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9 針の先ほどの違和感よりも好奇心が勝る

エルゼリがこの部屋で暮らし始めてから、早くも三週間目が過ぎた。

今日は生憎の雨。この部屋で暮らし始めてから初めての雨でもある。窓は雨水にずぶ濡れて、外の景色を曖昧に歪ませている。今日のお散歩はお休みになるだろう。

それにしても。


「……シグレア様、機嫌でも悪いのかしら。それとも何かまずいものでも食べたとか?」


部屋に入ってくるなり挨拶もそこそこに応接用のソファに腰を下ろした背中を見て、エルゼリは首を傾げた。


「さあ……? とりあえずお茶を用意しましょうか。」

「そうね。お願いしようかな。」


お茶は好きだ。王や王妃が存命の頃、エルゼリが自由に飲むことが出来なかった紅色の飲み物は、この頃にはすっかりエルゼリを魅了していた。最初のうちは胃袋の方が敏感すぎて受け付けなかったが、今では日に二度ほど紅茶を口にできるようになっている。

二週間目に入ったあたり――外に出て歩いていたことも回復に寄与したのだろうか――ものの味が分かるようになってからほどなく、食事に肉が出るようになった。スファルド医師が驚くようなスピードで、エルゼリの体力は回復傾向にある。


困惑気味のエルゼリに一礼して、同じく困惑気味のエマは首を傾げながら続き間になっている控室に下がっていく。隣の部屋は傍付きの侍女用に用意されたスペースであるらしく、火起こしの魔法で作動する簡易厨房が設けられているのだ。他の部屋では湯を沸かすだけでも一階にある厨房まで行かなければならず重労働だが、この部屋においては湯の用意もそれほど手間のかかることではない。


エマを見送ったエルゼリは、ごそごそとベッドから這い出した。ようやくこのふかふかのベッドにも慣れてきた。今では一人で滑り降りることが出来る。ゆっくりと慎重に足をカーペットまで下ろしてから、エルゼリはいつも通り内履きに足を突っ込み、ベッドの脇に用意してあった肩掛けを羽織った。夜半過ぎから続く雨で、この部屋も少し冷え込んでいる。

ゆっくりと歩いてシグレアに近付いた。ソファに深く腰を沈めたシグレアは、首を背もたれに預けて斜め上の方向をぼんやりと眺めている。

あら、とエルゼリは思った。――珍しい。普段からかっちり、びしっと、四角四面と言って差し支えないほどに規律に厳しいシグレアがこんな風にだらけた姿勢になっているところなど、エルゼリはこれまでの三週間で一度も見たことがなかった。もちろんゲーム内でもこんな姿は描写されていない。


どうやって声をかけたものか。もともとシグレアはその見目のせいもあって声をかけづらい。最近はだいぶ慣れてきたが、こう、いかにも不機嫌そうなオーラを背負われては……。


「……シグレア様。おはようございます。」


迷った挙句出てきたのは、先ほど既に交わしたはずの挨拶の言葉だった。シグレアの顔がようやくこちらを向く。なにを言っているんだ、と言わんばかりの顔だ。


「……おはようございます、エルゼリアード王女。ご挨拶は先ほど……何か?」

「え? いや、うん、何かって言われても、そこまでのことはないんですけど……。ええっと。」


もとより用件を問えるような立場でもない。思わぬ問いかけに、エルゼリの口調がうっかり崩れる。美形の無表情コワイ。睨むつもりもないのだろうがもともと鋭いシグレアの視線とぶつかった拍子に、エルゼリの表情は不自然に引きつった。

男女の別を問わず魅了するシグレアの研ぎ澄まされた美しさは、無表情になることで一層鋭さを増す。逆に多少微笑みが浮かぶだけでも随分と印象が変わるのだが、何分この男、あまり表情が変わらない。それでも普段はこれよりも随分マシなのだということが分かってしまい、更に微妙な気分に陥る。

彼はそもそもエルゼリの護衛だと言っているが、端的に言えば監視役でもある。エルゼリ自身はなんの苦痛も感じてはいないが、この部屋に閉じ込められている状態は一般的には軟禁と表現すべきであり、その現場責任者は彼だからだ。

何もなければこんな顔をするような人ではない、ということは簡単に想像がついた。クルスの傍に近いことを考えれば、彼の立場は反乱軍の幹部に近いはずで、だとすればエルゼリやエマに言えないことが幾つもあるはず。心が塞ぐこともあるだろう。

秘密を暴きたい訳ではないが、いつもらしからぬ様子については気になる。だいたい部屋に入ってきた時点でこんなに機嫌が悪いなんて、何かあったと言っているようなものだろうに。

事の仔細を根掘り葉掘り聞くのではなく、彼の悩みだけうまく聞き出せないものか。さてなんと尋ねたものだろう……。


「……申し訳ありません。あなたが悪いわけではない。大人げない態度を取りました。お許しを。」


内心ああでもないこうでもないとグルグル考えていたエルゼリの前で、シグレアが頭を下げる。えっ、と驚くエルゼリに気がつく様子もなく。シグレアは顔を片手で覆い、深く息を吐く。酷く疲れて見える。そのシグレアに向かいのソファを指し示されて、エルゼリはきょとんと目を見開いた。


「立っていてもなんでしょう。おかけになっては? それともベッドに戻られますか。今日は冷えますから。」

「え? いえ、大丈夫。肩掛けもあるし……お言葉に甘えてかけさせてもらうわ。」

「いや、よく考えれば部屋の主はあなただ。私が席を勧めるというのも、おかしな話ですね。」


言って、シグレアが薄く笑う。あ、いちおう笑えるんだこの人、と場違いなことをエルゼリは考えた。

そこで、ようやく気がつく。こちらを見たシグレアの顔色が大層悪い。


「シグレア様。冗談抜きでお顔が真っ白なんですけども……。」

「申し訳ありません。」

「申し訳ないとかそういう話ではなくて。」

「少し……考えることがありまして、睡眠がおろそかに。」


いろいろ、と言われてしまうとエルゼリの立場ではこれ以上の問いかけは出来ない。気まずく沈黙が落ちたところでタイミングよくエマが戻ってきた。


「あら、お二人ともどうかなさいました? まあ本当に酷いお顔。それ以上美白なさったって何もいいことありませんよ。」

「……。」

「シグレア様のお口が堅すぎて何も聞けなかったわ。とりあえず睡眠不足だってことは分かったんだけど。」

「まあ……とにかくお茶を淹れましたからまずはお飲みになってくださいませ。少しはリラックスできるかもしれませんし。」


トン、トン、とソーサーとティーカップが置かれる。見事な色をした紅茶からは華やかな香りが漂ってきた。甘ずっぱい香りだ。普段の紅茶の香りとは違う。


「ありがと。ん、いい匂い。何かしら? 果物?」

「ええ。リンゴをいただいたので、アップルティーを作ってみましたの。専門店のものには劣るでしょうが。シグレア様もどうぞ。」

「…………。分かりました。いただきます。」


言って、シグレアは長い指でティーカップを取り上げる。軽く一口含んで飲み込み、ふっと息を吐き出した。その一連の動作が驚くほど絵になっている。けだるげに持ち上がった腕や、きゅっと締まった詰襟の隙間から覗いた喉仏の動きまで妙に艶めいて見えるのだから、美形というのはめちゃくちゃだ。


(私ももうちょっと見れる見た目だったらいろいろ違ったのかしら……。)


ついエルゼリがそんなことを考えてしまうのも無理からぬことではあった。

手にしたカップを見下ろせば、紅茶の液面には己の冴えない顔が映し出されている。食事をとり、日に当たるようにもなり、少しずつ健康を取り戻しているらしい己の顔は、しかしそもそも美しさには遠かった。


どこにでもありそうな黒い髪に青い目。痩せぎすは解消の傾向にあるが、取り立ててどこかが秀でているということのない顔。もしかしたら痩せぎすだった時の方がまだしも人目をひいたかもしれない。主に「引く」の方だろうが。

対するシグレアは――ちらりと見比べただけでもこちらが脱力しそうになるほどの美人だ。エマも(エルゼリの贔屓目を抜いたにせよ)目鼻立ちの整った美人なのだが、シグレアのそれは彼女を優に上回る。男に美人、というのもおかしな話なのかもしれないが、百人いれば九七人くらいは「ぜひともお付き合いを!」と言い出すような美形なので問題ないだろう。ちなみに残る三人は「美形が嫌だ」という奇特なお嬢さんがいる可能性を考慮した結果である。

それはともかく。すっきりと整った顔の輪郭。癖のないなめらかな銀の髪はぴたりと背後に流されて、賢そうな額がむき出しになっている。眉間には若者らしからぬくっきりとした皺が刻まれているが、そこを除けばとにかく一つ一つのパーツが絶妙に配置された、ともすれば人形や彫像のような、とにかく息を呑んでしまうような美人と言って差し支えない。

その美しさを険のあるものにしてしまっているのは、おそらくこの目だろうな、とエルゼリは思った。涼しげと言えば聞こえはいいが、薄氷の色をした鋭い視線には声をかけるのを躊躇わせるくらいの力がある。――エルゼリとエマはもうだいぶ、慣れっこになってしまったけれど。


「結構なお味です。」

「良かった。シグレア様がそうおっしゃるなら、本当に問題なさそうですわね。」


エルゼリの視線に気がつくこともなく、シグレアはエマお手製のアップルティーが気に入ったのか、そのままぐいと残りをあおった。トン、と戻されたティーカップの中、紅茶は一滴も残っていない。エルゼリも紅茶を口に含んだ。きゅっと喉の方が切なく縮む。甘酸っぱい香りに体の方が反応したのだろう。


「――エルゼリアード様。実はクルスから伝言を預かっています。」

「伝言?」


なんだろう。あれか。そろそろ北に行くぞという話だろうか。


(それならそれで全然構わないけど……。)


たぶん違う。直感的にそんな気がした。


エルゼリが知る限り(ゲームと同じ展開を辿ったのであれば、だが)、『フェイタル・ファーレンハイト』の主人公クルスはかなり大胆な作戦を実行する反面、とにかく細部にわたって確認を欠かさない男だ。大胆にして細心をまさに地で行く。


――たとえばゲーム序盤、道中立ち寄ろうとした村が王党派の騎士たちの手に落ちていると分かった時、こんなシナリオが展開する。

斥候に村の周囲を探らせるだけでは飽き足らず、クルスは自ら町の内部に潜入し、屋敷に軟禁されたままの町の長と面会するのだ。そして、驚く町長を説得し、用意した私兵を町に配置。更には自ら反乱軍を率いて正面から騎士に相対する。両者が戦いに突入した頃を見計らい、町に残した私兵が町長を救出し、手薄になった町の背後から騎士を急襲。挟み撃ちをされた騎士たちは混乱の中であっけなく総崩れになり、敗走する羽目になる。

この間、恐ろしいことにクルスは聖剣の力を一切使用しない。この段階では剣の力がまだコントロールしきれていないから、というのも理由だが、不用意に力を放てば町が壊滅してしまうことが分かっていたからだ。彼は己の頭脳とたった一度会っただけの町長に反旗を決意させるだけのカリスマ、大胆な作戦によって勝利を収める。


最初に出会った時以来会話をしてはいない相手だが、エルゼリはクルスのことを「人間としてまともな臆病さを持った英雄」だと感じていた。エルゼリが出会った彼は、纏う気こそ尋常ではなかったけれど、どこにでもいそうな普通の人物のように見えた。エルゼリの件を他人任せにするでもなく、わざわざ王と王妃を斬ったその場でエルゼリの助命を明示し、しかもその後エルゼリの見舞いにまで訪れた。大胆にして細心。まさにその言葉通りの人物だと。

そんな彼にとって、エルゼリは重要な「駒」だ。王政時代を象徴する駒。まだたったの十二歳、しかも当初は死にかけ。魔法力は高いが今は魔封じの輪で一切を封じられ、危険度は少ないが間違いなく王の血を引く生き残り。エルゼリ自身には価値はないが、エルゼリが王女であることには価値がある。エルゼリを生かすことはすなわち、反乱軍は反旗を翻さない者に対しては寛容なのだ、と明示することに繋がっているからだ。

……その駒を動かすというような話であれば、エルゼリが知りうる限りのクルスは自ら動くに違いなく、だからこそこのタイミングでの伝言には違和感がある。


手にしたティーカップをソーサーに戻し、エルゼリは視線でシグレアを促す。エマも手を止め、シグレアを見ているようだった。

果たして。


「……エルゼリアード王女にも直接城下をご覧いただきたいと。日時は今のところ調整中なのでお知らせできませんが、近いうちに。」


伝えられた伝言の斜め上ぶりに、エルゼリはぽかん、と口を開いてしまった。


「え? えっと……。」


実感がない。だが、じわじわと何かが胸の奥からせりあがってくる。ドクドクと心臓が鳴り、落ち着きがなくなる。こんなことめったにないことだ。それこそ過去、罰せられるかもと思いながらも星空を目指して駆けた夜、あるいはシグレアに連れ出された美しい庭の光景を目にしたときのような気持ち。

城下って、あれよね。城下町のことよね。

確かめるために、エルゼリは無意味に開いたり閉じたりを繰り返していた口をいったん閉じて、息を吸い込んでから――ようやく疑問を口にした。


「城下ってことは……外に、出してもらえるってことなんでしょうか……?」

「はい。」

「……お城の外に?」

「そうです。もちろんあなたの安全を考慮するといろいろと問題がありますが……。」


言いよどみ、更に眉間の皺を深くしたシグレアを前に、しかしエルゼリの方はそれどころではなかった。


外。外。これまでだって充分外に出してもらえていたと思うが、それにしたって外……いつも窓から見ているあの景色の中にエルゼリ自身立つことが出来る……? 沸き上がる疼きが抑えられなくて、淑女らしさなど放り出して立ち上がる。以前よりも格段に軽く動くようになった足が待ちきれないとばかりに足踏みを繰り返した。


「正真正銘の『外』に出ていいってことなのね!?」


外、外、外! 思わず窓の外に視線を向けるが、生憎窓には滝のような雨が叩きつけていて外の光景は映らない。それでもエルゼリの興奮は止まない。困惑した風のシグレアの顔と、雨粒に覆われた窓との間をエルゼリの視線は忙しくいったり来たりを繰り返した。


「え、ええ……。」

「エルゼリ様、良かったですね!」


まるで我が事のように喜ぶエマとエルゼリが手を取って飛び跳ねる。


「街に出れる!」


そのまま小躍りでもしそうな主従二人を呆気にとられ見つめていたシグレアは、やがて深く息を吐き出した。


恐らく城下に降りれば、エルゼリアード王女は嫌でも戦禍を目にすることになるだろう。そうなればこんな風に無邪気に喜んでなどいられないに違いない。それに、現在のあまり落ち着かぬ状況下で彼女を外に出す、ということは、彼女の命を危険にさらすということでもある。

クルスが、何かを考えている――それはこれまでのことからも想像がつくが、その内容が分からない。

分からない状況で彼女にこの話を伝えるのはシグレアの本意ではなかったが、命じられてしまったからには仕方がない。


しかもかなり気が進まない状態で、ごく端的に伝言を伝えただけなのに、こうも喜ばれてしまうとは――予想外の一言に尽きる。

普段は年相応以上に大人びたエルゼリアードが、こんな時ばかり年齢相応に見えてしまうのだから……。


「仕方がない。腹を、括りますか……。」


何かが起きるのならば、それを未然に防ぐ。そうできないのならば身を挺してでも防ぐ。それが、シグレアの誓いだ。

誓いは守られるためにある。シグレアは静かに覚悟を決めた。

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