仮の主
私の記憶は粗い点描画のような、人の輪郭ですらはっきりしないものだった。
数少ない鮮明な記憶のほとんどは、そこで過ごすものだった。
私は気付いた時にはそこにいた。
そして、ガイスと呼ばれる男とお祈りをしていた。
私と、ガイス、それからお姉さまたち。
ガイスは、私とお姉さまたちにとても優しかった。とてもとても、優しかった。
――君たちは選ばれたんだよ。さぁ、おいで、神に選ばれた子どもたち。
ガイスはいつも私達を神に選ばれた子どもたちと呼んだ。
いつも頭を撫でてくれた。色々なことを教えてくれた。
ねぇ、ガイス、私は次こそ、お姉さまたちのように、旅立てるのでしょうか?
王の部屋は日当たりがとてもよかった。
窓は中庭に面していて、池とそれを取り囲む草木が見えた。
窓辺に椅子を持ってきて、膝を抱えて丸くなっていた。
春が近づくにつれ、光は暖かさを増していた。
――このまま寝てしまおうか?
どうせすぐに起こされるのはわかっていたが、長い年月眠りっぱなしだったせいか、どうにも眠い。
部屋には主と、先ほど手合せた男が来ていた。
自分と戦ってほとんど無傷で済んだ男だ、かなり優秀なのだろうとぼんやりした意識で思った。
二人は次回の戦いについて話をしていた。その戦いに自分も参加をする。しかし、興味はなかった。
命令された通りに動けば良かったし、私を使う人間が愚かでも構わなかった。
私が死ぬのなら、それは神が与えた運命だ。
――早く終わればいいのに、すべて。
視界を遮ってくれる長い髪と、膝を抱えたこの姿勢は好きだった。
―――起きろ。
アヒムの声が頭で響いた。
膝から顔を上げると、黒髪の男がこちらを見ていた。
目が合うと、男は軽くお辞儀をした。
「これから、こいつはしばらくの間、お前の配下とする。好きに使え。それとこいつに関して重要な注意事項があるからよく聞け。」
王は柔らかい布が貼られた椅子に深く座り、立っている男と対面していた。
大広間でと同様に右手で頬杖をついていた。
王と男の間にある大きな机には所狭しと紙の束が広がっていた。
王の喋る間に立ちあがり、机の脇に立った。男はずっと私を見ている。
居心地の悪さを感じて、視線を床に落とした。
「こいつは大食いだ。普通にしていても10人前は食べる。さっきみせた能力を使えば、その倍以上は食べる」
「……この女性が、そんなに、食べるのですか……?」
困惑した声だった。
王はそんな声に構わず、続けた。
「ああ。食う。まぁ、後で食事させてみろ。で、重要なのはここからだ。絶対に空腹にさせるなよ。空腹になると見境なく殺す。動物も、人さえも、だ」
男が息をのんだような気がした。再び顔を上げると、男と目が合った。
信じられない、男の目にはそう、書いてあった。視線を再び、床に落とした。
「空腹にはそう簡単にならない。だが、なったが最後、味方なんて関係なくなる。気をつけろ。といっても、俺も見たことはないがな。どうしようもなくなったら殺せ」
「彼女を殺してもよいと?」
王 は抑揚のない声で、淡々と続けた。
「ああ。殺せなかったら逃げろ。だが、そうなった時以外、こいつは命令に必ず従う。後はこいつにでも聞け。戦果を期待している」
本当に期待しているのか、わからない口ぶりだった。
今まで仕えてきた主の誰よりも、自分を魅せることをしない人だと思う。
ふわりと後ろから部屋に風が吹き込んだ。髪が揺れ、頬がくすぐったい。
顔を上げると同時に吹き込む風が強くなった。
風と同時に、声が頭にこだまする。
――指輪に関して、一切しゃべるな。
――仰せのままに、わが主。
「かしこまりました。全力を尽くします」
男は右手を胸にあて、頭を垂れた。
その姿はきれいだと思った。
私は、男の脇へ進むと、同じような姿勢をとった。
再び顔を上げた。
私を見る王の赤い目が、これから向かう戦場を連想させた。