8 策略
ソドムア王都、ファルマーナ。本来は白い石造りの街並みが美しい城下町だ。
背後に山を抱いた王城を最北に、そこから扇状に広がる街並みは、しかしところどころが無残に崩れ落ちている。先の戦でクルス達反乱軍が破壊したためだ。もちろん最小限にと心がけはしたが、この国に最後までとどまっていた貴族連中をはじめとする王党派の抵抗は激しく、そこかしこに破壊の痕跡が残されたままになっている。
街を見渡しながら、クルスは静かに呟いた。
「元に戻るまでには時間がかかるだろうね。」
「まあ、仕方ないんじゃねえの。被害に遭ってるのは殆ど貴族連中だしよ。自分たちで大暴れしておいて自分たちで壊してるんだから世話ねえよ。」
「いや、僕らも破壊したという意味では加害者だ。……ほら、」
言ってクルスは一点を指さした。隣を歩いていたマルクの視線もそちらを向く。
――半壊した家がある。壁は大きく破壊され、二階から一階部分までが根こそぎ丸見えになっている。崩れ落ちた壁の隙間に見えるのは男が十人ほど束にならなければ持ち上がらないほどの大きない岩だ。投石器によって破壊されてしまったのだとすぐに見当がつく。
「……。」
自分達がやったものだ。マルクが黙り込む。
当時運悪く火を使っていたのか、石造りの壁全体に煤がまわり、白い家々の中でその一軒だけが真っ黒に染まっていた。
破壊された壁の下には、いくつかの花が供えられている。おそらくゆかりがある人たちなのだろう、通り過ぎる人々のうち幾人かは立ち止まり、献花の前で手を合わせていた。その様子を眺めながら、クルスは静かに息を吐き出す。
王を討ち、少しずつ街に落ち着きが戻り始めている。内戦の傷跡は小さくはないが、ここから先こそが肝要だ。ソドムア王は確かに愚王ではあったが、王だった。これまで続いてきた王たちの権威、そして彼に服従する貴族や国民によって認められていた王権によって、国に関するあらゆる権限を持っていた。
今後この国は、王を持たずに運営をしていかなければならない。権限は国民によってのみ承認され、国民は自らが選んだ代表を通じて政治に関与することになる。絶大な権力を有していた国王のようにできれば国の復興も早かろうが、それはクルスの望むことではなかった。痛みに耐える年月がいかに長くなってしまったとしても、この国は今こそ王を持たぬ国にならなければならない。もしもまたここで王を生み出してしまったら、今回と同じような悲劇が繰り返されるかもしれないのだから。
「少しずつこの辺りも直していかないとな。なるべく急がないと。……マルク、地図には写した?」
「もちろん。あとは大通りだな。投石器の石が何個か落ちて、道路がダメになってるところがある。」
「そっちも確認しておこうか。」
「うん。……お?」
いつの間にか目の前に小さな子供がやってきていた。薄汚れた衣服と靴を見るに、平民の――それもあまり経済的に豊かではない家の子供だろうということは察しがつく。
「お兄ちゃんたち、えいゆうさん?」
手にした地図を丸めた格好のまま目を見開いたマルクの隣で、クルスが子供の目線になるようしゃがみこんだ。
お忍びで城下に来ているので帯剣こそしていなかったが、クルスは特に変装めいたことをしているわけでもない。その上隣に立つマルクは地図を片手に作業をしていたわけで――勇者マルクと分かってのことではないだろうが、反乱軍の――勇者マルクの仲間であると看破されるのも無理からぬことだった。
「僕は英雄さん、なんて大それたものじゃないよ。――君は? どこから来たの?」
「あそこ。」
案の定子供が指差したのは、この通りの向こうに見える教会の尖塔。孤児院から来たということか。この通りから教会までは、クルスの足でも十分はかかる。子供の足では大変だろう。
「随分遠くまで来ちゃったんだね。帰れるかい。」
「うん、道覚えてるから。――ねえ、」
子供の丸い目がまっすぐにクルスにぶつかる。
「悪い奴、死んだの?」
「……。」
「おれの父ちゃんも母ちゃんも死んだ。悪い奴のせいだ。ねえ、悪い奴はみんな死んだんだよね?」
「うん、そうだね。」
ぎらぎらと輝く双眸に、クルスはそれだけを答えた。
「本当に? まだ生きてるんでしょ?」
子供は、明日の天気を尋ねるような無邪気さで首を傾げた。
「おうじょさまがいるんでしょう? ……どうして殺さないの。父ちゃんと母ちゃんが死んだのに。どうしてその子は死なないの?」
「……王女様はね、確かに生きているよ。でも王女様は誰も殺してない。」
それどころか彼女は下手をすれば何度死んでもおかしくないような状況下で生かされていた。
手首に奴隷の紋を刻まれ。命令を聞かなければ折檻を食らい。見たくもない人間の記憶を読まされ、己の能力だけをただただ使い続けられた。道具のように。
「でもおうじょさまだって死なないといけないんじゃないの? おうさまの子供なんでしょう? おかしいよ、おうじょさまだけ生き残るなんて変だよ。」
「誰かの子供だから死ななければならない、なんてことはないんだよ。」
「そんなのおかしいよ。だってレオもシオも死んだよ。レオんちの父ちゃんも母ちゃんも、シオんちの父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんも死んだよ。どうしてその子だけ助かるの? レオもシオも、みんなみんな悪いことなんてしてなかった!」
子供の言葉には嘘がない。
気付けば周囲からは幾つもの視線が向けられていた。誰もが皆問うている。どうして王女とやらは死なずに生かされているのか? と。
「ごめんな。兄ちゃん達、もう戻らないといけないんだ。」
答えることもできずにいるクルスの隣、マルクがしゃがみこんだ。ぽん、と少年の頭に手をやり、ぐしゃぐしゃに絡んだ髪の上を優しく手で撫でる。いつの間にか泣きそうに歪んでいる少年の手に、もう一方の手で何かを押し込んだ。
「これ持って戻りな。三つ。……残り二つはお前の友達にくれてやれ。」
少年が手を開く。小さな手に押し込まれたのは油紙でくるんだ飴玉だ。
友人を失う気持ちは分かる。マルクとて己の故郷を失った。犠牲者の中には友人もいた。家族だって。
少年とマルク、抱える痛みは同じ。だが今のマルクはその痛みだけを理由に生きられない立場にある。隣でじっと息を潜めているクルスも同じだ。涙、血、後悔、怒り、恨み――さまざまなものがない交ぜになったやるせない心を、マルクは飴玉に託す。
「……うん。」
静かにうなずいた少年は、開いた手を再度ギュッと閉じた。じっとその手に視線をやって――やがて踵を返した。そのまま振り返りもせずかけていく。
その隙にとマルクがクルスの背を叩いた。
「行くぞ、クルス。もう戻ろう。」
「ごめん。」
すかさず立ち上がって、歩き出す。視線はいつまでも二人の背中に張り付いていた。
※ ※ ※ ※ ※
思ったよりも早かった――それがクルスの感想だった。
「せめて一月は持つと思ってた。甘かったな……。」
城に戻ってきたクルスは、執務机の前で項垂れた。
部屋の中にはクルスとマルクの他、数名の主だった仲間が集められている。マルクと同じ村出身で突撃部隊の一つを率いていたオルファン。一代貴族の位を捨てて反乱軍に身を投じた変わり者で、諜報活動を担当していたキリーク。南の首都と呼ばれたサレスの守備隊の隊長をしていたこともある男で、このメンバーでは一番の年嵩のグレイヴス。シグレアはいない。今日も王女殿下の傍で彼女の警護に当たっているはずだ。
それぞれ床だったり机だったりソファだったりとてんでバラバラの位置に腰かけて、あるいは立ってはいたが、その視線は例外なく執務机の前のクルスに注がれていた。
「調べた結果はどうだった?」
クルスの問いかけにキリークがいささか間延びした声で答えた。
「確かに王女の話は方々で噂になってるねー。あの時城下の民全員が城に入れたわけじゃないからな。王女を見たことがないって奴の方が多いはずなんだけど……。」
「あのお姫様、最近は部屋の外に出しているんだろう?」
「別に自由にしているわけじゃないんだけどなあ。……まあ、人の口に戸は立てられないから。ソドムア王と王妃があれじゃあ、同じ血を引いてるってだけでまあ嫌な顔をする奴も出るよねえ。」
「最悪だな……。」
唸ったオルファンに、マルクが口を挟む。
「って言ってもさ、最初から、俺たちが姫さんを保護していること自体はオープンにしてたから、そういう意味では最悪の状況まではいってない、ともいえるんじゃねえ?」
「うむ……その逆だったら、暴動が起きていてもおかしくない、か。」
グレイヴスの言はもっともだ。
ソドムアはまだ混乱のさなかにある。
ようやく愚王が倒れたことで国には解放ムードが漂ってはいるが、国民の疲弊が直ちに取り除かれたというわけではない。これから先、国王を倒すよりも困難な再生への道が待っているのだ。
だが限界まで我慢を強いられてきた国民の中には、焦りや失望を覚えている者もいる。そういった人たちが、王と王妃の血を引くエルゼリアードがクルスに保護されている現状をどう思うか。クルスはその答えを先ほど聞いた。
――どうしてその子だけ助かるの?
「……暴動、か。放っておくといつそういう話になるかは分からないね。」
クルスは苦く呟き、振り返る。仲間達がこちらを見ていた。
――ああ、今から自分は最低の命令を下さなければならない。こんなこと、戦争が終わればもう起きないと思っていたのに……。
「どちらにしても僕らは今、姫君を殺されるわけにはいかない。誰も殺していない彼女を僕らが殺してしまったら、僕らは大義名分を失い、ただの殺戮者に成り下がる。……かといって無理に民を押さえつけるのも得策じゃないだろう。」
愚王を倒して圧政から解放した、という一点に反乱軍の大義があるのだとしたら。愚王と同じように民を押さえつけてまで王女に伸びる危険の芽を摘む必要はない。そんなことをしてしまえば、未だ地方で燻っている旧貴族たちが活気づくだけだ。正統な後継者をなんのいわれもない罪によって殺した反逆者ども、と。
クルスならば――彼女を利用して、新たな大義を得る。たとえば、彼女が生かされる理由を作る。誰も反対できないような理由を。
もしかすればそのために不幸な誰かが犠牲になるかもしれないが、それで国の瓦解が防げるならば――。
誰かが息を呑んだ音がした。
(頼む、シグレア。)
「情報を流して、王女を街に出そうか。事件が起きるかもしれないね。」
(彼女を、守ってあげてくれ。)
願いは決して口にはできない。クルスは心の中でシグレアと王女に詫びた。彼女には確実に災いが降りかかる。クルスの決断のせいで。
「何かが起きるように扇動する、ってこと?」
確認するようなキリークの言葉にクルスは首を振る。
「事件は起きても、起きなくてもいい。起きるとしても、それがいつ起きるかまでは僕らの方ではコントロールしない。あくまでも偶然の結果を、僕らは最大限利用する。そういうことだよ。何かが起きそうな現場に偶然エルゼリアード王女がいる。それだけの話。」
「――本気か?」
マルクが問う。疑念と祈りとを半分ずつ含む声は、その場に居る全員の心をこれ以上ないほどに代弁していた。
だが、後には引けない。この国は血を流し過ぎた。終わりにしなければ。この作戦が成功すれば、これ以上エルゼリアード王女の立場を危うくすることもない。この国の民も目を覚ますだろう。誰かに頼って、誰かの力で国を変えることはもうできない。この国は自ら王を弑逆し、これから先は民の力で歩んでいかなければならないと。
「もちろん――僕は本気だ。」