13 私は何も知らない
古めかしい店の前に立ち、真鍮のような鈍い光沢を放つドアノブを捻る。と、開いた扉の隙間からは紙とインクの匂いがふうっと流れてきた。空気も心なしか冷たい気がする。
「こんにちは。」
恐る恐る顔だけをドアの隙間から覗かせていたエルゼリの上から、クルスが店内に向かって声をかける。
随分広い店のようだ。古い建物特有なのだろうか、城ほどではないがこの店の天井も随分と高い。窓にはカーテンがかけられ薄暗いが、ところどころに魔法によるものらしき灯りがともされているので、右も左も分からないというほどの暗さではない。
ぐる、と見渡す限り書架の列、列、列。正面にはカウンターと思しき卓があるのだが、そこには紙とペンが投げ出されているばかりで人影は見えなかった。
「誰もいないみたいですけど、入っていいんですか?」
「お店ですから。扉の鍵がかかっていないということは入っていいということでしょう。」
言って、クルスが迷いもなく扉を押し開ける。当然、ドアに縋りつく格好になっていたエルゼリの体勢は、何の前触れもなく前のめりに崩れた。ドアに支えられていた体が、勢いよく前に向かって倒れ込む。
「わっ……!?」
突然目の前の壁がなくなるような浮遊感。あ、まずい。ドアが遠ざかり己の視界が水平を失う光景がスローモーションに変わる。
恐らくこの時点でようやくエルゼリの状態に気がついたのだろう。クルスが焦ったように手を伸ばしてくるのが見えたが、間に合いそうにもない。エルゼリは一瞬後に訪れるであろうショックを感じて、思わずギュッと目を閉じる。
「っ、」
――がくん、と身体が空中に静止した。
ぐい。腹のあたりに、誰かの腕が回っている。あまりにも強く引き寄せられたから、内臓が押し上げられるような、痛いほどの圧迫感があった。だが助かった。あともう少し遅かったら、エルゼリは顔面から店の床にぶつかっていたことだろう。知らず安堵の息を吐き出したエルゼリは、礼を言おうと肩越しに背後を振り返り――。
「大丈夫ですか。」
聞き覚えのありすぎる声。男性特有の、鼓膜を低く揺らす音が、耳だけでなく接触した背中越しにも伝わってくる。おまけに、呼気がつむじの辺りに触れるのが分かって、エルゼリの顔は真っ赤に染まった。目の前一杯にシグレアの顔が見えている。焦ったような表情を浮かべていたシグレアだが、エルゼリの様子を一通り確認して、眦をふっと緩めた。頭の中が殴られたように真っ白になる。
(心臓に悪い顔……!)
それ以上はもう、言葉にならない。もともとが整いすぎた感のあるシグレアの顔は、その薄氷の色をした瞳の印象もあってか酷く冷たく見える。だがこの顔は駄目だ。言葉にされなくても充分すぎるほどに安堵の色が見えてしまうこの顔は。
「だ、だいじょうぶ。あの、その。手、もういいから、放して。」
細身に見えるシグレアの腕は、しかし服越しにも明らかに騎士のものと分かるだけの太さがあった。先ほどキリークに助けられた時とはまた全然違う感触だ、と思い、その思考にまた頭の中が混乱する。
布越しでも腹のあたりに他人の体温が触れるなんてとんでもないことだ。ありえない。王女だとか令嬢だとか向けの教育を受けた記憶のないエルゼリでも、その程度の常識はある。触れる、という意味でならエルゼリの足がまだ自由に動かせなかった頃には幾度となく抱き上げられたりしたが、その時だってさすがに腹には触れられなかった。だってその手がうっかり、ちょっとでも上にずれたら……?
いや、真面目が服を着て歩いているシグレアに限ってその手の幼女趣味はないだろうが。そして正直、エルゼリの胸は現状、絶壁以下のまったいらもいいところなのだが。だからといって容易く触れさせていい場所では断じてない。
(どうして一日に二度もこんな目に……!)
なんとか逃れようとばたついたエルゼリに、シグレアが怪訝そうな表情を浮かべる。
「もしかして足を挫かれたとか?」
ガクッと気が抜けそうになったエルゼリに非はないはずだ。
「違うから!」
「唐変木~。お前が離れれば済むことだよ。」
「シグレア様。エルゼリ様はレディですよ。そこ、分かってます? あまりべたべたとエルゼリ様のお体に触れるのは……。」
キリークとエマの言葉を受けて、シグレアはようやくそこに思い至ったらしい。はっとしたように目を見開いてからエルゼリを丁重に立たせ、音を立てるような勢いで一歩後ろに下がった。そしてガバリと頭を下げる。
「大変な失礼を……。」
「いや、そういうの今更だし……ええと。」
歩けなかったときには抱きかかえられていたくらいだ。その際も拒否権なんてものはエルゼリにはなかった。無理もない、エルゼリは単なる痩せっぽっちの子供に過ぎず、レディだなんだと言われてもシグレアだって困るだろう。彼は単純にエルゼリを善意で助けてくれただけだ。当然そこに不満はまったくない――心臓に悪いことは極力やめてくれと思うだけで。
さてなんと言えば伝わるかな……と考え込んだエルゼリの耳に、聞きなれない声が飛び込んできた。
「――扉をあけっぱなしにするな。本が傷む。」
「おっと。申し訳ない、店主。いらっしゃいましたか。」
扉に手をかけていたクルスが苦笑気味に応える。慌てて店の中を覗き込めば、カウンターのあたりに先ほどはなかった人影が見えた。すらりと背の高い男だ。艶のある長い黒髪を無造作に束ね、飾り気のない黒い服を纏った姿は、ともすれば暗い室内に同化してしまいそうだ。青白い肌だけがそこに浮かび上がって見える。
左の眼にはめられていたモノクルを外し眉間を抑えた男は、不機嫌な様子を隠しもせずに一行を睨み付けた。
「入るなら入れ。そうでないなら疾く速やかに去れ。」
客に対する物言いらしからぬ言葉であることは分かるが、クルスは苦笑するばかりだ。
「もちろん入りますよ。……さあ。皆入りましょう。」
クルスに促されて、エルゼリ達は薄暗い店内に足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れると、店内は一層ひんやりとしていた。思わず二の腕を擦る。部屋の中は思ったよりは暗くはないが、それでも外と比べればまるで夜のようだ。
「光と熱で本が傷む。この状態が一番本にはいい。」
店主がそっけなく言いながらカウンターから出てくる。やはり随分と背が高い。それでもシグレアよりは低めだろうか。どこもかしこも細身なので、背が高い、というよりもひょろっとしているという表現の方がしっくりくる。年齢はシグレアよりは上……三十代くらいか、と検討をつける。目の下にはくっきりと隈が落ち、背中は猫背気味。纏う色の黒さもあって、どことなく陰気な印象だ。
結んだリボンごと肩から滑り落ちてきた髪をうっとうしいとばかりに払いのけ、店主が近づいてくる。彼はクルスとエルゼリの目の前で立ち止まり、鼻を鳴らした。
「で? エルバンの坊やが何しに来た。」
「いや、近くを通りかかったから入ってみただけですよ。」
「フン。お前がそんな殊勝なことを考えるものか。」
明らかに馬鹿にした様子だ。どうやらこの二人は顔見知りらしい。そういえば先ほど、クルスが一度この店に来たことがあると言っていたから、それ自体は不思議な話ではないけれど……それにしたって随分と感じが悪い。
「お前がぞろぞろと人を引き連れてくるというのも気味が悪い。そもそもエルバンよ、お前は本になんて興味ないだろう。」
「ばれました?」
「当たり前だ。貴重な本を売る相手のことが分からなくて店主なんてやってられるか。」
成程、どうやらクルスは本を読むのが嫌いらしい。生い立ちや身分を考えると、そういった教育を受けていない可能性もあるから無理からぬことだとは思う。――かくいうエルゼリ自身も、実は文字の判読には苦手意識があるので人のことをどうこう言えたものではないが。
「どのみちお前がなんの用もなくここに来るわけがない。何がお望みだ? この辺りの地図だったらもう売らないぞ。根こそぎ買い占めやがって……。あとは自分で写すなりなんなりしろ。」
「いえ、もう地図はいいんです。そうだ……彼女が読めそうなものって何かありますか。」
「彼女?」
怪訝そうに顔をしかめた店主は、そこではじめてエルゼリに視線を向けた。黒々とした瞳がじっとエルゼリを見下ろす。冷たく温度のない、まるで虫か動物を観察するような目線に居心地悪く身じろいだのをどうとったのか、店主はふうん、と口許に笑みを浮かべた。
「とうとうお前も身を固める気になったのか。どこの娘だ。しかしまあ、こんなパッとしないちんちくりんの幼女が相手とは……つくづくお前という奴は業の深い……。」
店主の言葉に底冷えしそうなほどの視線が飛んでくる。ひっ、と喉を鳴らして思わず振り向けば、エマとシグレアがとんでもない顔をして店主を睨み付けていた。店主の方はといえばまったく気にしたそぶりもなくクツクツと笑っている。ちなみにキリークの姿は見えなかった。奥の方から歓声が聞こえてくるるので、いつの間にか書架の方にまで入っていってしまったらしい。全然気がつかなかった……ではなく。なんて協調性のなさだろうか……。
「冗談だ。身なりはそれなり、わざわざシグレアまで付き合わせて……フン。面倒そうな子供だな。こんなところ連れまわしたりしていい娘なのか。」
いかにも疑わしい相手を見る目つきに、クルスが苦笑した。
「素性についてはノーコメントで。どうでしょう、ありますか?」
「ないわけがないだろう。ここらじゃうちが一番の品ぞろえなんだ。だがなあエルバンよ。読むのはこの娘なんだろう? お前が本なんぞ読むわけがない。」
「ええ。おっしゃる通りですよ。」
なんだか勝手に話が進められている……。それが分かってもどうもこの店主に対する苦手意識が拭えず口を挟むこともできないエルゼリだったが、「おい」と声をかけられてさすがに相手の顔を見ざるを得なくなった。肩を一つ揺らし、視線を上げる。黒々とした目がこちらをじっと見下ろしていた。
「お前、文字読めるのか。」
「ええと……すみません。ちょっとだけ。」
冷ややかな視線はエルゼリの言葉にも特に変化を見せなかった。先のやり取りから、文字が読めないと分かれば軽蔑のまなざしでも向けられるかと思ったのだが……もしかするとこの男、もともと目つきが悪いだけなのかもしれない。
「エルバンの坊やがあんたを連れてきたってことは、あんたが知りたいものは教えてやっていいってことなんだろう。何が知りたい。書物は先人の知恵の結晶だ。知りたいと望む相手にはきちんと開かれてしかるべきもの。」
店主の言い回しは回りくどかった。要するに、知りたいことがあるならそれに応える本を出してやろう、ということなのだろうが。
それならば。
――街を僅かに歩いただけでも、エルゼリには知らないことばかりだった。この街の成り立ち、人々の生活、この国の歴史――。もちろん十数分歩いた程度で何が分かるというものでもなかろうが、分からないことがあると分かったこと自体が収穫であるように思う。
エルゼリが知っていることはあまりにも少ない。
部屋に閉じ込められて十二年。外の世界のことを知る機会は、間諜をはじめとする捕えられた人物たちの記憶に限られていた。それ以外に知っていると言えそうなものはといえば、クルス・エルバンという勇者が辿ってきたのであろう『フェイタル・フォーマルハウト』のシナリオ上のことだけ。それはこの世界の一部でしかない。
ゲーム内で語られることのなかった幾千幾万の民の苦しみや悲しみ、日々の営みは確かにこの世界に存在しているはずなのに、それらはすっぽりと抜け落ちたまま――知るすべを持たなかったのは確かだが、エルゼリはあまりにもこの世界のことを、この国のことを、知らなすぎる。
監禁され、利用され。何一つ知ろうとしていなかったけれど、こうして目の前に機会を提示されて――手を伸ばさない理由がない。
「あの、」
「なんだ。」
「歴史とか地理、風習とか、神話のたぐいとか……とにかくなんでも。そういう本ってありますか?」
「はあ? いや、まあそりゃあピンからキリまであるが……お前、読めるのか?」
「読めないかもしれません。」
「……読めないのに読む、だって?」
「簡単なものからでいいので、少しずつ。あ、辞書と地図もあれば……。」
先ほど店主は地図がどうの、と言っていたが、地図があるならぜひとも見てみたい。地図はそれだけであればただの地図以上の何物でもないが、歴史背景や人の暮らしぶりを照らし合わせていけば、それだって立派な情報源になる。
それに。
(私はいずれ北に行かなくてはならないのだし……。)
王都のことすら碌々分からない自分が、何もわからないまま北に行ったら。――ぞっとしない話だ。
そこまで考えたところで、はたとエルゼリは硬直した。
根本的な問題があるではないか。
「……あの、」
消え入りそうな声に店主が片眉を上げる。口に出せる雰囲気でもなく、しかし言わないわけにもいかない。
「…………お金が……。」
「そんなもの。」
店主がなんだ、という顔をして顎をしゃくった。
「どうせエルバンの坊やが出す。」
「えっ。いや、そんな。」
「ええ。まあ限度はありますけど、十冊くらいまでなら。」
「十冊!? いや、ちょっと待ってください、本ってだって、高いんでしょう?」
正確な値段は知らないが、エルゼリが知る限りでも庶民には手が出せないくらいの値段だったような。慌てるエルゼリに、クルスがいいんです、と頷いた。
「そもそもそのつもりが無ければ連れてきていませんから、お気になさらず。あなたにも必要なものだと思いますし。」
「でも……!」
エルゼリの剣幕を見かねたのか、店主が言う。
「買う金が気になるのか? 何だったら貸してやってもいいぞ。貸し賃は頂くけどな。」
「そんなことできるんですか?」
「あぁ? そこからかよ……。いいか、本は貴重だからな。どうしたって買えない奴もいる。ある意味宝石とか金よりも価値があるんだ。で、どうしてもって奴には担保を入れてもらったうえで、一定期間本を貸したりもする。……おい、エルバン。この娘こんなことも知らねえのか。」
後半はどうもクルスに向けたものらしい。しゅんと小さくなったエルゼリを見て、クルスが苦笑を浮かべた。
「本当に素性については勘弁してくださいよ。じゃ、お借りする方向でお願いしますか。」
どうです? と視線で問われ、もちろんエルゼリは一も二もなく頷いた。