11 食えない男
ゆっくりと動き始めた馬車の中にはなんとも言えない空気が漂っていた。
「……。」
エルゼリの左右を固める形で腰を下ろしたシグレアとエマは、馬車に乗り込んでからは一言も口を開いていなかった。双方示し合わせたわけでもないのに、人形のように表情を崩さずじっと馬車の揺れに身を任せている。
窓側に座るシグレアの正面には向かい合う形でクルスが腰を下ろし、その隣――丁度エルゼリの正面の位置には、今日初めて顔を合わせる反乱軍のメンバーが腰を下ろしていた。キリークと名乗った彼は、屈託のない様子でエルゼリに握手を求め、「どうせなら女の子の顔が正面にあった方が気分いいから」という理由でエルゼリの正面を陣取ってしまったのだった。今もくるくるとよく動く蜂蜜色の瞳で、いかにも楽しげにエルゼリを観察している。
(何か私の顔についてるのかしら……。)
うかつに口を開くような気にもなれず、かといって相手をじろじろ見るのも失礼だし。自然、エルゼリの目線は腿の辺りに重ねた己の手指に落ちる。手首には先ほどエマが結んでくれたグレーのリボンが揺れていた。柔らかい光沢を放つグレーは、鉄と同じ色なのに優しく品がある。それほど揺れることもない馬車の中、しかし時々かたんと車輪が上下に動くタイミングでリボンの裾も揺れた。
ちら、と視線を上げればすぐにそれはキリークの金色の瞳にぶつかる。バッチリと目が合い、瞬間いたずらっ子のような目が微笑みの形に変わる。
――キリーク・ラトキエフ。『フェイタル・フォーマルハウト』作中ではあまりエピソードを持たないキャラクターだ。そもそも『フェイタル・フォーマルハウト』というゲーム、売れたゲームの特徴としてそこそこビジュアルが綺麗だったけれど、あくまでも戦略シミュレーションゲームであり、それ以上でもそれ以下でもない。キャラクターについての描写は必然的に主人公たる勇者・クルスを中心とした戦史ものとしての描写に限られ、各キャラクターの掘り下げの度合いはシナリオへの絡み方によってかなり異なる。
……見たところ、年齢はおそらくクルスよりもいくつか上。シグレアと同年代くらいだろうか。国王によって一代貴族として召し上げられ、宮廷にも出入りしていたことがある人物だが、クルスが反乱軍を立ち上げた時には初期ユニットとして仲間に加わっている。諜報や偵察を得意とするキャラで、主人公側の登場人物としては珍しく魔法を得手とする――ゲームで語られている設定はこの程度のもので、あとはちらほら会話が発生するだけ。舞台が戦略シミュレーションゲームなのだからこればかりは仕方がない気がするが。
それにしても。
(なんか癖のありそうな人……。)
柔らかそうな蜂蜜色の髪と同じ色の目、いつも浮かんでいる笑顔がトレードマーク。だが一代貴族の位を投げ捨て、最初期からクルスの許で活動している、となると。
(『クルス』が聖剣を得たのは村が崩壊した直後……そのあとゲームが始まるまでって、そんなに時間経過があったわけじゃないはずよね。)
もしもゲームの情報と全く同じ時間軸で彼がクルスの仲間に加わっていたのだとしたら。キリークという男、相当早い段階で――もしかしたらゲームが開始されるよりもかなり前の段階で国王を見限っていた可能性が高いのではないだろうか。そうでなければ最初からクルスに協力する、という真似は出来ないはずなのだ。
見た目や様子からは年齢不相応な無邪気さしか感じられないが、彼の本質はもっと違うところにあるのかもしれない。いくらエルゼリに『フェイタル・フォーマルハウト』の記憶があるといっても、あくまでも分かることと分からないことがあるという前提を忘れないようにしなければ……。
「王女様は外に出るの初めてなんでしょ?」
ふと、エルゼリの正面からなんの気負いもない様子で声をかけられた。思考の海に沈みかけていたエルゼリだが、すぐにここが馬車の中で、目の前に座っているのがキリークであることを思い出す。
「はい、そうです。」
意を決して顔を上げ頷けば、キリークの顔には弾けんばかりの笑顔が浮かんだ。あまりにもその表情が子供じみた屈託のなさだったので、エルゼリの緊張はがりっと削がれる。拍子抜け、というか予想外、というか。
「えっと……?」
「いやあ。そろそろ街に入るからさ、せっかくだし窓の外見とけばいいのにって思って。まだ整備が終わってないところもたくさんあるけど、馬車から見る景色もいいもんだよー。君、身長低いじゃない? 外に出たら同じようには景色見られないでしょ。」
まったく悪気が無いらしい発言だが、「身長が低い」のあたりでエマがムッとしたのが見えてしまい、エルゼリは慌てて笑顔を作り、エマに視線を流す羽目になった。
確かにエルゼリの身長は低い。女性の平均値を大きく割ることも越すこともないエマと並ぶと、エルゼリの身長はエマの胸のあたりまでしかない。同じ年齢の子どもであればエマの肩くらいまで身長があってもおかしくないはずなのに。
(エマは怒ったら怖いんだから……お願いだからやめて……!)
胃が痛くなりそう。ただでさえ不穏な車内、これ以上こちらを刺激しないでいただきたい。
だがエルゼリの懊悩に構う様子などキリークにはまったく見られない。ダメだこれ、マイペースさんだ。人の話聴く気がない奴だ。彼のペースに巻き込まれそうになっているのが分かるのに抗えない。
「俺の隣空いてるからさ。こっちの窓から見ればいいよ。ああ、あんまりカーテン開きすぎないほうがいいけど。変に顔見られたくないでしょ?」
(うぅ……今、下手に断わってもあれよね……。)
キリークは興味深げにこちらを見ながらポンポンと己の隣を叩く。エマとシグレア、両隣から感じる気配が一層冷気を帯びるが、だからといってこのお誘いを断る理由がない。相手は強制をしているわけではないし、発言内容には警戒すべき点がないからだ。
「そうですね。」
「エルゼリアード様、」
立ち上がったエルゼリに、シグレアが何か言いかけた。だが――まるで測ったようなタイミングでガタン! と馬車が揺れる。
「エルゼリ様ッ、」
「!」
慌てたエマとシグレアの手が伸びてくる。だが、その一瞬前にエルゼリの体はキリークの腕に抱きとめられていた。
ふわ、と香木のような香りが鼻先でくゆり、キリークの体温を酷く近くに感じる。先ほど挨拶する時に握った手の温度と同じ暖かさだ。縋りつく格好になった胸のあたりに堅い感触があるから鎖帷子のようなものを着込んでいるのかもしれない。
「大丈夫? 丁度街に出るところ段差になってるからさ。危なかったね。」
耳元でキリークの声が聞こえた。――鼓膜が震えるタイミングで己がいったいどういう状況にあるのかをようやく認識したエルゼリの心音は馬鹿みたいに早くなり、顔には一気に血が上る。いくら不可抗力とはいえ初対面の、しかも異性に抱き着くような真似を自分がしているなんて……!
「えっ、あ、はい、大丈夫ですすみません!」
辛うじてそれだけ答え、抱き留められた胸から離れようと腕をつっぱろうとするが、いつの間にか背中に回ったキリークの腕の力の方が強すぎて体勢を変えられない。
「ちょ……!」
慌てたエルゼリの耳に、他の誰にも聞こえないような音でキリークの声が忍び込んだ。
えっ、と聞き返したエルゼリに、キリークがニコリと笑いかける。
「なんでも。ほら、どうぞお姫様。」
「……? ありがとうございます。」
すっと離れた手。違和感はなぜかそこであっさりと消えてしまった。
真っ赤になった顔を伏せ、そそくさとエルゼリはエマの正面――キリークの隣に腰を落ち着ける。だから気がつかなかった。エルゼリの腰からキリークの手が離れた瞬間、シグレアがそれこそ射殺さんばかりの視線でキリークをねめつけたことに。シグレアの冷静さを欠いた怒気に、クルスは視線を僅かに反らせ、キリークは鷹揚に金の目を眇めて見せた。
冷たいながら激しい攻防にも気がつく様子のないエルゼリに、キリークが声をかけた。
「ほら、せっかくだから見てみたら?」
座席に落ち着いたエルゼリの脇のあたりをキリークが肘でつついてきて、エルゼリはようやくひとまずの落ち着きを取り戻した。……初対面の相手に対する対応としてはいかがなものかと思うが、それがキリークだと不思議と違和感がない。警戒をしているはずのエルゼリですら、気を削がれてしまう。
「あ、さっきも言ったけど、見るならカーテンの隙間からにした方がいいよ。この馬車、無駄に注目されてると思うし。大体クルスがこんな派手なやつ選ぶからさあ……。」
そのまま喋りだしたキリークに構わず、エルゼリはそっと窓にかかったカーテンの隙間を覗き込んだ。正直に言えば外がずっと気になっていたのだ。暗い車内に、外からの光が流れ込む。エルゼリは目を見開いた。
「――!」
どうやら馬車は商店がひしめく大通りを走っているようだ。エルゼリの目の前には石畳の街並みが広がっている。白い石を切り出して作られた家の壁。そこに、色鮮やかな張り出し屋根がかけられ、どこまでも続いていた。軒下には一軒ずつ内容の違う商品がぎっしりとひしめき、通行人が思い思いに買い物をしているのが見える。
買い物客の様子も様々だ。どうやら店主と値切りの交渉をしてるらしい若い女から、足を引きずるようにして重い籠一杯に食べ物を買っている老夫婦。店の軒から軒へ、影を踏みながら遊んでいる子供たちもいる。身なりこそ整わない人たちも多いが、皆表情は明るく楽しげに見えた。
魚。果物。肉。日用品。花、宝飾品のたぐいに色鮮やかなドレス。どこを見ても同じものは一つもなさそうだ。馬車がカラカラと車輪を回しながら走っていくのを、道行く人たちが目で追いかけてくる。手を振る子供もいた。思わず手を振り返しそうになるのをぐっと我慢。
ゆっくりと走る馬車の車窓からエルゼリは食い入るようにしてその光景に見入った。
「すごい……。」
「この辺りは商店街になってるから朝から夕方辺りまでずっとこんな感じだよ。」
キリークがにこにこ笑いながら言う。
「ほら、向うの方見える? あそこのとんがり屋根のところ。あそこが教会ね。ここからだと見えないけどもう少し先にいくと街の中央部で市場がある。もうこの時間だとしまっちゃってる店もあるかもしれないけど。」
「そうなの……。」
「まあ市場はまた今度だね~。」
「おい、キリーク。」
差し挟まれた声はシグレアのものだった。窓から視線を外しそちらを見れば、シグレアの綺麗な眉間にくっきりと縦皺が走っている。恐ろしく不機嫌そうな顔である。
シグレアの隣、エルゼリが座っていた場所はぽっかりと空いて、その隣にはエマ。二人の視線は揃ってブリザードが吹き荒れるかのような冷たさを帯びている。いつの間にこんなことに。思わずエルゼリの片頬が引きつった。
「あまり馴れ馴れしくするな。彼女は軽んじられていいお方では……。」
「それは君の都合だよね。俺には関係ないことだし。そもそもこの子、もう王女様でもないじゃんよ。ねえ、クルス?」
「えっ。そこで僕に振らないでよ。」
ここまで完全に蚊帳の外に置かれていたクルスが、逃げるように苦笑を浮かべる。首を傾げたキリークの目がこちらを向いた。あ、嫌な予感……とエルゼリの体は勝手に逃げを打つ。だがすぐに背中は壁にぶち当たった。
「え? じゃあ王女様に聞けばいい? ねえ、俺の喋り方これじゃあ駄目? いや、別に固っくるしく喋ろうと思えば喋れるけどさあ、あんまり好きじゃないんだよね~。ほらだって俺がそんな喋り方したって似合わないしさ? ねえ、別にいいでしょ? 俺は君の部下でもないし。ねえねえ~。」
「……黙って聞いていればキリーク、お前……!」
「さっきからベラベラと失礼なことばかり……!」
シグレアが一層眦をきつくし、エマはぷるぷると震える拳を開いたり握ったりしながら、キリークを睨み付けている。なんでこうなるの、と思いながらもエルゼリは結局キリークのご希望に『諾』と答えるしかなくなってしまった。