12 初めての街
「ここで降りましょう。」
数分後。クルスの掛け声で馬車がゆっくりと停車した。悪化した車内の空気に耐え兼ねて窓の方ばかり見ていたエルゼリだが、景色が見えていてもここがどこなのかはまったく分からない。何しろ城の外に出ることが初めてなのだからこればかりは仕方のないことだ。
「ここはどのあたりなんですか?」
エルゼリの疑問にはクルスではなく、キリークが満面の笑みで答えた。
「街の中央だよ。ここから先は歩きながら街を見るんだ。……ん?」
突き刺さるようなシグレアの視線に気がついてキリークが眉を下げる。
実は先ほどから今に至るまで、シグレアとエマの機嫌は下降したままだ。エルゼリがキリークの態度を許したのがいけないのだろうが、だとしたらあの時エルゼリはどうするべきだったのだろうか。割と真剣に悩む。あの場でキリークの態度にダメ出ししたとしても、マイペースを地で行く彼の態度が改善されたとはとても思えないのだが。
「何を考えている……?」
シグレアの目が一層細くなった。口調もこれ以上ないほどに冷たい。だがキリークの方はまるで堪えていないような様子で首を傾げた。
「何って、別に? 街を歩いたことのない王女様に、街を案内してあげるだけじゃんよ。」
「それだけの話ならば私やエマ殿で問題なかったはずだ。」
「三人だけで楽しく遊び歩くつもりだったわけ~?」
ああやだやだ、と言ったキリークの声が明らかにこの状況を楽しんでいるようにしか聞こえず、案の定シグレアが眦を一層釣り上げた。どうやらこの一言が最後の一線だったらしい。彼は音も立てずに立ち上がった。
「エルゼリアード様。行きましょう。」
「行きましょうって……ちょ、」
伸びてきた手がギリギリの強引さでエルゼリの手を引く。狭い車内、うっかりすれば目の前のエマや隣に座るキリーク、その隣のクルスの足を踏んづけてしまいそうになるがシグレアの手に抗えるはずもない。らしくない強引さが彼の機嫌の悪さを匂わせるから尚更だ。
「そんなに引っ張らないで。危ないわ。」
「足元に段差がありますからお気を付けを。」
「~~ッ、もう……。」
反論も意見もさせてもらえないらしい。ため息を一つついて、エルゼリは文句の言葉を喉の奥に飲み込んだ。
引きずられるようにして馬車から降りた。その途端、目の前に大きな黒塗りの何かが見えてびっくりする。どうやら馬車のようだ。エルゼリの身長では楽々と車輪の下を潜れそうな、大きな馬車である。
ぽかんとしたのも一瞬のこと。シグレアに手を引かれるまま、その馬車の後ろを迂回すると、一気に視界が開ける。
綺麗に整地された――公園だろうか? と考えてすぐに違うなと否定した。一定の間隔で木が植えこまれてはいるが草花の姿は見えず、あるのは一定間隔で植えられた木々と道路だけ。遊具のようなものもないし、格別子供が集まっているようにも見えない。
ぐるりと見渡してみる。円形にくりぬかれたようなこの場所の周囲を道路が取り囲んでいるのが見えた。車輪の音や人々のざわめきは聞こえてくるが、木々が多少音を吸収しているのか、それほど煩くは感じない。
「ここは……?」
あちらこちらにぽつぽつと、エルゼリ達が乗ってきた馬車と同じように幾つもの馬車が停車していた。客を乗せていないところを見ると、どの馬車も休憩中なのかもしれない。馬の世話をしている御者もいれば、馬そっちのけで御者台の上で眠っている御者もいるがのんびりしたものだ。
「ここがファルマーナの中央広場です。朝市が立つ場所なのですが、この時間だともうほとんど店じまいでしょうね。」
夢中になって辺りを見回しているエルゼリを見かねたのか、シグレアがあちらを、と指さした。確かにシグレアが示した方向――丁度広場の中央には布張りのテントが数軒並んでいた。しかしテントとテントの間には不自然な空きがある。市場はこの時間には閉まるとキリークが言っていた通り、朝のうちに出店した店も、売るものを売りきったらさっさと店じまいをしてしまうのだろう。
「随分広い場所なのね。あなたたちと一緒に行った庭よりも広そう。」
「広場の周り……見えますか。放射状に道路が伸びているでしょう。この広場は、この街のすべての道路の中心点と言える場所なんですよ。」
広場の周りをぐるりと一周、幅の広い道路が取り囲んでいる。そしてその先には、シグレアが言う通り、四方八方に直線道路が伸びていた。道路の幅はまちまちだ。人がようやく二人すれ違えそうな細い道路もあれば、馬車が余裕で二台、三台と並んで走ってもまだ余裕がありそうなほど広い道路もある。
「あら?」
辺りを観察していたエルゼリの視線が、ある一か所で止まった。
綺麗に整備された広場の中で一か所だけ、石畳がそこだけ抜き取られたような箇所がある。それも結構な広さだ。遠目だから正確には分からないが、エルゼリ一人分ほどの大きさの石畳が、軽く十数個はまとめて抜き取られているように見える。段差にならないようにするためか白い砂利を使って穴を埋めているようだが、綺麗に整えられた広場のそこだけが辺りと調和していない。他にも違和感はあった。抜けた石畳に近い位置に植えられていたと思われる木が、根っこごと掘り返されたようになくなっているのだ。あるはずのものの不在が、違和感に変わる。
「シグレア様、あれは――。」
「どうでしょう、今日はここから教会の方まで歩いてみようかと思ってるんですが。」
尋ねかけたエルゼリの声は背後からのクルスの声で遮られた。ニコリと笑ったクルスの後ろに、相変わらず機嫌を損ねた様子のエマと、マイペースな笑顔を崩さないキリークの姿も見える。シグレアの目が一気に冷えた。エルゼリと会話をしていた時とはまったく違う。はっきりとした変貌に驚くエルゼリには構わず、シグレアが口を開いた。
「クルス。先にはっきりとさせておきたいのですが。今回の件、本当にエルゼリアード様への街の案内だけが目的ですか。」
シグレアの問いにも、クルスの表情は変わらない。ちらりと窺った先、キリークの表情もにこやかな笑みから変わることはなかった。
シグレアの問いの意味はエルゼリにも分かる。色々と不自然なのだ。はっきりと危険だとは感じないが、何か裏があってもおかしくない気配がしている。
「エルゼリアード王女はこの街のことをご存じない。ソドムアについてもそうだろう。この先こういう機会をどれだけ用意できるか分からないし、彼女の立場を考えても僕が案内するのは決して間違った判断とは思わないよ。」
「それについては百歩譲って理解できます。ですが最初からあなたが来ると分かっていれば、もう少し目立たないようにするとか、護衛を用意するとか、何かしら対応ができたはずだ。違いますか。」
「君は、」
一瞬だけクルスの声が硬質な響きを帯びるのをエルゼリは感じ取った。
「君は彼女を守るんだろう? 何があっても。」
シグレアの言葉が途切れ、薄氷の色をした目が見開かれる。時が凍り付いたように、誰も声を発しない。ごく、と息を呑んだ音だけがやたらと大きく耳についた。
「だったら問題ないよ。一応用心のためにキリークも連れてきたわけだしね。」
「それとこれとは……。」
一転、にこやかにほほ笑んだクルスに、シグレアの気勢が削がれていくのがはっきりと見えた。クルスの声がシグレアの感情を変えてしまったのだ。彼の声には迷いがなく、絶対的な強者だけがもつ力がある。魔法ではないけれど、これがクルスの「力」なのだろうなとエルゼリは思う。
「じゃ、行きましょうか。エルゼリアード王女。」
裏がある。それははっきりしている。
だが、分かっているからといってこの場から逃れられるかといえば――否。
「ええ。」
クルスの声にはっきりとエルゼリは頷く。長い一日になりそうだ。
広場を横切り、円形の通りを横断し、先ほど馬車で通り過ぎてきた大通りからは数本離れた道に足を踏み入れる。
通りの左右には歩道が整備され、歩道に面する位置にはずらりと商店や家が軒を連ねていた。建物は当然王城よりは小さいが、それでもエルゼリの身長では見上げてもてっぺんが見えないこともしばしばだ。
先頭をクルスが、その横をエルゼリが、エルゼリの斜め後ろをシグレアとエマが固め、殿をキリークが歩く。大人五人の中に小さな子供が一人というのはどうも人目を引いてしまうのかもしれない。
(おまけにシグレア様とエマとキリーク様が一緒なんだものね……。)
シグレアは言うまでもなく、キリークもかなり目立つ容姿をしている。その上行動や発言がいちいち大げさで煩いので、これは目立つなというのが無理だろう。
エマは、彼女一人ならばさして目立つこともないのだろうが、このメンバーの中で唯一侍女のお仕着せを身に着けている。地味で目立ちようのない服を身に着けたクルス、エルゼリと、銀と青を基調にした騎士服に身を包んだシグレア、細かい刺繍を施したいかにも貴族向けと分かる私服を着込んだキリークの取り合わせは、あまりにもちぐはぐだ。
「……なんか私達、無駄に目立ってません?」
見た目や取り合わせの面から同意を求めたエルゼリだったが、クルスの答えは予想していたものとは違った。
「まあ確かに僕らの関係というか、見た目の印象を気にする人はいるでしょうけど。永らくこの辺りに住んでいる人達は、それぞれ顔見知りだったりしますから、そちらを気にする人の方が多いと思いますよ。僕らは正直、彼らからすればよそ者ですから。」
目を丸くしたエルゼリに、クルスが笑う。
「うーん、街や村ではご近所づきあいといえばいいでしょうか……隣同士の家とか、同じ通りに住む家とか。近い家の家族同士、何代にもわたってお付き合いがあったりするんですよ。そうそう転居したりすることもありませんから。
たとえばこの街は五代前のクルセド王の代から整備をはじめていますから、その時期からずっと先祖代々、同じ場所に住み続けている家もあると思います。そうなると、その近辺の家の子ども同士、親同士、おじいさんやおばあさん同士といった具合でずっと付き合いが続いているなんてことがざらにあるんですよ。彼らは皆、顔見知りですから、逆に顔を知らない人がいればよそ者と分かるでしょう?」
「へえ……。」
成程、そういう理由もあるのか。そう聞けば、こちらを見ている人たちの視線もそれほど怖いものとは思えなくなった。通りすぎる人たちに会釈を返したりしながら、エルゼリ達はどんどん先へと歩いていった。
道は緩やかな傾斜を描いて上り坂だ。はっきりと分かるような傾斜はないが、歩いているとふくらはぎのあたりがかすかに突っ張る。
ふと振り返ってみる。かすかに下り坂になった向こうに、先ほどまでいた中央広場が見えた。前に向き直ってみても、街並みは整然と続いている。この一つ一つに人が住んでいて、彼らの先祖が住んでいて、その歴史はこの道のように連綿と続いてきたのだ。そう思うとなんとなく胸の奥の方がじんわりと温もる。
やがて交差点に差し掛かる。立ち止まったエルゼリは、建物の一つを見上げてため息をついた。正面に見えるのは石壁に彫刻を施された古めかしい屋敷だ。商店の並びにあるところから考えると、貴族の家などではなくどこかの商人の持ち物なのかもしれない。年月の経過によってかところどころ彫刻が剥がれてしまった跡があるが、絡みついた蔦模様はまるで本物のように生き生きと空に向かって伸びている。
「どこも綺麗ですよね。建物も、道路も、とても古いみたいなのに大事に使われてるように見えるわ。」
「この辺りは特に古い家が多いようですからね。建国以来となれば、二、三百年前の建物もあるかもしれません。」
「三百年!」
一言で三百年と言ってしまうのは簡単なことだ。しかし、エルゼリが生きてきた十二年という年月とて決して短いものではないのに、その二十五倍とは。まったく想像もつかない年月にエルゼリはため息を吐くしかない。
「ほら、あの角のお店は確か百年くらい前の建物ですよ。僕も一度入ったことがあります。」
「へえ……!」
クルスが指差したのは、エルゼリが見ていたのとは逆方向、対面の角にあるこじんまりとした建物だった。道路に面した壁面に色鮮やかな旗が掲げられている。図案を見る限り、どうやら書物を扱う店のようだ。
「本屋さん?」
思わず口に出た。顔にももしかしたら『行きたい』と書いてあったのかもしれない。今にも走り出しそうなエルゼリの様子に苦笑しつつ、クルスが言った。
「そうです。入ってみますか?」
生まれて初めてのお店やさんだ。いやがおうにもエルゼリの気持ちが上がる。力一杯手を握りしめて、エルゼリは大きく頷いた。
「はい! もちろん、ぜひ!」