第一章② 少女と傭兵その1
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「うぇー。あたし、もう足首まで水に浸かっちゃってるよ。靴の中びっちゃびちゃ。なんかもう、逆に楽しいくらい。ね、ライズ。どうやって次の町に行くの? 竜神橋、落ちてるんだよね?」
護衛にも気付かれぬよう馬車隊から離れ、二人は人の背丈の半分程もある草に身を隠しながら――とはいっても、ルーミィの背丈ではもとより隠れる必要も無かったので、ライズだけが背を低くしながら進んでいた。というだけの事であるが――川のすぐ近くまで移動する。ルーミィがジャボジャボと足踏みして水の重みを楽しむ中、ライズは腰を落とした状態で、茂みの中から離れた場所にある竜神橋を望む。
「ふむ……確かに、落ちているな。真ん中がごっそり無くなっている……ん、竜神の紋章が抉られているか。やはり落とされたようだな」
ライズは左目の片眼鏡に手を伸ばし、レンズに付けられた目盛りを回す。
「……竜神の加護を打ち消す程の力……か。威力から見て奴等では無いようだが、この相手にも見つかったら厄介だな」
と、ルーミィがライズの肩を叩いた。
「あたしにも見せて」
ライズは一瞬躊躇したが、フードを脱いで片眼鏡を外し、ルーミィに渡す。
「あ、ほんとだ。……雷禍かな?」
ルーミィは言い、片眼鏡を覗きながら目盛りを弄る。
「さぁな。炎狸かも知れん。……壊すなよ。高いんだから」
「はーい。ね、ライズ。これだいぶ弱くなってない? 全然拡大しないよ?」
ルーミィは片眼鏡を返しつつ、目を擦った。ライズは片眼鏡を受け取り、装着してフードを被りなおす。
「大丈夫か? 慣れてないんだから、無理矢理拡大したら疲れるに決まっているだろ。そうだな、後でレンズを取り替えておく。……さて、と」
ライズは立ち上がり、ルーミィに向き直って言った。
「ルーミィ。橋が落ちている以上、この川を渡って町に向かうには、『石』を使って走るか飛ぶしかないと思うんだが」
「え? また使うの? えーと……、あたし気分悪くなっちゃうから嫌かなー……なんて」
ルーミィが顔を歪め、ちらり、と横目で川幅を確かめた。
「これ……どれくらいあるの?」
二人の目の前に広がる川は、かなり大きい。さらには豪雨で水かさが増し、氾濫もしているのだ。実質的に、安全な距離というのも伸びる事が予想される。
「幅は竜尺――成竜一匹の頭から尻尾までの長さ。一匹で約十メートル程――でだいたい二匹くらいか……。別にいいだろう? お前が走ったり飛んだりする訳じゃないんだ」
言いながら、ライズは自分の荷物から皮袋を取りだした。
「うー、使うのはライズでも、あたしは酔っちゃうもん」
「そろそろ慣れたらどうだ? 確かに身体への負担は大きいし、使い過ぎると麻薬みたいな代物だが、実際に使う訳じゃないお前への負担なんて微々たるもんだぞ?」
言いながら皮袋から小さく光輝く石を取り出すライズに、ルーミィは不満そうに眉を顰める。
「むぅ……そうなんだけどさ……」
「仕方ないだろう? 文句があるなら、橋を落とした奴等に言ってくれ。……まぁ、大丈夫だろ。竜尺三匹程度の距離なら、あっという間だ」
ライズは、大丈夫だから、と笑いかける。そして荷物を後ろではなく前にからうと、ルーミィに背を向けてしゃがみ、手招きした。
「ほら、さっさと渡るぞ。早くおぶされ。いつ奴等や橋を落とした連中が来るか分からんのだから」
「うん……」
ルーミィは渋々と頷いた。ライズの背中に手をかけ、おぶさろうと片足を上げる。
と、その時。
馬車隊の方から、怒号と悲鳴が二人の耳に聞こえてきた。
「む……もう来たのか」
ライズは耳を済ます。護衛の笛の音。馬の嘶き。乗客達の悲鳴に、何者かの笑い声。全てが豪雨によって聞こえづらいとはいえ、確実に、馬車隊が襲われているだろう事を指している。
同時に、遠くからでもそれと分かる、小規模の爆発のような光と音が耳を打った。
「この音と光は……炎狸か。あの護衛達では……無理だな」
「ねぇ……ライズ」
「駄目だ。お前の安全が最優先だ」
首を横に振り、ほら早く、とライズは促す。
「でも……」
「でもじゃない。万が一お前に何かあれば困る。それに、お前はもう選択したはずだ」
ライズは叱責すると、それに、と付け加えた。
「さらに奴等まで来たら、俺にお前を守りきる自信は無い。ルーミィ、そうしたら、お前は志半ばで夢が潰える事になる。それでいいのか?」
「よく……ない」
ルーミィは唇を噛み締める。自分達が戻れば、護衛と共にライズが馬車隊を救えるかも知れない。しかし、自分の成すべき事と、自分が決めるべき事。万が一の事態が起こった場合、どうなるか。ルーミィは思考の狭間で揺れる。
「だったら、早くおぶされ。情を捨てろ」
そんな葛藤を知ってか知らずか。ライズは無情にも困っている人々は無視しろと、厳しい表情で告げた。
「っ……」
びくっ、と震えたルーミィは固い表情のまま、ようやく無言でライズに身体を預ける。ライズはほっとしたように息をつくと、しっかりと落ちないようにルーミィを抱え立ち上がった。
「それでいい。じゃあ始めるぞ。掴まってろ」
ライズは手に持つ小石を口に入れ、そして奥歯で噛み締めた。
瞬間。
それまでキラキラと光輝いていただけの小石は、まるで飴を噛み砕いたかのように割れた。かと思うと、どろりとした液体となって口中へと広がる。
「……」
ライズは目を瞑ってそれを咀嚼する。味の無いそれは、だんだんと熱を持ち、ただのどろりとした状態から、粘性が高い水飴のような物へとなっていく。
「ん……」
そして、ライズはそれを飲み込んだ。水飴状の熱を持った物質が、喉を通り、胃へと落ち、じわり、と、身体中へ熱が伝わる。
「ぐっ……!」
次にライズを襲ったのは、胸焼けと身体中の筋肉や骨が軋みを上げるような、痛みだった。
「……慣れているとはいえ、年々辛くなってくるな、これは……」
ぼそり、とライズは呟く。
「ライズ……大丈夫?」
ルーミィが背中から心配そうに声を掛けるが、ライズは答えず額に脂汗をかきながらも痛みに耐える。
「…………よし、行くか」
少しして痛みが消えると、ライズはすっきりしたように気合いを入れた。脂汗も引き、むしろ先程までよりも生き生きとした表情になる。さらには、身体全体からフードや外套ごしからでも分かるほど、湯気のような物が立ち上っていた。
「飛燕は見付かる恐れがある。駿狼を使うからな。落ちるなよ、ルーミィ」
「うぅ……」
ルーミィは気持ち悪そうに顔を歪めた。
「大丈夫か?」
早速、石を使用した事による影響を受けるルーミィに、ライズは気遣いの声を掛ける。
「いいから、早く渡ってよ。うぇ」
石の力は使用者に強大な恩恵を与える。しかし、使用者だけでなく周りの者にも某かの影響を与える劇物である。
ライズの身体は、とうにこの石という麻薬に侵されきっているし、まだ幼く本来石の影響を与えるべきでないルーミィの身体までも、蝕む可能性が高いのである。現に、背負われているだけのルーミィが吐き気に見舞われる程だ。石の使用に慣れている筈のライズでさえ、全身を襲う痛みに苛まれるのだから、その影響力は計り知れないであろう。
「あぁ……」
ライズはそれだけ言うと、スッと片足を下げ、走り出すのに最適な位置取りをする。首に回されたルーミィの腕に力が入った。
そして、一瞬の静寂。
「ッ!」
瞬間、その場から二人が消えた。
否。消えた訳では無いが、消えたように見える程、速く動いたのだ。とても、常人にはその走り出しを目で追う事は出来なかったであろう。後に残ったのは、降り続ける雨と爆発的な移動の所作によって出来た地面の凹み。そこに流れ入る泥水、掻き分けられた草が元に戻る動きだけであった。
ライズは竜尺二匹に渡る水の上を走る。
沈む事もなく、川をあっという間に渡りきった。水が後から飛沫を上げ、すぐに何事も無かったかのように流れ続ける。
「……ふぅ」
反対側の岸に着き、川の水が来ない場所まで移動したライズは、立ち止まると長く息を吐いた。ルーミィを降ろし、そのまま膝をつく。
「ライズ?」
自身も気持ち悪そうにしながらも、ルーミィは心配からかライズの肩に手を置いた。ライズの身体からは既に湯気は立っておらず、生き生きとしていた表情も今は辛そうに歪んでいる。
「大丈夫だ……。やはり寄る年波には勝てないな。身体の方がもたん」
苦笑いしながら、ライズはルーミィの頭をポンッと叩いた。
「お前は大丈夫か?」
「うん、なんとか。……ねぇ、ライズ」
「なんだ」
「死なないでね?」
「…………」
ライズは不安そうなルーミィを無言で見つめ、ふっと笑うと立ち上がった。
「俺は死なんよ」
ライズはフードを取り、顔を空へと向け目を瞑った。
そうして少しの間、雨に打たれる。ふぅ、と深く息を吐き、目を開いた。
「よし、急ぐぞ、ルーミィ」
先ほどまでの辛そうな顔はどこへやら、真剣な言葉とは裏腹に、にこやかな笑みをルーミィへと向ける。
「夜までに町へ入らなければならないからな」
「……うん」
「そんなに心配そうな顔をするな。俺は死なんし、お前の望みが叶うまでは、何がなんででも守ってやるさ」
「ライズ……」
「ほら、走れるか? なんだったらおぶってやるぞ?」
「……良い。自分で走る」
ライズに負担を掛けたくないのであろう。ルーミィはそう言うと、すぐさま走り出した。ライズは苦笑すると、その後を追う。
「ところでさ、ライズ」
ルーミィはライズへ問い掛けた。
「なんだ?」
「さっきの、頭に手を置いたのって、デザート抜きって事で、いいんだよね?」
走りながらな為、切れ切れになりがちだが、努めて明るく言ったルーミィに、ライズは焦る。
「え、いや、待て。さっきのは緊急事態の内って事でいいだろ」
「ふん、だ。今だって、どさくさに紛れて、あたしに、触れようとした、じゃない。緊急事態じゃ、ないのに」
「いや、それはちがっ」
「べー、っだ。変態な、ライズの、言うことなんて、聞きませーん」
ルーミィは心底楽しそうに言う。対して、ライズは必死に今日の夕食後のデザートを守ろうとルーミィを説得する。
「待ってくれ。違うんだ。駄目だ。デザート抜きは駄目だ。しかも今夜の宿のは世間でも評判の一品なんだ。俺はこれを食べなきゃ行かんのだ。頼む、ルーミィ」
「だーめ。我が儘、言ったら、明日のデザートも、無しだよ」
「ぐっ……くそぅ……」
ライズは、走りながらも、目に見えて分かるほど器用に落ち込んだ。
「うぅ……俺のデザート……」
そんなライズを尻目に、ルーミィがくすりと笑ったのを、ライズが知る由も無い。
そして、二人して走る事半時。
「つーかーれーたー! もう、私走れない! 歩きたくもない!」
疲れきって走るのをやめたルーミィは、膝に手を付き肩で息をし、恨みがましそうにライズを見上げた。
「ライズ、ずるい」
「いきなりずるいと言われても困るんだが……水、飲むか?」
ライズは荷物から水筒を取り出すと、ルーミィに差し出す。受け取ったルーミィは蓋を開けて一口飲み、一息ついた。
「んく……はぁ、生き返るー。だって、ライズこれだけ走っても涼しい顔してるもん。ずるい」
ライズは肩をすくめて答えた。水筒を受け取り、蓋を閉めて荷物に入れ直す。
「前にも言っただろう? 鍛え方が違うんだ。ましてや子供と大人じゃ基礎体力が違う」
「むー、言ってる意味分かんない」
頬を膨らませ、「ずるい」と連呼するルーミィに、ライズは苦笑する。
「つまり、お前はまだまだ子供だって事だ。で、どうするんだ。急がないと夜になるぞ?」
と、ライズは空を見、止まぬ雨に目を細め、町の方角を見つめた。
「む……」
「どうしたの?」
「ルーミィ、道を外れるぞ。町の方から何か来る」
「え……?」
言われ促されるまま、ルーミィは道から竜尺一匹ほどの距離を離れた。草影に身を屈める。
「ねぇ、ライズ」
「静かに。『人』じゃない」
「え、う、うん」
「まさか……いや、この感じは……何故こんな辺境に……」
ライズはぶつぶつと呟きながら、じっと町の方角の空を見詰める。ルーミィも倣い、見詰めた。
「あ……」
ルーミィは、思わず声を上げた。
町の方角の空から、一匹の金色に光る竜が飛んで来ていたからである。