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変化

窓は全開で、部屋に心地のよい風が吹き込んでいた。机に積み上げた紙が風でめくれては、もとに戻りを繰り返している。太陽は真上にのぼり、先ほど休憩をとったばかりであったのに、再び休憩を取りたくなってくる。天気のいい日は外に出て、木陰で本を読むのが好きだった。けれども、大将になってからというもの、あまりそういった時間が取れなかった。

 ヴィルは部屋の奥のソファに座り、書類を読む姿勢のまま、まどろんでいた。ここ2週間ほど、いつもよりもだいぶ朝早く起きる日々が続いていた。イルザの髪を結うためと、力の把握作業のためだった。朝が弱いと文句を言ってはいるが、ヴィルは寝坊を一切しなかった。決まったことはきちんと守るところがヴィルらしかった。

 ウーリは食糧補給路の調整で、別の部署に行っていた。イルザの力の把握作業が進むにつれて、ウーリの本領は発揮されていった。ウーリは非常に細部までしっかりとした作戦や戦略を立てる。予言者かというくらい相手の動きを正確に読む。そのため、綿密に立てられた作戦ははずれるということがほぼなかった。相手の動きが読み通りでなくとも、すぐに修正していく。そこにヴィルも加わることで全戦全勝だった。冷静沈着な悪魔、それがウーリの二つ名だった。

 紙にペンを走らせていた手を止める。ウーリがそろそろ戻ってくる頃だった。ヴィルを起こさないと、ウーリがヴィルに色々と悪戯を仕掛けてしまう。2人のやり取りは見ていて飽きないが、疲れのピークの今は、喧嘩に発展する可能性もあった。2人の喧嘩は、色々とめんどくさかった。一緒にいつものようにいるくせに一切お互いに話をしない。用事があるときは俺を伝令役にする。大概ヴィルが折れてもとに戻る。けれどもその折れる期間が大体2,3週間かかる。年上のウーリが原因のことが多いのに、謝らないので本当に面倒だった。2人とも、他人からみると余裕のあるようにふるまうのに、中身は昔と変わらない。


――だから、珍しかった、あのウーリは。


 あの朝に唐突にウーリがイルザに質問した時、ウーリは笑っていなかった。真顔だった。俺たち3人でいるとき以外のウーリは、常に笑顔でいた。笑顔全開であればあるほど、相手を警戒し、観察していることを意味していた。何か気にかかることでもあったのだろうか?ウーリが笑顔を消し、感情を出すような、そんなことが。

 いまいち思い当たらなかった。とりあえず、ヴィルを起こそうと思い、ギシと音をたてる椅子から立ち上がった。年季の入った椅子は立ち上がったり、座ったりする時に、ぎしぎしと音を立てた。

 机の背後にあった窓から外を見ると、イルザとロルフが見えた。イルザにはすることが特にないので、、自由にしていいと言った。するとイルザはこの部屋が見える中庭に行き、大きな木の根元に座って寝ているようになった。木は樹齢何百年かもわからないくらい大きな木で、噂ではこの城ができる前から存在すると言われていた。寒くなろうとも葉が生い茂り、中庭に木陰ができた。大将になる前は俺もイルザのように、その木の木陰で本を読んだり、昼寝をしていた。

 イルザは膝を抱え、木の根元で小さくなっていた。膝に顔を埋めているのでおそらく眠っているようだった。ロルフは毎日少しずつ髪型を変化させていた。今日は頭のほぼてっぺんにまんまるとした団子を作っていた。

 ロルフはゆっくりとイルザに近づき、だいぶ離れたところに何かを置いた。おそらく菓子だろう。ここ数日、イルザがあの木の根元で眠るようになってから、ロルフのようにイルザの近くに菓子を置く兵士が出ていた。すでに何人もの兵士が菓子を置き、イルザを中心として半円上に菓子が置かれている。

少し離れたところから、ウーリと思われる足音が聞こえ、慌てて寝ているヴィルの体をゆすった。


「フィデリオさん?……あ、眠っていました?」

「ああ。ウーリが戻ってきた。色々やかましく言われるぞ」

「あ、はい」


 ヴィルが大きく伸びをしたのと同時に、控えめなノック音がして、ウーリが部屋に入ってきた。


「戻りました」

「ああ」


 ヴィルの隣に座った。ウーリは部屋の入り口からこちらに来ようとすると、机の前で止まった。窓から見えるイルザとロルフに気づいたようだった。


「わんこ君は暇でいいですね」


 ウーリは片方の唇の端を上げて言った。そしてこちらまで来るとソファの向かい側に座った。手にしていた紙の束をテーブルに置く。


「あの置かれている菓子は、お供え物みたいですね」


 呟きのように声を漏らすと、ソファに全身をゆだねるように後ろに倒れた。


「どうだ?やはり厳しいか?」

「そうですね……」


 イルザの力に関して、俺たちは3人とも戦場で使えると判断していた。イルザは視界にある物しか攻撃できないと言っていた。最初の戦いになるのはおそらくラーデンゲン平野。そこは両国の国境であり、見晴らしのいい広い平野は、イルザの力を使うのに格好の場所だと思った。

 偵察部隊からこの平野にテターレ国の兵士たちが集まっているとの報告が昨日あった。数はおおよそ500名。テターレ国の国力を考えると、ほぼ全勢力をそろえたと言ったところだと考えられた。それに対し、今回遠征に参加する俺たちの兵士は300名。そのうち、城で訓練を積む精鋭は50名ほど。ラーデンゲン平野を掌握したとしても、次の戦いもあるはずだった。テターレ国も、兵士の補充が十分にできるわけではないだろうが、こちらは全く補充はきかない。初戦が非常に重要だった。


「今回の遠征の成功のカギは食糧ですね」

「初戦でイルザがたくさん敵を倒してくれると楽ですね」

「ええ、そうですね」


 初戦の作戦はすでに出来上がっていた。と言っても、今回はいつもと違ってかなり大雑把なものだった。


「イルザにできる限り敵を減らさせて、残りをこちらでやる。ヴィルにしては大まかな作戦だな」

「そうですね、作戦とも言えないと思いますよ。言うなればこれは実験ですね。とりあえず、イルザが敵に苦戦しようとも、少なくとも敵は、あの竜巻を見たら一瞬ひるむはずです。その隙を突くだけでも十分でしょう」

「確かに。もしそれ以上の有効性がなければ、王都にイルザを帰すだけですね」


 俺がウーリに話しかけると、ウーリは体をソファに沈めたまま、天井を見上げて言った。ヴィルはそんなウーリを横目に、肩周りをほぐすためなのか右腕を回している。


「その方が食糧は助かるのだがな」

「ええ、そうなんですよ!戦闘なしなら、1日2食で、約20名分食べるわけです。戦闘ありなら1日90食です。これは私たち隊の1日の食糧消費量の約1割です」

「……結構すごいですね、それを聞くと……」

「補給路も大事なんですが、そもそも最初の段階からぎりぎりなんですよね」


 ウーリは上を向いたまま、大きく息を吐いた。俺はウーリが持ってきた書類を手に取り、目を通す。


「……ぎりぎりというか、ぴったりだな」


 書類には補給する食糧の品目、数、産地などがびっしりと書き込まれていた。また何月何日にこのヒンメルに品物が着き、何日後に部隊に届くのかも詳細に計算されていた。


「小麦1粒も無駄にはできません。……そんな試算じゃダメなんですよ……作物は天候不順など突発的なものですぐに不作になります、余裕がないと」

「これって、この城の割り当て分もこちらに回してますよね?」


 上を向いてしゃべり続けるウーリに向かって、俺と同じように書類を見始めたヴィルが言った。


「もちろん!当たり前です!!」


 ウーリが突然俺たちの方に顔を向けると、片方の唇を上げて笑った。どうやら疲れはピークに達したようだ。青い目が怪しげに光った。


「王が遠征にイルザを連れて行けって言ったんです。協力するのは当たり前じゃないですか!!」

「……ルッツ大将やパンツァー大将にもですか?」


 ヴィルは少しおかしくなったウーリを無視し、書類に目を落としながら聞いた。俺は書類を確認するのをやめて、ウーリを見た。


「ええ、裕福な方には迷わず聞きましたよ。ルッツ大将は丁寧にお断りの手紙をいただきました。パンツァー大将は登城していたようで、直接お断りの旨を伝えてくださいました。まぁ。断られるのはわかっていたので、最初から頭数に入っていません」


 ウーリはどこから出したのか、件の手紙だと思われるものをテーブルに投げ出した。上質とわかる紙に赤茶色の蝋で押印がされていた。両大将は、俺のグリム家とは違い、国の1位、2位を争うほどの資産を持つ貴族だった。

 ウーリは再び体をソファに沈め、目を閉じた。白い肌なので、目の下のクマがはっきりと出てしまう。またやせ形で、俺やヴィルほど体力のないウーリはさらに痩せたように見えた。


「……ウーリさん、お疲れ様です。パンツァー大将はきつかったんじゃありませんか?」

「ええ、疲れてへとへとなところに、散々嫌味を言われました」

「どうしようもないおやじだから捨て置け」

「わかっていますよ……」


 パンツァー大将は俺やウーリ、ヴィルのことを毛嫌いしていた。ルッツ大将は露骨に態度に出すことはしないが、距離を置かれていた。両大将ともに、俺の出世の早さが気に食わないのもあるようだが、一番の理由はは俺がグリム家の出身だからだった。

 ウーリは答えると、すぐに眠りに落ちた。それを見て、ヴィルはソファから立ち上がりひざ掛けをもってきて、ウーリにかけた。そしてそのままソファのもとの位置に戻り、後ろにもたれ、寝る姿勢をとった。


「フィデリオさん、僕も寝ます」

「わかった、少し経ったら起こす」

「ありがとう、ございます……」


 ヴィルもウーリと同じようにすぐに眠りに落ちた。もともと遠征前は忙しいことが多かったが、今回はイルザという不確定要素が加わり、準備はさらに多忙を極めた。


――あいつは何を考えているんだろうな……


 かつて同じ学び舎で過ごした現在の王、アヒム。過ごした期間は本当に少しの間であったけれども、俺はあの時間は楽しかった。あいつも楽しそうにしていたと思う。アヒムとは読んでいた本についてよく話をした。お互いの境遇は複雑で、全く関係ない話題ばかりを選んでいた。けれどもそういう複雑な境遇を抱えていた同士だからこそ仲良くできたのかもしれない。

 あいつが王になって以降、友としてアヒムと話したことはなかったが、少なくとも俺に対して悪い感情を抱いている可能性は少ないと思っている。

 ふと、木の根元で寝ていたイルザが気になり、立ち上がった。意外に時間が経っていたのか、日がだいぶ傾いていた。風が緩やかに吹き込む窓を覗いた。イルザは先ほどと同じように大木の根元で寝ているようだった。ロルフは辺りを見てもいなかった。

中庭は芝や花がきれいに整備されてはいるが、普段人がそこでくつろぐことはあまりなかった。前王の時代、妃が城にいたときはお茶会が中庭で催されていたらしいが、今は誰もそういったことをする人物はいなかった。春を迎えた中庭は、ところどころに黄色や白い花が咲き始めていた。花の名前はかつて妹に教えてもらったけれども、すっかり忘れてしまった。


――ロミーはどうしているだろう?


 妹は故郷から手紙を頻繁にくれた。俺は返信することができていなかった。それでも、特に気にしていないようだった。いつも手紙には庭の花が咲いた、何を食べたか、何をしたかなどが書かれ、それらに対する感想が綴られていた。手紙が届くのはうれしく、時折押し花を一緒に同封してあることがあった。次に故郷に戻れるのはおそらく遠征が終わってからとなる。きっと妹は、遠征が終わるまでずっと俺たちのことを心配しているのだろう。

 寝ているイルザに目をやった。体を丸めた姿勢で寝るのは窮屈ではないのだろうか?寒くないのだろうか?と思った。以前なぜその姿勢で寝るのかヴィルが聞いたところ、癖だと言っていた。力のことも含め、不思議な存在だと思う。

 あの剣の技術も相当な訓練を積んだはずだった。俺たちでさえ、吐くと思うほどきつい訓練もあった。手には豆ができては潰れた。今では手の皮は厚くなり、豆さえできない。あんな細身の体で俺たちと同等か、それ以上の訓練に耐えられたとしたら、相当の意志がそこにはあるはずだった。


「イルザ、か……」


 ぽつりと言葉がこぼれた。

 その途端、急にイルザが顔を上げた。そしてこちらを向いた。しっかりと目があった。視線を逸らせずにいるとイルザは立ち上がってこちらに向かってきた。


――ナニカヨウカ?


 頭にいきなりイルザの声が響いた。びっくりして、そのまま固まっていると、イルザはどんどんこちらに近づく。


――フィデリオ?


 そして俺のいる窓際の真下までイルザは来ると、壁を軽々つたって2階までやってきて、窓から部屋に入ってきた。


「な、なぜ……?」


 やっと出た声はかすれていた。イルザはいつもの無表情で俺を見た。


「何か用か?」

「いや、別にないんだが、それよりもなぜ君の声が俺の頭の中で響いたんだ?」

「仮であってもあなたは今、私の主。主とは声を介さないで話せる」

「そんなことができるのか?」

「できる。なぜできるかは知らない」


 イルザはそっけなく答えた。そして部屋を見回した。ソファに男2人が気持ちよさそうに寝ているのを確認すると、部屋の隅に片付けていた1脚の椅子を動かし始めた。


「それはどうやってやるんだ?」


 俺に背中を向けて椅子を動かしていたイルザが顔だけ俺に向けた。


「頭の中で私に話しかければいい」


 言い終わると顔を戻し、俺の執務机の横に椅子を置いた。イルザはそこに座ると、先ほどと同じように丸くなって寝始めた。

 ヴィルやウーリは俺が大きな声でイルザに話しかけていたにもかかわらず、起きる気配がない。

 俺は再び寝始めたを起こしてみようと思った。


――イルザ、起きてくれ。君と話がしたい。


 そうすると、イルザは顔を上げた。寝ていたのを起こしたにもかかわらず嫌そうなそぶりは見せなかった。いつものように無表情で俺を見た。

寒くなり始めた風が窓から吹き込み、イルザの後れ毛を揺らした。ほんのりと赤い唇はまっすぐに伸び、化粧なんて一切していないはずなのに大きく見える瞳がじっと俺を見つめている。急に恥ずかしくなった。


「……話とは?」


 俺が話をしたいと言ったくせにいつまでも黙っていたので、イルザは首を傾げた。それを見て俺は余計慌てる。話なんて世間話程度をするつもりだった。けれども、頭に何も浮かんでこない。


――ウーリたちが寝ているから、さっき君がいた木の根元に行こう。

――わかった。


こんな慌てた姿をウーリやヴィルに見られたくないので、外に出ることにした。移動の間に話題を考えればいいと思い、少し落ち着く。

 イルザは来た時と同じように窓から外に出ようとしたので止めた。


「イルザ、扉から」


 イルザはうなづくと、扉に向かった。俺もその後ろをついていく。


――一体俺は何を話せばいいんだろうか?







 先ほどの木の根元に着くと、イルザは周囲を半円状に取り囲んでいた菓子を回収し始めた。俺もなんとなく手伝う。菓子の中には、城下町で話題になっている焼き菓子も混ざっていた。とても人気があるらしく、すぐに売り切れてしまうらしい。他には飴、果物があった。こうして回収すると、俺とイルザの腕は菓子でいっぱいになった。

 朝訓練では、イルザは1人でいることが多かった。俺やヴィル以外に相手にならないせいもあるが、イルザに近寄り難い雰囲気もあった。それにもかかわらず、こうしてせっせと菓子を贈る輩は増えている。クールビューティーといったところなのだろうか。


「食べていいか?」


 イルザは回収した菓子を腕いっぱいに抱え、俺を仰ぎ見た。


「ああ。食べながら話そう。大した話じゃない」


 イルザはうなづくと、木の根元に座った。俺も隣に座った。イルザはいつもの膝を抱えた座り方ではなく、両足を片側にそろえて座った。俺は2人分くらいのスペースをイルザとの間にあけてしまった。イルザとは対面することが多く、横に並ぶことはなかった。ウーリのように近くに座るのは気が引けた。

 イルザは俺を横目で見ると、菓子を開け始めた。イルザが手にしていたのは、城下町で人気のある焼き菓子だった。茶色の紙袋に赤いリボンで包装されたそれを丁寧に外すと、中から焼き菓子を取り出した。掌くらいの大きさで、表面には何か塗ってあるのだろう、てかてかと光っている。甘い香りがふわりと漂ってきた。イルザは取り出した焼き菓子を俺に差し出した。


「……なんだ?」

「私では味がわからない。どんな味か教えてほしい。……もし、これをくれた人が感想を聞いてきたら、私は答えられない」

「……わかった」


 俺はイルザの心遣いに少し驚いた。周囲など気にしていないと思っていた。俺、ウーリ、ヴィルやロルフ以外と会話をすることはないようだったし、そもそも俺たちとの会話も最低限のものだった。それに周囲に溶け込もうとする素振りもなかった。

 俺の驚いた様子に、イルザは何の反応もしなかった。ただ手を差し出して、俺が焼き菓子を受け取るのを待っている。


「ありがたくいただく」


 受け取った焼き菓子はほんのり温かかった。そのまま口に頬張ると、ジワリと焼き菓子に含ませていた蜜があふれた。どうやら表面に蜂蜜を塗っていたらしい。女性が好みそうな甘さだった。甘いのは苦手ではないが、コーヒーが欲しくなってくる。

 イルザは俺が口を開くのをじっと待っていた。じっと見つめられていては食べづらいと思いながら、2口で焼き菓子を飲み込んだ。


「……蜜があふれ出て非常に甘かった。おいしかった」

「そうか」


 イルザは俺の言葉にうなづき、自分も菓子を頬張った。俺も食べれるようにとの配慮なのか、焼き菓子が入った袋が俺とイルザの真ん中に置かれた。果物も一緒に置かれている。

 イルザを伺うと、やはり無表情で菓子を食べていた。もう2つ目に取り掛かっている。俺ももう1つ食べようと、紙袋に手を伸ばした。


「イルザは、甘いものが好きだったのか?」


 ふと、そんな言葉が飛び出した。

 イルザは食べるのをやめてこちらを見た。


「覚えていない」


 イルザは手にしている焼き菓子に視線を落とした。心なしか、顔に陰りを感じた。


「どんなところで育ったんだ?剣の訓練した記憶とかはないのか?そんなに強いんだ、厳しい修練を積んだんだろう?」


 ひとたび疑問が飛び出ると、次々に質問が自分の中に押し寄せてくる。


「それに君は何歳なんだ?どこで生まれた?」


 イルザは俺の方に顔を向け、静かに俺の質問を聞いていた。イルザの横顔を見ているうちに少し心が落ち着いた。


「……すまない、一気にまくし立ててしまって」

「いや、かまわない」


 イルザは体ごとこちらを向いた。向き合うと少し離れていてもなんだか緊張してしまう。


「……私の記憶は壊れている。パズルのようにバラバラで、その1つ1つもおぼろげだ。育った場所の名前は知らない。ただ山奥だった。周りは山や木や川だった。父や母は知らない。私はそこで、私より年上の女の子たちと、ガイスと呼んでいた男と過ごした」


 イルザは俯きながらしゃべりだした。いつもの無表情とは少し違うような気がした。いつもどこか遠くを見つめている紫の瞳は、今は悲しみなのか、懐かしみなのか、何かを表していた。イルザが彼女自身の過去や、その過去に対してどういう感情を抱いているのか俺にはわからない。俺はそれを知りたいと、強く思った。


「……歳はわからない。ただ私はこの姿のままで成長が止まっている。それにアヒムの前にも何人か主はいた。……訓練はつらかったのかどうかは覚えていない……ただ、ガイスと姉たちと山小屋で一緒に生活して、お祈りをして……」


 イルザは言葉を紡ぐたびに視線が徐々に下がっていった。最後には真下を向いた。視線の先には先ほどから手にしている焼き菓子がある。イルザの長い睫が瞬きするたびに揺れる。


「イルザ、思い出すのはつらいのか?」


 イルザは顔を再び上げた。


「いや、つらい……わけではないと思う」

「思う?」

「あ……私は、少し、いや、だいぶか……自分の感情がわからない時がある。今もよくわからない。なぜか俯いてしまう」

「そうか……」


――自分の感情がわからないとはどういう状態なのだろうか?


「……菓子を食べていいか?」

「ああ」


 イルザは手にしていた菓子を再び食べ始めた。イルザは対面していると食べにくいのか、体を斜めに向けた。まるで小動物がエサを食べているみたいだった。小さく丸まり、口だけを動かしている。ふと、かわいいと思った。


「君のことは少しわかった。ありがとう。それと、自分の感情がわからないという気持ちは俺にはわからない。だがきっとそれがいい時もあると思う」


 イルザは俺を見た。俺はイルザと見つめあうような状態になった。恥ずかしいけれども、その視線を逸らせない、そらしたくない。なぜか、急にもっと近くでその目を覗きこみたいと思う。不思議な感覚だった。


「そうか、覚えている限りそう言われたのは初めてだ。それと気になっていたことがある……」

「なんだ?」


 イルザが質問してくるのは珍しく、何を聞きたいのか気になった。


「フィデリオやウーリ、ヴィルは同じ香水でもつけているのか?」

「香水?」


 香水という自分には全く縁のない言葉に驚いた。ウーリなら女性と会うときにつけるかもしれないが、自分はそういった類の物は一切付けることはなかった。


「初めて会った時から、ずっと木の香りがした。あの執務室も。ウーリやヴィルはそれほどその香りは強くない。けれどもフィデリオの近くは、よく香る」

「つけてはいない。2人もおそらく」

「そうか、私の鼻がおかしいのか……」


 イルザは小首を傾げた。軍服をそんなに頻繁に手入れをすることがないので汗臭いならわかる。


「その香りは嫌いか?」

「……いや、嫌いじゃない」


 無表情のイルザはいつものように淡々と答えた。そのことに少し安堵した。

 やや強めの風が吹き、大木の葉を揺らす。それに伴い、芝や木々の青々とした香りがやってきた。目をつぶり、大きく吸い込む。イルザが言っているのはこういう香りだろうか?と思った。俺の故郷は、山ばかりで家の裏は林だった。だからこの香りはなじみがある。落ち着くけれども、それと同時に、子供のころ林で遊んだ楽しかった思い出も蘇る。

 子供のころの記憶は楽しいものが多かった。けれども勿論、つらかったものや悲しかったこともある。悲しかった記憶の1つにたどり着き、目を開けた。


「イルザ、君はどうして戦う?」


 イルザの目をまっすぐ見た。イルザは残っていた焼き菓子を食べ終え、指先についたくずをなめとっていた。俺が真剣に聞いたのがわかったのか、イルザは居住まいを正した。


「死ぬためだ」

「……どういう意味だ?」


 全く理解できない答えだった。戦いは生きるためのものだと俺は考えていた。そしてこれは大多数の人間が考えていることだと思う。

 イルザは俺のいぶかしげな表情に反応することなく、俺の質問に淡々と答えた。


「ガイスに、…私たちを育てた男に教えられた。私たちは選ばれた子供たちだと。罪にまみれた人間の中から一部が選ばれ、その選ばれた人間に罪を償う機会を神はお与えになった。一度目の生は罪を償うためにある。一度目の生を全うしたものには二度目の、望む生が与えられる。私はまだ一度目の生を生きている」


 何をしゃべっているのかよくわからない。選ばれた?一度目の生?どういうことだろうか?ガイスという人物は牧師か何かだったのだろうか。イルザの言っていることはよくわからないが、何かの宗教でそれに従っている、ということはわかった。ただそんな一度目の生だとかを教える宗教を俺は知らない。ウーリならこの宗教のようなものを知っているかもしれない。


「……罪とは何だ?」

「神を欺いた罪。私たちの先祖が神を欺いた。その罪が子孫の私たちに引き継がれている」


 途方もない答えだった。宗教とはこういうものだろうか?俺には信仰するものがないのでわからない。俺は言葉が見つからず、空を仰ぎ見た。青い空には白い月が昇っていた。もう少しで一番星も見えるはず。いい加減にウーリやヴィルを起こさないといけない。

 再び視線をイルザに戻した。


「君の言っていることは、俺には理解しにくいこともある。だが、一度目の生を全うするために真剣に戦う、ということでいいんだな?」


 イルザはこくりとうなづいた。


「じゃあ、君はなんで二度目の生へ行きたいんだ?何を望む?」


 俺は軽く思いついたことを聞いた。だがすぐにイルザの雰囲気が変わった。初めて王の前で手合せした時のような、緊張感が漂う。


「……家族が欲しい」


 家族が欲しいと言ったイルザは、無表情ではなかった。何か強い意志がそこにあるとイルザは全身で訴えた。その姿があまりにも真摯で、俺はイルザへの聞きたいことが消えてしまった。

 イルザは笑うような仕草を見せた。ただそれは歪んでいた。嘲笑と言った方が正しい。


「おかしいか?」

「いや、そんなことは……」


 イルザは視線を俺からずらした。表情はいつもの無表情に戻っていた。


「ウーリとヴィルがこちらを見ている」

「え?ああ、起きたのか」


 イルザは広げた菓子を片付け始めた。陽はだいぶ地平線に近づきつつあった。あと一時間もすれば日は完全に落ちる。あわててイルザを手伝おうとする。けれどもその手はさえぎられた。


「いい。この後、まだ仕事を続けるのか?」

「いや、この後は話し合いを軽くするくらいだ。そろそろ疲れのピークで体がもたない。今日は早々に寝る」

「なら、私は失礼する」


 イルザは菓子を抱え、来た時とは反対に向かって歩き始めた。俺が手伝おうと差し出した手は宙に浮いたまま。

 イルザの後ろ姿を見つめる。ロルフによって結われた髪が歩く振動でふよふよと揺れている。イルザの白い首筋が妙に目に残った。



 

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