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15 閃光と灼熱

人の波に混ざるようにして教会の入り口をくぐる。明るい景色に慣れていた視界が陰る。

ふと顔を上げたエルゼリの目の前に現れたのは恐ろしく荘厳なステンドグラスによる一枚絵だった。思わず足を止めそうになったエルゼリだが、後から後から人は押し寄せてくる。背中を押されつんのめり、気が付いた時にはすでに遅し。背の低いエルゼリはすぐに前を歩いていたはずのクルスとキリークを見失った。


――まずい。こんなところで迷子になったら困る。


慌てて歩き出そうとした足が誰かの足を蹴飛ばしてしまい、みぞおちのあたりがひやりと冷えた。思わず硬直したエルゼリの体は無数の腕に押しのけられる。片足のままふらついたエルゼリは伸ばした足を戻そうとしたが、そこにはもう別の足が入り込んでいてエルゼリの足の置き所はなくなっている。どうしよう。前にも後ろにも動けない。左右なんてもっと無理だ。見知らぬ人の波に揉まれて、どうしていいのかが分からない。

首だけならばなんとか動かせる。可能な限りで左右を見回しても、人の波は途切れることなく続いていて、エルゼリが割って入ることなんてとてもできなさそうだ。前に向かって歩くのが一番無難に思えるが、流されていった先にクルス達がいなければエルゼリは独り完全に迷子になる。見知った場所ならばともかく、見知らぬ場所でそんなことになったらエルゼリはどうやって王城に戻ればいいのかすら分からない。

混乱した頭では人の顔も格好もなにもかもが同じものに見えてくる。どこが入り口でどこが正面なのかも分からなくなってくる。エマ。シグレア。クルス。キリーク。いない。いない。知らない人しかいない。どこにいるの。


「エルゼリアード様。」

「あ、」


背中の方から聞こえた声がシグレアのものだと気が付いて、無意識に詰めていた息が口から抜けた。何とか背後を振り返れば、そこには青い騎士服が見えた。見上げるには相手の背が高すぎる。だが落ちてきた声は間違いなくシグレアのものだ。


「エルゼリアード様。ゆっくり歩いてください。」


落ち着き払った人ごみの中でもことさらはっきりとエルゼリの耳に届いた。失礼、と断りを入れつつ伸びていた手に腰を押されて歩き出したエルゼリの傍らを護るようにシグレアが歩く。右も左も分からず、頼みの綱はこの場に一緒にやってきた数名のみ。その中でもシグレアとエマはエルゼリにとっては特別信じるに値する人物だった。迷子になりかけたエルゼリを迷わず見つけてくれたシグレアには、感謝してもしきれない。

人の波から抜け出し、壁際にまでたどり着いた頃には、エルゼリもいつも通りの自分を取り戻していた。今思い返せば、生まれて初めての人ごみに動転してしまっていたのだろう。冷静になれば分かることだが、咄嗟には分からないものだ。白い壁に背中を預けて、エルゼリはようやく息をついた。

「助かったわ……。」

「ああいう場で足を止めるのはかえって危ない。お気を付けください。」

ごもっともすぎるシグレアの注意に眉を下げつつ、エルゼリは入口の方を振り返ってみる。先ほどまで自分もあの中にいたのか、と思うと不思議だ。傍目には川のようによどむこともなく流れているように見える列でも、一度その流れから弾かれてしまうと進むも引くもままならなくなる。

人の列は流れを乱すこともなく粛々と礼拝堂の前の方に向かって流れていくようだ。身長の低いエルゼリにはその先に何があるのかまでは見えないが、朗々と流れる呪文のような声と天井まで伸びるステンドグラスから察するに、祭壇でも用意されているのだろう。

「大丈夫でしたか?」

「クルス様。」

壁伝いにやってきたクルスの声がして、エルゼリはそちらに視線を向けた。エマとキリークも揃っているようだ。

「申し訳ない、こんなにぎゅうぎゅうだとは思わなくて。」

「こちらこそごめんなさい、一瞬迷子になってしまって。」

「仕方がありませんよ。こんなに人が集まっている場所は初めてなのでしょう?」

正確にはクルスと初めて見えた時に、数えきれないほどの視線を受けた記憶はあるが。だがあの時エルゼリは床に額をこすりつけていたし、周りの様子を気に留めるような余裕もなかった。

「それにしてもすごい人ですね。外から見たらこんなに混んでいるようには見えなかったのに。」

「今日は特別多いかもしれないですね。昼時だし……。さ、とにかくこちらへ。」

クルスに先導されて一行は礼拝堂の片隅に開いた、誰も通らない小さな扉を潜った。




「あなた様はこの国の宗教についてどの程度ご存じでいらっしゃいますか?」

「レルグ神とアーク神がこの世界をおつくりになった、というくらいしか。」

「創世神話ですな。」

エルゼリの隣に立ちそう言ったのは、この教会の神官の一人でクルスが案内を依頼していたという御仁だ。教会で修業をする者たちは皆、修行者になった段階で俗世での地位や名前のすべてを捨て去ることになる。この老翁もそうやって数十年を過ごしてきたという。

扉を潜ってから十数分後。先ほど通ってきた礼拝堂の入り口の真上――もっと正確に言うならば、普段はここに住む神官しか使うことのない、空中に浮かび上がる渡り通路の上にエルゼリらの姿はあった。

王城のエントランスホールと同じく、天井に向かって大きくアーチを描く構造の礼拝堂。その左右には神官らが祈りや生活に使用している大小さまざまな小部屋が用意されている。巨大な礼拝堂を中心に左右の行き来を行うための通路がこれ、というわけだ。下の礼拝堂からも左右の行き来は可能だが、確かにこれだけ人が入ってしまっている状態では通路としては使い物になるまい。

上から眺めると、礼拝堂の広さはさらに際立って感じられた。大規模な祈りの間となる礼拝堂は左右の壁際にまとめて柱を立てるような構造をしているので、中央付近がぽっかりと大きく口を開くような構造になっている。そこにみっちりと椅子が並べられ、人々が詰め合って腰かける。もちろんほとんど満席だ。椅子に座りきれない人は左右の壁側、柱が並ぶあたりに腰を下ろして、じっと祭壇の方を見つめているようだった。

「男神レルグと女神アーク……子なる神々を祀る教会も多くありますが、この二柱を祀らない教会はまずないといっていいでしょう。この世界に生きるすべてのものに神々の息吹が息づいています。我らはそれを確かめるために祈りを捧げ、日々を生きている。」

神官に先導される形で、エルゼリ、クルス、シグレア、エマ、キリークの五人は慎重に通路を歩いていく。空中に浮かんだ通路は、人が二人やっとすれ違える程度の細さだ。いちおう手すりも設けられてはいるが、うっかりここから落ちてしまえばひとたまりもない――というか恐らく礼拝堂に集まった誰かの頭上に落ちるわけだから、落ちた人だけでなく下に居る人も無事では済まないだろう。想像すると背筋が凍えた。高い場所は景色がいいから嫌いではないが、そういう場所で過ごした経験が極端に少ないエルゼリにしてみれば、想像だけでもぞっとしない。

下の方では祈りが始まったらしく、神官や信徒らが教典を読み上げる声が聞こえてきた。大きくアーチを描く天井付近に階下からの音が反響し、まるで全身を祈りに包まれるような不思議な心地がする。


歌のような祈りを聞きながら、通路の中央で立ち止まり、一行は揃って正面のステンドグラスを見た。

礼拝堂の正面口を入ればすぐに目に留まるこのステンドグラスは、天井付近から床までほとんど壁一面に広がる巨大なものだ。天井の方からは太陽の光が透過して色鮮やかに、下の方に行くにつれて光は陰り、代わりに礼拝堂内に点された無数の蝋燭に照らされてゆらゆらと揺れる。

差し込んできた光はガラス越しに礼拝堂の中を満たしながら、光の筋となって床に広がる。ガラスを通した鮮やかな色は、床や人の上にモザイク模様を描き出す。

祈りをささげる人々の姿はまるで光に祝福されているようにエルゼリには見えた。中空に見える光の欠片に向かい手を伸ばす。エルゼリの手には鮮やかな青色がともる。

「……本当にきれい。」

「美しいでしょう。女神と男神の神話を形にしたものですな。男神が大地を作り、女神とともに種を蒔き、そこからあらゆる生命が生まれていった。」

二柱の神が手を重ね、そのはざまに生み出した世界、フォーマルハウト。ステンドグラスの中央で輝く青い大地の上、跪いた人々が神々を見上げる。ステンドグラスの外で今も祈る人々と同じように。そこまで考えたところでようやくエルゼリは気が付いた。

「私たちはお祈りをしなくていいんでしょうか。」

エルゼリの言葉に、神官が目を一瞬丸くした。やがて垂れた目尻が一層下に下がる。

「祈りに時間は関係ないのですよ。こうして大勢の人々とともに祈ってもいいし、朝の目覚めや夜の眠りの前にひととき祈るのでも構わないのです。――……?」

語りかけてきていた神官の言葉が、そこで不自然に途切れた。

「あれは?」

祈りの声が続く礼拝堂の中心で、何名かの人が立ち上がっている。ばらばらと、あちこちで。全員、白いローブに身を包んでいる。修行者を示す飾りのないローブだ。

神官と信徒の祈りの歌は滑らかに続いている。祈りはまだ終わっていない。祈りの途中で外に出ることももちろん禁止されてはいないが、それにしても不自然過ぎた。


「エルゼリアード・アルメア!」


血を吐くような、どす黒い男の声。心臓が痙攣した。

祈りの歌が唐突に途切れ、痛いほどの沈黙が落ちる。

立ち上がっていたうちの一名が礼拝堂を見渡しているのがエルゼリからも見えた。


「エルゼリアード・アルメア! いるんだろう!」


再度男が叫んだ。

階下に集まっていた人々が揺れる。誰だ。いったいなんだ。不安と警戒。困惑。辺りにざわめきが広がる。

掴んでいた手すりが手に食い込むのにも気が付かずに、食い入るようにしてエルゼリは男を見た。ローブに隠れて表情はほとんど見えない。かすかに見える口許が痛いほど噛みしめられているのだけが見えた。


男はエルゼリがこちらに居ることには気がついていない。辺りに座る人々を蹴り飛ばすようにして数歩歩き、何度も何度も辺りを見回す。


エルゼリアード・アルメア。それはエルゼリの名前だ。ソドムア王アルメア家のエルゼリアード。ただ一人残された王女。その命に意味はなく、その血にも意味を持てない、名ばかりの王女。

――そう、名前だけ。でも確かに私は王の血を引いている。他人を傷つけ、踏みにじり、そしてきっとこの世界で一番恨まれていたであろう王の血を間違いなく引いている。


(まさか……。)


男が懐を探った。そして何かを見せつけるように天に突き出す。それが何なのかエルゼリには分からない。だが神官が、クルスが、キリークが、エマが、そしてシグレアが息を飲む音だけが聞こえた。

何が起きようとしているの。

分からない――いや、想像はついている。ついてしまっている。ただ頭が理解を拒否していた。だって、こんなに人がいっぱいいるところで、そんなことするわけがない。そうでしょう。こんなにいっぱい人がいるのよ。誰も何も悪いことなんてしてない人達だ。皆祈るためにこの場所に集まっただけ。大人だけじゃない、子供もいるし、お年寄りもいる。馬鹿な王様のせいで傷つけられて、戦争に巻き込まれて、ようやく生き残った人たちだ。幸せになる権利がある。これ以上傷つく必要なんてない。


それなのにあなたは何をしようとしているの――。


ガタガタと震えはじめた背筋にひやりと汗が落ちていく。心臓の音だけが煩い。ガンガンと耳元で殴るような音が聞こえる。

やめて。

やめて。

そんなことしないで。

からからに乾いた喉の奥がぎゅうっと締まる。


男の手が、ぼっ、と炎を発したように、見えた。


「エルゼリアード様!」


抑えた声で名を呼ばれ、一瞬で抱き込まれる。ひゅうっという不可解な音を聞いたすぐ後に――耳がちぎれ飛ぶほどの爆音と熱風が襲い掛かった。


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