香り
部屋から出ると、男はついて来いと言って背を向けた。
歩き出してから数分。らせん階段を2階分おり、長い廊下を進んでいた。
廊下の中庭側は等間隔に柱が並び、壁はない。反対側はレンガつくりの壁に時折四角い窓があった。
男から1メートルほど離れた後ろを、私はついていく。男の背は高く、私とは頭1つ分ほど違った。
背筋は伸び、赤い軍服からでも、男の体がよく鍛えられていることが分かった。
黒髪は短く切りそろえられ、私の髪と違ってなびくことはない。
――木の、香りがする。どこかで、……嗅いだ。
前を歩く男からだろうか、時折木の香りがする。この男は何か香りのするものを持っていただろうかと考えてみるが、
男は腰に剣を下げているだけで、何も持っていない。
周りからだろうかと周囲を見るが、廊下から見える中庭の木々は、かなり離れていた。
目を凝らすが、その木々は香りのするものではなさそうであり、ようやく暖かくなり始めた季節で、花は咲いてはいない。
またふわりと。香りがした。不思議な感覚だった。
人は過去の記憶と現在との共通点に触れると、過去を懐かしむ。
私には懐かしむ物など、ない。私の記憶は断片的なものばかりだった。
「ここが俺の部屋だ。入ってくれ」
男はようやく振り返り、目の前の扉を開けた。
「おかえりなさい。……え!?えぇっ!?!?噂の少女じゃないですか!」
部屋に入ると、木の香りが強くなった。
横長の部屋は王の部屋と同じくらいの大きさだった。
飾り気のない部屋に植物はない。
中庭に面した2つの窓は開け放れていたが、近くに植物はない。
入ってきた扉の正面に置いてある執務机には何も置かれておらず、香りの発生源だとは考えにくい。
不思議だった。一体どこからこの香りがするかわからない。
「……何か不思議なものでもありますか?」
声のする方に顔を向けると、1人の男が立っていた。
金色の髪に青い目の男は、どこかの絵画にでも出てきそうな外見だった。
「特に何も」
「そうですか、先ほどは大きな声をあげてしまってすみません。まさかすぐにこちらにいらっしゃるとは思わなかったので。さぁ、どうそこちらへ」
金髪の男は笑った。
部屋の右手には、柔らかそうな茶色いソファが2つ向かい合い、真ん中に低いテーブルが置いてあった。
ソファは大きな男でも3人はゆったりと座れそうなものだった。
すでにその1つに、男が座っていた。
「フィデリオ、彼女にこちらでくつろいでいただいていいですよね?」
「ああ」
仮の主となった男は、机で何か書いていた。
仮の主の返事をうけて、ソファに移動をする。
既にソファに座っていた男は、私に軽くお辞儀をした。
「お互いに自己紹介をしたいところですが、まずは座ってください。
コーヒーを淹れてきますから」
金髪の男は再び笑うと、部屋を出て行った。
私は言われた通り、ソファに座った。
再び、香りの元を探した。
この部屋の壁は本棚に覆われたいた。
その本棚にもびっしりと本が置かれていた。
中でも地図や気候など自然に関するものが多かった。
向かいに座る男も何かの本に目を通していた。その男は黒い縁の眼鏡をかけていた。
風が吹く。後ろの窓から風が部屋に吹き込む。髪がそれに合わせ、舞う。
仮の主は、作業を続けている。
――なぜ、私は、こんなにもこの香りが気になる?
天井を見上げた。蜘蛛の巣こそないが、歴史を感じさせる少し黄ばんだ白い天井。
天井にも香りの元はない。
目をつぶった。点描画のような、壊れた記憶の中を探す。
目を閉じると感覚が強くなる。木の香り、仮の主のペンを走らせる音。
「……なぜ」
不意に言葉がこぼれた。目を開けて黄ばんだ天井を見つめた。
ちょうどその時、コン、コンと乾いた音が部屋に響いた。
「お待たせしました。さぁ、早速自己紹介をしましょう!」
銀の盆を片手に持ち、さきほど部屋を出て行った男が戻ってきた。
軽やかな足取りで低いテーブルに近づくと、飲み物と、焼き菓子を置いた。
黒い液体や焼き菓子からおいしそうな匂いがした。
「フィデリオ、女性を待たせてはいけませんよ」
そういいながら男は私の隣に腰を下ろした。
つい、男に目が行った。
「隣に座られるのは嫌でしたか?」
「いや……別に」
「ならよかったです。お菓子などをあなたに渡すなら近い方がいいですので。」
男と私はこぶし1つ分しか開いていなかった。窮屈というわけではない。
顔を正面に向けると、仮の主が向かいに座った。
向かいの2人はソファの端と端に座り、2人の間には大人1人分の空間があった。
「ウーリさん、近づきすぎではないですか?」
「そうですかね?私はいつもこの距離で接していますよ」
眼鏡をかけた男は、本から顔を上げた。
会話中、隣の男は銀の盆から、飲み物と焼き菓子をそれぞれの前に置いた。
「ウーリ、君の接している女性と彼女では少し感覚が違うと思う」
仮の主は、置かれた飲み物を飲み始めた。
「嫌だと言われてないからいいんです。あ、あなたはミルクと砂糖は入れますか?」
男は笑った。どう答えたらいいかわからず、前に座る2人の男を盗み見た。
仮の主は何も飲み物に何も入れていなかった。隣の眼鏡をかけた男も何も入れずに飲んでいた。
「何も、入れません」
「そうですか。では、どうぞ。熱いので気を付けてください。では、ようやく自己紹介が始められますね。さ、フィデリオ、あなたからどうぞ」
「ああ」
仮の主は、茶器を置くと、まっすぐに私を見た。
「名はフィデリオ・グリム。大将をしている」
言い終わると、仮の主は再び茶器を手に取った。
「……それで終わりですか?もっとあるでしょう?」
「特に、ない」
「……だからあなたは、女性に怖がられるんですよ。人間、わからないものは怖いと感じるでしょう?分かり合えば、怖くなくなるんですよ!」
仮の主は、隣の男を睨みつけた。
「もういいです。私が後で補足します。じゃあ、次は私ですね」
目の前に置かれた茶器を取ろうとした手を、隣の男に取られた。
予想外の行動に手を引き抜こうとするが、意外に力が強かった。
男は首をかしげて笑った。
「私はウーリ・シェーンベルクと言います。ウーリと呼んでください。フィデリオの参謀役兼、お世話係です。私達3人は、幼馴染なんですよ。フィデリオのグリム家に仕えています。だからと言いますか、階級はフィデリオが一番上ですが、あまりこの部隊には堅苦しい雰囲気はありません。よろしくお願いしますね」
「…あ、ええと、はい、こちらこそ……ウーリ」
「ええ、そういえば、少し寒いですか?手がとても冷たいですよ?窓が開けてあるからでしょうか?女性に冷えはよくないですからね」
「だ、大丈夫です」
この男、ウーリは、苦手だと感じた。距離を取ろうにも、手がしっかり握られ、敵意のない表情や口ぶりに手を払うのが躊躇われた。
「ウーリ。怖がっている」
仮の主は、飲み物が飲み終わったのか、茶器をテーブルに置いた。
「コーヒーが冷める。温かいうちに飲むといい」
「怖がらせてしまいましたか?ごめんなさい。コーヒーと一緒にこちらもどうぞ」
ウーリは私の手を放すと、焼き菓子を勧めた。
茶器を手に取り、黒い液体を飲んだ。
―――苦い。
「どうですか?私の特別ブレンドコーヒーです」
ウーリの顔が近づいた。
「……苦い、です」
「そう、ですか。なら砂糖とミルクをどうぞ」
「……はい」
手渡された砂糖瓶と、ミルクの入った小瓶を目の前に置いた。
なぜか視線が私に集まっていた。何か試されているのだろうか?と考えながら、砂糖をスプーン1杯、ミルクを黒い液体が少し白くなるまで入れた。
「では、私も自己紹介をしてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
ウーリは焼き菓子を頬張りながら、眼鏡をかけた男を促した。
「私はヴィルヘルム・カーンです。周りからはヴィルと呼ばれています。君もヴィルと呼んでください。ウーリさんが言った通りですが、私も、フィデリオさんのグリム家に仕える人間です。どうぞ、よろしく」
「……お願いします」
私が言い終わるとヴィルの薄茶色の目が、少し細くなった。
「では、イルザさん、自己紹介をお願いします」
ウーリが促した。
仮の主を見ると、こくりとうなずいた。
「イルザ、です。私のことはイルザと。それから…フィデリオ大将、私はあなたのことをなんと呼んだらいいですか?」
「……フィデリオでいい。敬語もなくていい。君は王直属だ。階級が君に当てはまるとしたら、私と同じか、もしくは上だ。それから、王の言っていたが、君のことを話してほしい」
「わかりま……わかった」
私は続けた。
「私は王によって、2か月前に私は目覚めさせられた。ずっと眠っていたので。2か月間、今の世界のことを学び、おおよそ理解した。剣や能力については、先ほどの大広間で見た通りだが、竜巻を起こしたような力、あれは私の力のほんの一部。また広い場所で見てほしい」
「……もっと大きな竜巻も出せると?」
「可能だ。それに力は竜巻を起こせるだけではない。力のことは、また詳しく話すが、重要なのは、私の食べる量だ」
「食べる量とは、食事の量ということですか?」
ウーリが首をかしげながら、私の顔を覗き込んだ。
いつの間にかこぶし半分ほどの距離になったウーリに居心地の悪さを感じながら、私は再び続けた。
「ああ。私は通常で大体、大人10人分、力を使った場合、力の消費量によるが、通常の3倍近く食べる。また私が空腹状態になると、人や動物を殺し、食べる。それも見境などない。おかしいと感じたら逃げてほしい」
「殺して、食べる!?」
ウーリが大きな声を上げた。
ヴィルは焼き菓子を食べていた手を止めた。
「それは本当なのか?王も言っていたが……」
フィデリオは眉間に皺を寄せた。
「本当だ。私は実際にそうなったことはないが、私の姉たちはそうなったことがある。」
「それでお姉さま方はどうなったんですか?」
「空腹が解消させられれば、もとに戻る。だが、繰り返すと体が弱り、死ぬ。」
「それは、……つらいですね」
ウーリが再び、私の手を取った。けれど、先ほどとは違い、握るのではなく、両手で私の手を包み込んだ。全身に鳥肌が立つ。
「悪いが、続けてくれ」
「殺しているときは記憶がない。簡単に言えば暴走だ。どれくらい殺して食べればもとに戻るかは知らない。状況によって違う。これだけ気を付けてもらえれば、他に問題はない」
「1つ質問してもいい?」
私はうなづいた。
ヴィルは眼鏡の位置を直しながら私に聞いた。
「その暴走は、空腹にならないこと以外に、解決法はないの?」
「私を殺すこと、周りが逃げること、私はそれしか知らない」
「君を殺すねぇ……、僕もあの場にいて、フィデリオさんとの戦いっぷりを見てたけど、結構厳しいよ、その解決法。ウーリさんなんて瞬殺だね。それに、竜巻なんて起こされたら逃げようにも逃げられない」
「ヴィル、私の剣術については言わないでください。ですが、そうですね……ヴィルの言うとおり、あなたを殺せる人間はそういません。逃げるのも困難そうですし。……フィデリオ、あなた、王に何か悪いことしました?」
「…さぁな」
ウーリは大きく息を吐くと、私の手を撫でていた手を止めた。
フィデリオは視線を下に落とし、何か考えているようだった。
「気を悪くしたらごめんなさい。ですが、その……」
「私達は遠征にこれから行くってことはわかるよね?遠征は遠くまで行って、敵と戦う。勝てば勝つほど敵地の奥深く行くからさ、その分補給路も長くなる。つまり食料を一定量供給するのはなかなか大変ってこと。まぁ、君の力で、さくっと戦いを終わらせて、補給路の心配なんかしなくていいのかもしれないけれどね」
ウーリが言いにくかったのだろうか、言葉を詰まらせたあとをヴィルが続けた。
ヴィルは眼鏡の目を細め、私を見つめていた。
いつの間にか、部屋は少し薄暗くなっていた。雨が降るのか、それとも夜が近づいているのか、あまりよくわからない。
「……なんにせよ、私達は、あなたの言う、力を正確に把握しないといけませんね。戦術も変わりますが、戦略も大幅に変わりそうですね」
「ああ、そうだな」
ウーリは私から手を放して、フィデリオを見た。フィデリオは足を組み、ソファに深く身を預けた。
背中に受ける風が、少しだけ冷たくなっていることに私は気付いた。
感じていた木の香りは、鼻が慣れたのかあまり感じない。
「それもそうだけど、夕食に行きません?彼女の食べっぷりも見たいし」
「そうですね。では、お皿を下げますね」
ウーリは空になった茶器を銀色の盆に集め始めた。
私の茶器と、まだ焼き菓子が残っている小皿に手をかけて私を見た。
「そういえば、砂糖とミルクを入れたコーヒーはどうでしたか?おいしかったですか?」
私はウーリを見て、まだ話していないことを伝えるために、口を開いた。