力
食堂から戻ると、再びフィデリオの執務室に戻っていた。先ほどと同じような配置で私を含めた4人は座った。普段はある程度の雑談ならば食堂で済ますけれども、今日の食堂は騒がしく、また内容が今回の遠征にかかわる重要なことだけに場所を変えた。
テーブルの上に置かれた2本の蝋燭に火をつけた。日はとっくに沈み、窓からは町の明りと星が輝いているのが見えた。首都と呼ばれるだけあり、暗闇に砂糖をふんだんにまぶしたような明りが広がっていた。食堂から持ってきたコーヒーの湯気が風で揺れる。窓はぴたりと閉まっているが、古い建物なので隙間風が部屋を抜けてしまう。イルザは薄手の灰色のシャツと赤い腰までのマントを着ていた。とても薄着だったので、部屋の隅に片付けてあったひざ掛けを取り出した。
「イルザ、これをどうぞ。寒くないですか?」
「……平気だ。ありがとう」
イルザは私からひざ掛けを受け取ると、膝にかけた。
フィデリオやヴィルはコーヒーを飲み、何か考えているようだった。
「わんこ君はやっぱり面白いですねー」
とりあえず口火を切ると、ヴィルが声を荒げて言った。
「本当にそうですよ。何を考えているんだか。僕たちの隊の品位が疑われるじゃないですか」
ヴィルは眉間にしわを寄せ、眼鏡の中央を指で押し上げた。ヴィルはイライラするといつもそうする。自分ではポーカーフェイスのつもりのようだけれども、喜怒哀楽がとてもわかりやすかった。まじめなヴィルは礼儀や体面を気にする。
イルザはミルクと砂糖を入れたコーヒーを飲んでいた。長い髪のせいであまり横からだと表情が見えなかった。一緒に持ってきた焼き菓子をイルザの前に置くと、イルザは手を伸ばした。
ロルフは食堂で、髪を結いたいとイルザに向かって叫んだ。けれどもその場では、髪紐がないのでできないということになり、朝訓練の前に髪を結う時間を作ることになった。
「フィデリオさん、なんで許可したんですか?」
ヴィルにしては珍しく、フィデリオに対してつっけんどんな調子で言った。どうやら色々鬱憤がたまっているらしい。
「イルザにも朝の訓練に参加してもらう。だから髪はまとめた方がいいと思ったんだ。邪魔だろうからな。俺たちはできないし、イルザ自身できないようだしな。そもそもイルザの身の回りを世話できる女性はこの城にはいない。なら、できるやつに頼んだ方が早い」
「そうですよ。この城には男しかいないんですから。お金もないのでメイドを雇うことなんてできません。髪を結えるロルフはありがたいです。そうそう、私たちもその場に同席しましょう」
「……なぜ同席が必要なんですか?」
ヴィルの眉間のしわが深くなった。フィデリオはコーヒーのカップをテーブルに置いた。飲み終わったようだった。
ヴィルの顔を見て、私は笑みをいつもの2割増しで浮かべた。ヴィルはこういうときの私の笑みを悪魔の笑みと呼び、嫌う。けれども治すつもりはないし、そもそもこの笑みを浮かべたの時のヴィルの反応は面白く好きだった。
「ウーリさん、その悪魔な笑みをやめてください。顔が天使のようだから余計最悪なんですよ。髪をロルフが結う件はわかりました。ですが同席しなければならない理由はわかりません。ちゃんとした理由がないなら、僕は起きたくありません。朝は眠いです」
ヴィルはカップをテーブルに置くと、腕を組んで明後日の方向を向いた。拗ねた子供のようで、面白い。
「朝にイルザの力を見たいんですよ、私は。フィデリオはどう思います?朝はいいと思いませんか?」
「ああ。いいと思う。朝早く起きれば時間が取れる。危険はないと思うが、万一何か起こった場合、朝であれば訓練場は人が少ない。巻き込む人間は少ない方がいい」
「暴走しない」
フィデリオがヴィルに声をかけると、フィデリオの言った言葉に反応してイルザがしゃべった。内容が不服だったのか、イルザの声は少し硬かった。
「イルザ、ごめんなさい。これでも私たちは何千という兵士の命を預かる身です。むやみに彼らを危険にさらすべきではないんです」
「……」
イルザはこくりとうなづいた。そして焼き菓子を食べるのを再開した。
フィデリオは俯いて焼き菓子を食べるイルザを見ていた。フィデリオの視線は熱っぽいとまでは言えないものの、真剣に観察しているような印象を受けた。
「はい、じゃあ朝早く起きるのは決まりですね。早めに力とやらを確認したいので。明日はずっと会議などで忙しいんですよ、時間なんて朝以外取れないと思います。それと、もう1つ大事な提案があります」
拗ねて明後日の方向を見ていたヴィルがこちらに向き直った。こういうところがまじめだなと思う。
フィデリオも私を見た。
「ヴィルには今後、なるべくイルザと行動を共にしてもらいたいのです。理由としては、イルザの暴走を少しでも抑えられる可能性のある人間がヴィルとフィデリオ以外に私達の隊にはいないからです」
部屋を再び、冷たい隙間風が吹き抜けた。蝋燭の炎が揺れ、合わせて影も揺れた。話題の中心人物は黙々と焼き菓子を食べている。もうほとんど残っていない。皿には20個近くの掌ほどの大きさの焼き菓子がのっていた。食堂であんなに食べたのに、その細い体のどこにはいるのだろうと思った。
「それがいいと俺も思う」
「リスク管理ってことですよね、仕方ないと思います」
2人ともうなづいた。
私たちの国、ラシュータには5人の剣聖と呼ばれる人間がいた。ざっくりと言えば、王と国民も認める素晴らしい剣術家ということだ。3人の大将とヴィル、そしてルッツ・ケラー大将の副将であるハインツ・ブルーメンタールの5人だった。
イルザはそのうちの1人であるフィデリオと互角、もしくはやや競り勝っていた。ヴィルには、それが相当ショックのようだった。イルザが来てから見られるとげとげしさもそのショックが原因の1つかもしれない。確かにそのショックはわからないでもなかった。私もヴィルもフィデリオも、ずっと一緒に剣を鍛えてきた。残念ながら私には全く剣術の才能がなかったので、一般兵士として恥ずかしくない程度にしかならなかったが、2人は違った。2人とも、めきめき剣が上達していった。ヴィルは年上のフィデリオを打ち負かそうと必死に剣に励んでいたし、フィデリオも年下のヴィルに負けるもんかと年上の意地でヴィルと張り合っていた。あっという間とは言わないまでも、常人では考えられないほどのスピードで国中に知れ渡る剣聖になった。私もイルザとの戦いのありさまは驚きはしたし、フィデリオの危うい様にショックを受けた。けれどもヴィルほどでないのは、早々に剣を諦め、参謀役としての道に進んだからだと思う。私にとってあの大広間で一番ショックだったのは、今回の遠征にイルザを同行させるということだった。あの王の一言で、戦略、戦術共に変更を余儀なくされてしまった。
正直、剣の腕だけではなく、策略家としても申し分ないヴィルをこのような固定した用途で使うのは戦術上よろしくなかった。私の意図も汲み取り、なおかつ臨機応変に動くことができるヴィルは、フィデリオ軍にとってなくてはならない存在だった。
兎にも角にも、早くイルザの力を正確に把握しなければならない。それができなければ、話が進まない。
――遠征出発予定の1か月前に、イルザを出すのは少し意地悪ではないですかね……?
昼の大広間での会議は、私たちの遠征の準備の進行状況についての報告で終わるはずだった。それが実際は古代兵器というとんでもないものを押し付けられることになってしまった。
王の考えていることは全くわからなかった。悪意なのか、それとも純粋に遠征の手助けのためなのか。けれども以前の会議で、大方の戦略はフィデリオを通して王には伝わっていた。私には悪意にしか思えない。この遠征を失敗するわけにはいかない。何がなんでも、だ。
軽く息を吐いた。隣に座る古代兵器と呼ばれた少女は、焼き菓子の最後の1枚を食べている。この少女に聞けばおそらく色々と答えてはくれるだろう。けれども会ってすぐの少女をすんなり信じるほど、私はお人よしではない。特に、何を考えているのかわからないあの王からの使者だ。警戒しなければならない。
「遠征中、僕の隊はどうしますか?副官に任せますか?」
「フィデリオ直属でいいと思います。あなたの隊は腕自慢が多いですが、少々考えなしなところがあるので。隊長の性格に似てくるのでしょうか?」
口角を上げて笑みを作ると、ヴィルが眉をしかめた。
「ウーリさんの言う通りな部分はありますが、僕の性格とは無関係だと思いますよ」
再び先ほどと同じくヴィルは腕を組んで明後日の方向を向いてしまった。ヴィルをからかうのを、いい加減やめないといけないと思いつつ、つい10年以上経ってしまった。もはや習慣と言ってもいい。フィデリオは基本的に私たちのやり取りを静かに見ていることが多かった。
「フィデリオ、それでいいですか?」
「ああ」
フィデリオは再び、イルザを見ていた。イルザは焼き菓子の最後の1枚をちょうど食べ終わった。
「イルザ、明日の朝は5時に訓練場に来てくれ。時間の変更はヴィルを通してロルフに伝える」
フィデリオがイルザに声をかけた。イルザは手についた焼き菓子の残りを払いながら、こくりとうなづいた。赤い髪がうなづくと同時にふわりと揺れた。わんこ君は髪を結いたいと言っていたが、単に髪に触りたいだけなのかもしれない。私もこんなきれいな髪なら、一度は触ってみたいと思ってしまう。
「おやすみ、なさい」
私とヴィルもおやすみと返した。フィデリオはうなづいた。イルザは立ちあがり、お辞儀をして部屋を出ていった。足音が全くせず、風のようだった。まるで幽霊のようだと、思った。
イルザの座っていたところには、貸していたひざ掛けがきちんと折りたたんで置いてあった。食事姿もきれいであったし、もしかしたら、それなりの身分の人間だったのかもしれない、もしくは自分と同じ……。
私は放置していたコーヒーを手に取った。まだひと肌程度には温かい。顔に近づけると香ばしい香りが鼻をくすぐった。そのままゆっくりとコーヒーを口に運び、口に含む。特有の苦みと香りが口の広がり、いつもの感じにほっとした。今日は午後から非日常的だった。考えなければならないことが山のように増え、精神的に疲れた。今はまだ深夜というには早すぎる時間だった。この時間であれば、おそらく遠征準備のための仕事は1つ、2つは片付くかもしれない。
コーヒーを飲んで一息ついていると、フィデリオが口を開いた。
「王は、何を考えていると思う?」
どうやらフィデリオも私と同じようなことを考えていたらしかった。コーヒーをテーブルに置くと、自分の考えていたことを口にした。
「よくわかりませんね、まぁ、わからないのは昔からですけれども。むしろフィデリオの方がわかるのではありませんか?……私には今回の遠征がうまくいくようにとの配慮があるとは決して思えないですね」
「……僕もウーリさんと同じように思います。何もこの大事な遠征に出さなくてもいいじゃないですか。国境警備とか、そういうので実績を上げてからでもいいと思います」
私に続いてヴィルが言った。フィデリオは私とヴィルの意見を聞いて、うなづき、何かを考えているように顎に手をやった。
かつて3人で過ごした学び舎を、私はふと思い出した。今のように夜に、図書館に集まって話を色々した。そこに時折アヒム王が参加をした。ほんの一時、同じ学び舎でアヒム王と過ごすことがあった。
王はいつも一人だった。けれどもフィデリオとは馬が合うようで、たまに2人で何かを話していた。そういう時に私は2人に近づかず、2人が話し終わるのを遠くから見ていた。王が学び舎を去ったとき、私はうれしかったのを覚えている。私はアヒム王が苦手だった。なぜなのか、それはわからない。
「イルザの力次第だと思う。俺にはよくわからないが、古代兵器という大層な代物だ。何か準備があったのかもしれない。ようやく使えるようになったのが最近で、その力が遠征に有利だと判断したから、直前であっても連れて行けと言ったのかもしれない」
「……ずいぶんと希望的な観測ですね」
精神的な疲れがたまっていたせいか、少し言い方がきつくなってしまった。冷静になろうと黙った。フィデリオは気にせず続けた。
「どちらにせよ、イルザの力を正しく早急に測る必要があるのは確かだ。使えないと判断したなら、王にはそのように伝えるだけだ。王は愚かな人間ではない。補給のことも国の食糧事情も分かっている」
「まぁ、そうですよね…前回の遠征でドッヘルを落としたのも、今回の遠征でイルザを使うためとも考えられますし。正直今の兵力では、テターレ国を落とすのは時間と労力が半端ではできないですよ。エタセルも黙ってはいないでしょうし」
ヴィルは眼鏡のずれを指で直し、顎先に手を置いた。フィデリオはああ、と相槌をついた。
ドッヘル国はラシュータ国の南に位置し、豊かな穀倉地を持っている。自国ですべて穀物を賄うことができる珍しい国だった。その国を2年前に併合し、今のラシュータ国の食糧事情は格段に良くなった。
そして今回の遠征の目的地は、西の大国である我が国ラシュータと東の大国エタセルの中間に位置し、貿易の中心となっているテターレ国だった。私たちラシュータ国やエタセル国、テターレ国がある大陸をソーンチカ大陸と呼び、その大陸の中央には東西を分断するようなグルティーネ山脈がそびえていた。山々は5000メートルを超え、テターレ国付近は3000メートル程度の高さになり、交易路が昔から整備されていた。また大きな港も整備され、大陸一の商業先進国として栄えていた。
「そう……ですね」
もともとラシュータ国の食糧事情は非常に厳しいものだった。広々とした大地は痩せていて、穀物は育ちにくかった。不安定な食糧供給を一定にするために、大きな穀倉地を得るのは、この国の発展には必須だった。前回の遠征とイルザを結びつけるのはこじつけに思えた。彼女の存在は偶然の産物で、王としては使えるなら使ってみようぐらいの気持ちではないだろうか?
――いや、もしかしたらここまで否定的に考えるのは、王への苦手意識からなのかもしれない……
「とりあえず、今はできることをして、明日また話そう」
「はい」
「ええ、そうですね」
それからは各々取り組むべき作業に取り掛かった。
「す、すっげー!」
「すごい!」
「驚いたな」
「なんと、まぁ。驚いた以外言葉が浮かびませんね」
私を含めた4人とも、早朝の青空に発生した大きな竜巻を見て唖然としていた。わんこ君の髪結いが終わると、訓練場の中央に移動し、イルザに早速、力を使うようにフィデリオはイルザに言った。そして目の前に瞬く間にフィデリオ5人分くらいの高さの竜巻が発生した。周囲の砂、軽い石、ごみがどんどん竜巻に吸い込まれていく。私たちもしっかり大地に足を踏みしめていないと、竜巻に飲み込まれそうだった。イルザは無表情で竜巻を見つめたいた。
「これが、半日程度は出し続けられる竜巻の威力なのか!?」
フィデリオが竜巻の起こす轟音に負けないように声を張り上げた。周囲を飛んでいた小鳥が大慌てで、逃げていくのが見えた。わんこ君が、これに飲み込まれたら痛いかな、とのんきなことを呟いている。
「この規模ならあと5つ程度作れる」
イルザは声の大きさを変えないので、耳に手をかざして必死に話していることを聞き取った。竜巻は不思議なもので、ずっと同じ場所にとどまっていた。もしかしたらイルザがそのようにいているのかもしれないと思った。ためしに聞いてみようと思った。
「動かせるんですか!?」
「ああ」
イルザは竜巻に向かって右手を伸ばし、何かを呟いた。そうすると、一点にとどまっていた竜巻がゆっくりと動き始めた。竜巻の移動した後は少し地面がえぐれていた。
「動くのかよ!!すっげぇー」
隣にいたわんこ君が再び叫んだ。フィデリオもヴィルも驚いているようだったが、2人の目は真剣にその力を観察していた。
「あなたの最大の力で、竜巻を作ったらどれくらいになりますか!?」
竜巻が動いた関係で急に自分のいる場所が風下になり、竜巻の巻き上げた砂ぼこりで目が痛くなった。
「この城が壊れる。それにすぐに何か食べる必要がある」
「この城を壊すほどの竜巻が作れるのかよ!」
うるさいわんこ君がイルザの言った言葉にすぐさま反応した。イルザの声があまり聞こえなかったので、わんこ君のおかげで彼女が言ったことが理解できたけれども、わんこ君は声も大きい上に動物並みの聴覚も持っているらしかった。
「イルザ、やめろ」
フィデリオが言った途端、轟音と風がやんだ。竜巻があった場所には、山のように砂と石と小枝がつみあがっていた。
「イルザ、君は先ほどの規模の竜巻を5つ程度作れて、自由に動かせる。そしてだいたい半日は戦闘可能ってことでいいんだよね?」
「ああ」
ヴィルが今まで起きたことをまとめた。それにしても、ヴィルの格好はひどかった。眼鏡は砂ぼこりで汚れ、やや曇っている。髪はぼさぼさ。葉が髪に引っかかっている。ヴィルの隣で、そそくさとフィデリオは髪を直している。私も髪についているだろう砂ぼこりを払う。
「ふふ。ヴィル、とりあえず髪を直してください。面白いですよ」
「まじめにやってるんです。からかわないでください。それにウーリさんだって綱ぼこりまみれですよ」
ヴィルは眉間にしわを寄せると、それでも外見が気になったのか、眼鏡を外して懐からハンカチを取り出すと眼鏡を拭き始めた。
「竜巻以外はできるのか?」
身支度を整え終わったフィデリオがイルザに聞いた。
「ああ。風で人を切れる。あとは、水や火も出せる。戦闘で使うのは少々不向きかもしれないが」
「なぜです?」
払っても払っても砂が出てくる頭に少しイライラしながら、イルザに聞いた。
「無から有はできない。火や水を出すためには、火や水を生成し、それから動かす。竜巻は今ここにある大気を使う。だからすでにある大気を動かすだけでいい」
イルザは左の掌を上に向け、トロンべと呟いた。そうするとすぐに小さい竜巻がその掌に出現した。
「わー小さい竜巻だ!!」
子供のようなはしゃぎ声を上げ、わんこ君がイルザの左の掌に駆け寄った。
どうやらイルザの力というのは、私が考えていたよりも、かなり使い勝手が良いもののようだった。イルザは力を使う前、使った後で全く変化がない。あれくらいの竜巻1つなら、本当に朝飯前なのだろう。
「イルザ、力を使う上で注意点はあるのか?」
「見える範囲にしか使えない。……例えば、あの手前の城壁を壊すことはできても、その背後に人がいて、その人を攻撃しろと言われても私はできない。見えないからだ」
「へぇ、攻撃は見える場所限定か。障害物が多いとことでは、戦闘の際に注意が必要だね。敵をおびき寄せないといけないわけだ」
眼鏡を拭き、髪を整え終わったヴィルが言った。私の頭からはまだ砂が出てくるような気がしたが、後で風呂に入ればいいと思い、手を止めた。
わんこ君は、イルザに砂が髪についているので払っていいですか、と声をかけてイルザの髪や服を触っている。どうみても、下心ありありの行為だ。わんこ君の背後に、ものすごい勢いで尻尾が揺れている様が見えるようだった。
心にふと意地の悪い考えが浮かんだ。
「イルザ、もしも一万人の敵をあなた一人で倒せ、と命じられたらできますか?」
わんこ君の手が止まり、こちらを凝視した。ヴィルやフィデリオもこちらを見ているだろうことがなんとなくわかる。イルザは表情を変えず、私を見つめた。髪は崩れず、きれいなままだった。髪はおろしたままの方がいいと私は彼女を見て思った。細い首筋は男の目を引く。男しかいないこの城では、その整った後ろ姿は刺激が強すぎる。
「フィデリオが命じるなら行う」
「可能なんですか?」
「わからない。だが、それを考えるのは主だ。私は命令のままに動く。それだけだ」
「死にますよ、おそらく」
「問題ない」
「……イルザ、冗談ですよ。そんなたくさんの兵を集められる国力のある国はこの国にありません。せいぜい1000人くらいですよ」
期待通りの答えだった。私は女性が好きだと言ってくれる笑みを浮かべた。
「ウーリさん、顔が、怖いですよ……とりあえず、朝の訓練の時間になります。兵士も集まってきました。始めましょう?」
ヴィルの声がかかった。起きたばかりの兵士たちがあくびをしながら隊列を組み始めていた。
わんこ君は慌てて隊列へ向かっていく。
「ウーリ、始めよう。イルザ、来てくれ。」
フィデリオは何事もなかったかのような涼しい顔をしていた。イルザも表情1つ変えず、フィデリオの後をついていく。
私はまだその場にいた。
――何をやっているんだか、私は。
心の中でつぶやくと、イルザの後を追った。