぎわっていたはずの空間。
「エマは!?」
「大丈夫ですよ。」
「だって!」
「クルスがいますから。彼は聖剣の主です。こんなことでは死なない。もちろん彼の傍にいる方も。とにかくこの場は逃れましょう。お静かに。」
乱暴な所作で外したマントをぐるりと巻き付けられ、あっという間に視界が闇に包まれる。拒否権など行使しようもないまま抱き上げられたと思った次の瞬間には、シグレアは走り出していた。
「ひゃっ!?」
「黙って。舌を噛む。」
包まれた布の中で髪の毛が逆立つ。
たぶん通路を背に走り出したシグレアは、そのまま小部屋が並ぶ二階部分の廊下を走っているのだと思う。シグレアの走る振動がそのままエルゼリに伝わってきた。大きなストライドに合わせてグラグラと容赦なくエルゼリも揺れる。
やがて上下の運動が激しくなり、走るペースが僅かに落ちた。階段を下っているのだ。階下からは一階分しかないはずの石造りの階段は、しかし礼拝堂の天井がとんでもなく高いこともあって普通の三階分くらいはある。シグレアはそれを一気に駆け下りていく。足音は最低限。角を曲がる際にピタリと動きが止まるのは、敵(と言っていいのか分からないが)がいないかどうかを確認するためなのだろう。
辺りはしんと静かだ。もう皆避難し終わってしまっているのだろうか。いや、先ほど礼拝堂で祈りが行われていたことを考えると、皆この辺りには居なかったと考えた方が妥当だろうか。ほとんど全員が礼拝堂に降りていたのかもしれない。今や炎に包まれているであろう礼拝堂に。
(だとしたら皆、あの爆発に巻き込まれて……。)
それは酷く冷たい想像だった。爆風は上と横に広がる性質がある。直撃を避けたエルゼリ達がいたあの通路さえ破壊されるほどの爆発だ。階下に集まっていた人がどうなったのかなど、考えるまでもないことだった。
エルゼリの予想通り、シグレアの足が階下に近付くにつれて、悲鳴じみた声や炎のはぜる音も近づいてきた。熱や異臭も。だが視界を塞がれてしまっている現状、何がどう思わずなっているのかエルゼリにはまったく分からない。視界だけでも確保しようと、エルゼリは目の前の布を掻き分けにかかった。
ほどなくエルゼリが視界の自由を取り戻したタイミングで、シグレアの足が一階の床を踏んだ。通路を抜ければすぐに礼拝堂だ。礼拝堂に入って右手側に走れば正面口。この通路を抜けずに左側の廊下を行けば勝手口に出るはずだった。だが警戒の色もあらわに階段の影に身を押し込んだシグレアはぎりと唇をかんだようだった。
「酷いな。」
エルゼリも言葉を失う。通路の先、礼拝堂の方から舐めるように炎が広がっていた。爆発直後、運よく通路の外に弾き飛ばされていなかったら、エルゼリ達も崩落した通路とともにこの礼拝堂に落ちて炎に巻かれていたことだろう。
「!」
炎の向こうに人影が見えて、エルゼリは思わず声をあげかけた。すぐにシグレアとの約束を思い出して口を閉じるが、人影の様子はただ事ではなかった。礼拝に参加していた人だろう。若者……だと思う。おそらく男性。バチバチと燃える炎の中、途切れ途切れに聞こえてくるのは彼の悲鳴だった。形容しがたい雄叫びを上げ彷徨う彼ののたうつ背中を、炎が包んでいる。よろよろと歩いていたその影はばたりと倒れて動かなくなった。
その後ろ、何かがいる。明らかに普通ではない何かが。
「シグレア……っ、」
それは人影だった。悠然とこちらに向かって歩いてくる。めらめらと燃える炎をものともせず。どうやら手には剣を持っているようだ。刃が炎をはじいてギラリと光る。ところどころ衣服が焼けこげ、煤にまみれて真っ黒に染まった顔の中央で、目だけが爛々とこちらを見据えている。その目には見覚えがあった。先ほどエルゼリを呼ばわった、修行者姿の男だ。もうこちらに気が付いているのだろう、迷いのない足取りで彼はまっすぐこちらに向かって歩いてくる。
「エルゼリアード様。そのマントには炎と矢避けの加護を付与しています。鎧よりは心もとないですが、多少ならば斬撃もいなすでしょう。絶対に離さないでください。それと……私が足止めをしている間にどこかの部屋から外へ。うまくすればマルク辺りが見つけてくれますから。」
言葉の意味が呑み込めない。早く、と促されても足が動かない。向こう側からは人影が近づいてくる。倒れた男の体をやすやすと踏み越え、一歩、また一歩。心臓がばくりと音を立て、冷たい汗が背中を伝う。
男が通路の入り口に差し掛かる。炎を背に立つその姿が、エルゼリの目に焼き付いた。
男には左の腕が無かった。白かったのであろうローブの先、そこだけが真っ黒に焼け焦げて消えている。なんてことだろう。己の腕ごと吹き飛ばしたのか。
動かないエルゼリに焦れたシグレアが、エルゼリの肩を強く押す。
「っ、」
「早く!」
言うが早いかシグレアが騎士剣を抜き放った。シャンと響く涼やかな音――そこに、かつんと硬質な足音が重なった。シグレアが目を眇め、すぐに驚愕したようにその目を見開く。
「まさか……。」
通路に足を踏み入れた修行者を装う男が、口許だけでにやりと笑う。エルゼリには見覚えのない顔だ。だがシグレアの反応を見る限り、彼にとってはそうではない。わなわなと震えた唇はすぐに血がにじむほどに食いしばられた。怒り、悲しみ、失望、落胆……あらゆる負の感情がシグレアの見開いた目の中でひらめいている。
「シグレア!」
「行きなさい!」
「させるかよッ!」
男が吠えた。ぐうん、と音を立てて剣が振り上げられ、駆け出す勢いでエルゼリに迫る。はっと息を飲んだエルゼリの眼前に間一髪、シグレアが滑り込み、騎士剣を跳ね上げた。ガアンッと鋼の間で火花が散る。
「国王の狗が……! 今度はそのお姫様とやらをお守りするのかよ!」
「彼女の処遇はクルスが決めたことだ! お前だって知っているだろうに……どうして今さら!」
「今更? ハン、今だからだ。」
「何……?」
ぎりぎりと押し込まれる剣にシグレアの騎士剣が震えている。逃げることも助けることもできずにエルゼリはただ男の声を聞いた。
「この機を失えば俺たちはこの女を始末できなくなる。こいつさえ消えれば、この世界から王族は消える!」
本気でそれだけが理由なのか。唖然としたエルゼリと同じく、シグレアも一瞬喉を引きつらせたようだった。だがすぐに吐き捨てるようにして男に言葉を投げつける。
「そんなことになんの意味が……!」
「意味? 馬鹿なことを! 国王を始末した時に俺たちはそんなこと考えていたか? ……そいつはあの馬鹿王の血を引いているんだ。それで理由なんか充分だ。殺すんだよ。そうしなきゃ終わらねえ!」
吠えた男に舌打ちをくれたシグレアが、怒号一声相手の腹を蹴り上げた。よろけた男の剣をそのまま薙ぐようにして振り払う。
「お前、どれだけ愚かなことを言っているのか分かっているのか!? 彼女は何も関係ない。此度の戦に関係していないどころか、城の地下で死ぬほどの目に遭っていたんだぞ……!」
「それがどうした?」
ぺっ、と唾を吐き出し、男が言う。
「何……?」
「お貴族様には分かんねえか。俺たちみたいにいつだって踏みつけられてきた人間の気持ちなんてよォ。」
男の目がにたりと笑う。
「そいつがどんな目に遭って生きてきたのかなんて、俺たちは知らねえ。知ったこっちゃねえ。俺たちにとっては、親が殺され、嫁が引きずり回されて、家も畑も町も……人生の何もかもをグッチャグチャにかき回されたことだけがすべてなんだよ!
あんたには分かんねえんだろうなあ……なんの不自由もしないで生きてきた、お綺麗な白銀の騎士様にはさあ!」
瞬間、めらりと男の目が燃えた。危ない、と頭のどこかで警鐘が鳴る。ちりちりと焦燥が広がって全身を冒す。危険。きけん。キケン……!
動かない足が震えて崩れそうになる。辛うじて堪えたままで、内側から殴られるかのように痛む頭をエルゼリは押さえた。
「! まて、やめろ、ジルバ!」
男の手が剣を投げ捨てて、ローブの腰から丸い何かを引っ掴む。それが何かなんて、考えるまでもない。ぼっ、とその頂点に赤い炎が生まれ、そして――。