蠱惑の月夜
走る――
強く手を握られて。
神殿の警護は厳しく、追いかける足音がバタバタとさっきより増えている。
神のものになる為の、銀の装飾をボロボロと落としながら、強く、強く手を引かれていた。
大きな背中。
遠く離れた日より幾分大人になった彼。
「一緒に行こう――」そう言ってくれた強い瞳。
死の覚悟ならできている。
神の月夜の生贄として捧げられる命だから。
ここを出られない事も――
あなた一人に巫女は奪えない――
それでも、この温かい手を最後まで、握っていたいと思ってしまった。
これは死への道のり。
「門を越えたら、黒兎がいるから……。後、少しだ……、ハナ」
息を乱しながら、彼は言った。
黒兎は彼の愛馬だった。
神殿の門が見える――
黒兎が鳴いた。
パンパンパン――
乾いた音が繰り返し鳴る。
先に黒兎が倒れた。
最後に小さく嘶いて――
主人の姿を見ながらバタリと大きな体を横たえた――
彼はゆっくりと足を止めて、跪きこちらを見た。
「ハ…ナ……」
パーン――
彼の胸から血が溢れた。
色を失った彼の眼、離れてしまう手、頽れる体。
「コ…ウ。手を…は…なさない…で……」
すでに彼女の足元にも血溜まりができている。
口から血が溢れ上手く息をする事すら、もう出来ない。
膝をついて、這うように彼に近寄った。
離れてしまった――
血に塗れてしまった手を――
彼の手を探して彷徨わせた手。
パ―――ン。
音と共に、体の自由は奪われる。
あと少しで辿り着けた――
お互いの指先の距離、
わずか、数センチ。
門の外の世界。
共に行けるなどと、夢を見た訳ではない。
ただ最後はコウのモノでありたかった。
この身体も、心も。
信じたふりをした。
二人の未来を。
この道には最初から死しかなかった。
それでも、愛する人に手を引かれる時間の何と甘美な事か――
これだけで良かった。
その為に、彼を道連れにした。
逃げるなんて無理だと、帰ってくれと言えばよかった。
そうすれば、おそらく彼だけは助かっただろう。
明日の満月。
巫女としてのハナの祈りが終わる日。
神と同化するため、人としての命を神に捧げる『神の月夜』の前夜祭で、ハナの育った村から、装飾品が届いた。
シキタリに基づき、白い絹のドレスを着て、神殿の特別室に隔離されたハナ。
祭壇のようなところに座らされ、その下には各地からの貢物が並ぶ。
『神の月夜』の巫女への献上品は銀細工の装飾品と決められている。
「お次の方――」
扉の横に居る司祭の声に誘われて、使者が入室する。
恭しく跪いた使者がコウだった。
巫女になって三年、十九歳の男に成長したコウは兵士の出で立ちで、大きな黒目の力のある眼差しは変わらず、ハナをときめかせる。
美しい装飾をされた箱を前に、跪いたコウは頭を下げる。
侍女がその箱を受けとろうとした時、コウが顔を上げる。
「巫女様に、献上の髪飾りを付けて差し上げたいのですが――」
コウの突然の申し出に、司祭は困惑気味に少し間を開けて許可を示した。
ハナの顔にはすでにベールがかけられていて、コウがその表情を伺うことは出来ない。
コウは箱から銀の櫛を取り出すとハナの元に向った。
その後、コウがハナの耳元で「一緒に行こう」と囁いてから数分。
ハナは彼と共に有った。
幼い頃はあんなに簡単に触れることが出来た彼の手は、思春期の訪れと共に遠くなり、やがて彼の温度さえ忘れてしまった。
そんな彼の思いの外熱い手に強い力で握られた瞬間、この決断は間違えではなかったと思った。
抱擁さえできはしなかったが――
間違いなく彼の愛は繋がれた手から流れ込んだ。
薄く開いたコウの唇から血が垂れた。
コウの眼はもう何も見てはいなかった。
痛みも寒さもハナの体を去ってしまった。
清いままで神のもとへは、行けない。
もう随分前から、この心はコウにとらわれていた。
私は純粋な乙女なんかではないから――
焦がれた人を前に、心の疼きを止められなかった。
彼を死なせると分かっていながら、女として死ぬことを決めた。
この体は女としてコウを欲した。
ハナは女だった。
その時点で、清い乙女なんかではなかった。
たった数分の手の温もりの為に愛する人を死に追いやっても――
彼の命を貪って、浅ましい女になって死ぬのだ。
それでも、コウ。
今宵の月は――
綺麗だよ――
ハナはゆっくりと目を伏せた。
三年前。
「ヨウ……、そしてハナ――」
寺院から来た使者が月の巫女の名を読み上げた時、わあと声が上がる。
ハナは母に抱きすくめられ、その上から父に抱き締められる。
三十年に一度の『神の月夜』の為の巫女が選ばれた。
この村から巫女を選出するのは九十年ぶりで、そう決まった日から村は沸き立った。
巫女は十三歳から十五歳までの乙女で、寺院の司祭の会議で決まる。
巫女を出した家は、寺院からの土地や金銭が与えられ、何不自由ない生活が約束されるのだ。
そしてそれ以上の名誉が与えられる。
「ハナ……、おめでとう――」
ハナの後ろから声がして振り返ると幼馴染のホマレが泣いていた。
その横で、一つ年上の村長の息子のギンが、何とも言えない表情で俯いた。
そして、その後ろに彼はいた。
睨み付けるような瞳。
前日。
「選ばれるのはヨウとホマレに間違いないって……」
銀はそう呟いて小石を川に投げる。
川辺に座る四人。
「そんな! 私は絶対に嫌!」
ハナは首を横に振った。
「どうして? 名誉なことだわ。親の役にも立てる」
ホマレはハナを見て微笑む。
「だって、ずっと……、まだまだずっと、一緒にいたいもの……」
ハナの眼からは涙が零れる。
「ずっと一緒よ。神と一緒になるんだもん」
「違う! 神と同化したホマレじゃなく、友達として一緒にいたいの!」
ハナより二か月早く生まれたホマレは、小さな時からどこか頼りないハナの姉のような存在で、いつも一緒だった。
分かっている。この国のシキタリだから。
それなのに、何故こんなに悲しいのか。
何故、こんなに淋しいのか――
「ハナ、大丈夫だ。俺がいてやる――」
コウが珍しく真面目な顔でそう言った。
ハナはコウの眼を見つめていた。
月の巫女。
三年の祈りを終えると、『神の月夜』と言われる満月の日、生贄として神に命を差し出す。
国を挙げて盛大な祭りが開かれ、他の村からの巫女と合わせて五人が差し出される。
そして神と同化して、村を守る存在になる。
つまり、巫女は三年で死ぬという事なのだ。
巫女に決まってしまった後は、家族と共に寺院で最後の夜を過ごす。
神の使いとして、身分は親よりも高いものになるので、親に『巫女様』と呼ばれると悲しい。
ハナは結局、コウとは話す事さえかなわず、翌朝村を出た。
村を遠ざかる馬に揺られながら、幼い頃の事を思い出していた。
「ホマレもハナも神の花嫁になれるかもしれないのよ。銀の髪飾りに絹のドレスが豪華で見惚れるくらい綺麗なの――。どう? なりたい?」
ホマレの母親が言った時、ホマレは「なりたい!」と即答した。
ハナはホマレの隣で首を傾げていた。
両手を上げて「なりたい」と言ったホマレの気持ちが分からない。
顔もわからない神の花嫁などにはなりたくはなかった。
豪華な銀のアクセサリーと白い絹のドレスの話にもホマレ程に興味は持てなかった。
「ハナはコウの花嫁さんでいいや」
そう言ったハナに、後ろから声が追いかけてくる。
「俺はいらないぞ! 兵士になって戦うんだから、女なんかいらない!」
最近生まれた黒い仔馬を引いていた。
初めての自分の馬だと喜んでいたコウ。
八歳になったばかりのコウは、恥ずかしかったからそう言ってしまったのだろう。
それでも泣いてしまったハナをホマレは慰めてくれた。
あの日の川辺にホマレの後姿。
「コウとハナが……死んだって――」
ギンがゆっくりとホマレに近寄る。
「だから何なの?」
振り返りもしないホマレがそう返す。
「お前がそんな言い方するなんて……」
隣に座ったギンはホマレの顔を覗き込む。
「そんな言い方って…何よ」
対岸を見つめたままのホマレ。
「だって、ハナの事を思ったからコウを行かせたんだろう?」
ギンの言葉尻、ホマレは声を立てて笑う。
「ハナの事を思ってだって?」
ギンは笑ったホマレの顔を見たまま、表情を固まらせた。
「ハナが聖女になるのがどうしても許せなかったのよ……」
振り絞ったような声のホマレ。
声が出ないギンを置き去りに。
「コウがハナを好きでも、私が巫女になれたならそれでよかった。ハナが巫女でも、コウがハナを忘れるなら許せた。このままは耐えられなかったのよ」
私だって、コウが好きだった――
「たった二か月よ――」
たった二か月、ハナより早く生まれただけで、可愛がられるのはいつもハナで。
「私だって――、コウが好きだった」
ハナが村を出た日。
巫女になれなかったのはショックだったが、ハナがいない村での生活に期待もあった。
コウもハナを忘れてくれるのではと思ったのだ。
しかし、コウの気持ちは変わることはなかった。
ハナの話ばかりするコウには、正直辟易としていた。
このまま『神の月夜』になってハナが神の花嫁になったとして、コウは月夜の度にハナを思い出すのだろう。
それが許せなかった。
だから、コウを寺院に差し向けた。
彼女だけきれいなままコウの心に残るなんて――
絶対許さない――
コウの前で汚れてしまえばいい――そう思ったのだ。
ホマレはいつもハナの影だった。
彼女に光が当たる程暗くなっていく、ホマレの心。
だから――
いらない――
ハナも、コウも。
「ギン。月は欠けていくときの方が、綺麗なのよ。知ってた?」
ホマレは笑ってそう言った。
今夜はきっと素晴らしい神の月夜になる。
月の光は私にも降り注ぐ――
ホマレはうっそりと笑った。
後は夜を待つばかり――
《了》