10 企みの予兆
数日後。降り続けた長雨が上がり、雲の狭間からは青空と陽光がこぼれ出した。最高の散歩日和、とまではいかないにせよ出歩くにはまったく問題のない日和だ。
「いよいよですね。」
「そうね。準備は万端よ。」
今日のエルゼリはいつも着ているのと同じような飾り気のない膝丈のワンピースに、ヒールのない革靴を履いている。ワンピースの色は地味な青だ。城の中に残されていたドレスのうちの一着で、袖口と襟に白いレースがあしらわれているほかは装飾と言えるような装飾は一切ない。ぱっと見た感じ、中流階級の子女くらいには見えるのではないかと思う。だがどうあがいても王女様には見えないだろう。いかんせん、地味すぎる。目立たないという意味では良いセレクトだと思うのだけど。
「髪の毛は邪魔になってもいけませんし、結っておきましょうね。」
長い黒髪はエマの手であっという間に三つ編みのおさげに変わる。髪を結うなんて久しぶりだ。自分では一本に結ぶくらいのことしかできないので、この数年ほったらかしだった。三つ編みの先端でグレーのリボンが揺れているのが目に入る。派手な格好はそもそも好みではないが、このくらいのお洒落は好きだ。機嫌のよいエルゼリに、エマもニコニコと笑っている。
「そうだ、エルゼリ様。お手元にも目立たないようにリボンを巻いたらどうでしょう。このリボン、まだいくつか用意してありますので。」
言って、エマがエルゼリの両手に嵌められた鉄の輪をちらりと見た。鉄の輪そのものも目立つが、これを外せばさらに悪目立ちするのが目に見えている。手首に刻まれた刺青はぎりぎり衣服の袖口から見えてしまうのだ。奴隷の証を付けた王女など、外聞が悪いどころの騒ぎでは済まない。さすがにこれを人目に晒すことに比べれば、鉄の輪を晒した方がましだ。
とはいえ、鉄の輪は『マシだ』というだけで、これもやはり見目としてはよくはない。両手首にリボンを巻きつければ少しは目立たなくなるだろう。もちろんこの心遣いにエルゼリは迷うことなく頷いた。
丁度準備が終わった頃になってシグレアがやってきた。
「エルゼリアード王女。おはようございます。」
すっかり身支度を終えていたエルゼリは、手にしていたティーカップをソーサーに戻し、ソファから立ち上がってシグレアに近付いた。いつも通りきっちりと撫でつけられた銀の髪。今日のシグレアは騎士服の上から白銀の軽装鎧に青いマントを身に着け、腰にはしっかりと剣を下げていた。
「随分いかめしい格好ですね。目立ってしまうのではないですか?」
てっきりお忍びで城下に行くものと思っていたエルゼリは首を傾げる。
「私はあくまでもエルゼリアード王女の護衛ですから、必要な装備は削れません。……それに、言うほど目立たないはずですよ。城下には毎日交代で仲間が見回りに行っていますから、皆騎士など見慣れているでしょう。」
「そこを抜きにしてもシグレア様は目立つと思いますけど……。」
エルゼリが持つゲームの記憶がこの現実にも適応されるのであれば、シグレアはかなりの有名人だ。王を裏切り勇者クルスの側近にまで上り詰めた騎士としての腕前の確かさに加えて、この見目。有名になるなというほうが無理な話である。このまま街を歩いたら女性の黄色い悲鳴が聞こえてきそうだ。もちろん嫉妬の視線はエルゼリにブスブス突き刺さることだろう。切実にご勘弁いただきたい。
「正直、シグレア様の隣を歩いたりはしたくないですね。」とエマ。エルゼリも同感だ。だが。
「エルゼリアード王女には私の隣を歩いていただきますから。」
「ですよねえ。」
きっちりと釘を刺され、エルゼリはため息を吐き出した。
準備が終わっていたので、ほどなく三人そろって部屋を出た。
すぐに扉の左右に立つ衛兵とエルゼリの目が合う。――今ではこの二人とも顔見知りだ。屈託のない様子で挨拶を返された。
「おはようございます。」
「お出かけでしたよね。お気をつけて。――そう言えば今日はローブはなしですか?」
きょとんとそのうちの一人が首を傾げる。彼が言う通り、今日のエルゼリはローブを身に着けていない(シグレアが持ってこなかったので身に着けようがなかった)。まあ、城下に降りることを考えればあのローブはむしろ悪目立ちするだろうから判断としては正しいのだろうが、エルゼリは少々落ち着かない気分だった。いつもはローブによって視界が半分ほど遮られ、相手の視線からも守られているのに、今日はまったくの剥き出し。軟禁状態に置かれてからは、ローブなしで部屋の外に出たことは一度もないので、なんとなく心もとないような気持ちにさせられる。
「あれを被って外に出たら、むしろ目立ってしまうからってシグレア様が。でも正直、あれがないと落ち着かないですね。」
眉を下げたエルゼリに、衛兵二人は破顔した。
「何も怖いことはありませんよ。シグレア殿がいらっしゃいますし。」
「そうですよ、隊長めちゃくちゃ強いですから。なにがあったところで、エルゼリアード様には傷一つつきませんて。」
と言った衛兵の表情がたちまち凍り付いた。
「口を動かす前に部屋の施錠をしておけ。何かあったら承知しないぞ。」
冷ややかな声に冷ややかな視線。シグレアだ。衛兵二人はシグレアにとっては直属の部下にあたる。上司の機嫌が大層悪いことを察知して、衛兵二人は鉄の棒を通されたかのように直立不動の姿勢を取った。
「……はいッ!」
「もちろんです!」
「行ってらっしゃいませ!」
「無事のご帰還をお祈り申し上げます!」
びしりと騎士の礼の姿勢を取った二人に背を向けてシグレアが歩き出す。手を引っ張られるようにしてエルゼリも後に続いた。
まるで迷路のような城内を歩く。緋色の絨毯が敷き詰められた城は、十二年間暮らしてきたというのにあまりにもエルゼリによそよそしい。最初こそローブがないことに不安を感じていたエルゼリも、歩みを進めるに連れて余裕が出てきた。天井や壁、行き過ぎる人々。なにもかもが物珍しい。
「エルゼリ様、あまりよそを見ていると危ないですよ。」
「分かってるんだけど……。」
と言いながらもエルゼリの視線は通路よろしく続く広間や部屋の調度に釘づけだ。螺鈿細工を施された棚。鮮やかな色で塗り分けられた壺。黄金色に輝くランプ、歴代の王のものと思しき肖像画の群れ。エルゼリの手を引くシグレアの足が止まらないので、エルゼリの視線も流れがちだが、どれもこれも贅をつくし過ぎている感がある。
「こういうものを持ちたがる人の気持ちはよく分からないけど、なかなかすごいわよね。」
「エルゼリ様らしいですわね。」
背中の方でエマが笑っている。そうこうするうちにまた階段を下り、気付けばエルゼリはエントランスホールにたどり着いていた。
以前のエルゼリであれば、ここまで自力で歩いてくることなどとても無理だった。だが今日は軽い息切れと疲労で済んでいる。周りの景色に気を取られているうちに、シグレアに引っ張られていたからかもしれないが。
少し荒れた息を整え、ゆっくりと深呼吸。
いつの間にか緩んでいたシグレアの手から離れて、思うままに上を向いたまま歩いてみることにする。
「うわあ……。」
真っ先に気がついたのは天井が高いこと。手を伸ばしても当然届くわけもない高さだ。今エルゼリが暮らしている部屋の天井だってなかなか高いが、ここはその二倍どころか、三倍以上の高さがあるのではないだろうか。
やはり他の部屋同様、天井にも彫刻やらフレスコ画が踊っている。青い空に天使と聖女が舞い、神が啓示を授けている……そんなところだろうか。ふくよかな頬の丸みや、柔らかくたわんだ布の質感が、遠く離れたエルゼリの目から見ても随分とリアルに見える。
「呆れた……あんなところにどうやって絵を描いたのかしら。」
「足場を天井近くまで組んで、画家がその上で描いていたそうですよ。僕も見たことはないですけどね。」
エルゼリの疑問に答える声が聞こえてきた。音の主の方を確認する。エントランスホールの向こうに男が立っていた。開いたままの扉の先からは太陽の光が差し込み、表情は分からない。だがその背格好、声には覚えがあった。忘れもしない、この国の王と王妃を殺した、反逆の勇者その人だ。
「――クルス様。」
「おはようございます、エルゼリアード王女。」
「どうなさったんですか?」
彼の様子を見るに、どうやらエルゼリアードを待っていた風に見えた。だが、その理由が思い当たらない。
首を傾げたエルゼリの横で、シグレアの顔が僅かに緊張を帯びたが、エルゼリはその様子には気がつかなかった。クルスが感情の読めない笑みを浮かべたのにも。
「僕も一緒に城下を歩こうかと思いまして。城下には何度か下りていますから、たぶんあなたよりは僕の方が詳しい。いくらか案内もできると思いますよ。」
「クルス。」
「大丈夫です。任せてください。」
クルスの言葉にはそれがすでに確定事項であるかのような力があった。彼の名を一度呼んだきり黙り込んだシグレア、いつの間にかよそ行きのメイドの顔になったエマを交互に見上げ、エルゼリは頷いた。
「……分かりました。お願いします。」
エントランスホールを出たエルゼリの目の前がいきなり大きく開けた。城壁に向かって、白い道が一本伸びている。広い道だ。白い砂を踏み固めた一本の道の左右には、色鮮やかな芝生が広がっている。晴天ならばさらに美しいことだろう。部屋の窓からも僅かにこの道を見ることが出来るエルゼリだが、実際にこうして目の前にしてみると印象はまるで違った。思っていたよりも道幅が広い。馬車が二台どころか、三台は余裕ですれ違えそうだ。往来は賑やかで、ぼんやりとエルゼリが立ち尽くしている間にも何名もの人々が城に入り、あるいは出ていく。
「綺麗なものですよね。城壁の先が街ですよ。あなたの足で歩くのは辛いでしょうから、馬車を用意してあります。そちらへ行きましょうか。」
「え、そんなものまで用意していただいているんですか?」
「一応これでも、一時的に英雄として担がれた身ですから。いろいろ融通が利くんです。」
「はあ……。」
「そんなに警戒されなくても何もしませんよ、僕はね。……さ、こちらに。」
先導するように歩き始めたクルスの後ろをエルゼリ達も追いかける。
――その時、エルゼリの横にすっとシグレアが張り付いた。そして、他の人物には聞こえないようなかすかな声で囁く。
「気を付けてください。……街に出たら、なるべく私から離れないように。」
しんと静かな声には、警戒の色が混じっている。だがシグレアはこちらを見ない。硬質な横顔はまっすぐにクルスの方だけを見つめている。
「ええ。分かった。」
すぐにエルゼリを追い越し、クルスの横に並ぶシグレアを目だけで追いかけたエルゼリは、ちらりと横を歩いていたエマに目くばせした。主の意図を察知してエマが不自然にならない程度の距離まで近づいてくる。エルゼリの斜め後ろのあたりだ。メイドの定位置である。
「どうやらただのお出掛けじゃないのかもしれないわ。」
私は、自分の置かれた状況を少し甘く見過ぎていたのかもしれない。
――ゲームのシナリオ上で語られるのは、王と王妃が殺害された後、ただ一人残されたエルゼリアード王女が北に幽閉されることだけ。そこに至るまでに何があるのかをエルゼリは知らない。少なくとも命を取られることはないだろうが、それだって保障されているわけではない。
正直、己についてはどのように扱われようと『前よりましであればいいか』という程度の気持ちしかなかったエルゼリだが、今ここにはシグレアやエマがいる。ことは自分ひとりの話では収まらない。
自分が死ぬ分にはまあ、仕方がない。あの親の血を引いているのは確かなのだから。諦めろと言われれば諦めもつくかもしれないと思う。
だがそれが予想もしない状況で起きてしまったら――たとえば、エマやシグレアが襲われるようなことになってしまったら。
(そんなことになったら……。)
これまで一度として己の目で見ることのできなかった世界を見ることができると浮かれすぎていた。……気を引き締めなくては。
「充分気を付けて。」
「ええ。」
言葉短くエマが答えたタイミングで、クルスとシグレアが立ち止まる。
見れば随分と立派な馬車が車止めにつけられていた。馬車の外にはエルゼリが知らない人物の姿も見える。
こちらの警戒を悟られるのも面倒だ。振り返ったクルスに、エルゼリはにっこりと微笑んで見せた。