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ショート・ショート(SF)

自我の海

作者: 横山ヒロト

 ある大学の講義室。

「少し時間が余ってしまったので、今日は少し趣向を変えた課題を出します」

 白髪混じりの教授は柔和な笑顔でそう提案する。

 途端に講義室がざわめき始めるが、教授がゆっくりと教室を見回すと、その声の波紋はゆっくりと治まっていった。

「いえ、課題といっても、評価に直結させようとは考えてませんよ。……今のところね」

 教授は悪戯っぽく笑うと、本題を話し始めた。

「皆さんは、スワンプマンを知っていますか?」

 生徒達は各々が違う反応を見せる。どうやら知っているのは二割にも満たないようだ。

「なるほど。では、簡単に説明しましょう。――ある男性が、休日ハイキングへと出かけます。しかし、天候が悪くなり、男は家へと戻る事にしました。しかし、その途中にある沼に差しかかったところでその男性は雷に打たれて死んでしまいます。それとほぼ同時に沼にも雷が落ちました。それで、沼は特殊な化学変化を起こし、その死んだ男とまったく同じ形状の存在を作り出します。それは原子レベルでの同一形状、という訳です」

 生徒達はメモを取りながらその話を聞く。

 教授は一呼吸置いて、話の続きを語る。

「その存在こそが沼の(スワンプマン)なのです。しかし、このスワンプマンは死ぬ直前の男性と同一――つまりは、記憶や知識もそっくりそのままコピーされていますので、当人にとっては、自分が死んだ男のコピーだと疑う事はないのです。スワンプマンは死んだ男の家に帰り、死んだ男の家族と言葉を交わし、死んだ男の読み書かけの本の続きを読み、そして、翌朝になると死んだ男の勤めていた会社へ出勤する」

 説明を終えると、生徒達は周囲の友人達と話したり、ひとりで熟考したりしていた。それこそが、こういった思考実験と呼ばれるものの要であるので、暫くその様子を眺めていた教授は締め括りにこう言う。

「では、皆さん、このスワンプマンは死んだ男である、と言えるのでしょうか? 確かに一人の男は死にましたが、ほぼ同時に生みだされた完全なるコピーであるこのスワンプマンはその世界にとっては、死んだ男となんら変わりないのではないでしょうか? ――と、これが今回の課題です。量は問いませんので、それぞれが思った事を書いて、来週提出して下さい。以上」

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る少し前に講義室を出た教授は、自分の研究へと戻るべく研究室へと帰っていった。

 そして、それから数時間膨大な資料と向き合い、論文を書き進める。

「……おっと、こんな時間か」

 気付けば、日は暮れていた。

 また家内に夕飯が冷めるでしょう、と怒られたくはないので、すぐに帰る事にした。

 だが、その帰り道、教授は急に心臓に痛みを覚え、どんどん苦しくなり、やがて倒れ込んでしまった。





 次に目が覚めたのは病院のベッドだった。

「私は……」

 と、記憶のページを捲る。

 するとすぐに苦しくなって倒れてしまった事を思い出した。それはついさっきの出来事のように思えるが、いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか、と病室と思しき室内を見回していると、

「……貴方!」

 そこには、出会った二十年前から比べればずいぶんと老けた――それでも、確かに自分が愛してきた、そしていまも愛している妻がいた。

 妻は小走りで駆け寄ると、ベッドの横に膝をつき、教授の両手を握った。

 ――温かい。ああ、私は生きているのだな。

 教授は改めて自分の生を実感した。

 そして、涙を流して妻の頭をそっと撫でた。

「ありがとう」

「ううん、貴方が生きていてくれて本当によかった。私……もう、貴方が目覚めないんじゃないかって……」

「そうか、それは申し訳ないな……。私はどれくらい意識を失っていたんだ?」

「三日よ。なんでも、相当容体が悪かったらしくて、今日まで面会謝絶でずっと先生が付きっきりで……」

「三日……ああ、本当に危なかったのか。これからは、体に気をつけないとな」

「そうよ……もっと長生きしてくれないと、私、寂しいじゃない」

 二人は出会ったころのように少し照れたように笑い、そして教授は妻の頭を包み込むようにそっと抱き寄せた。

 そんな淡い幸せで輝く永久のようで刹那のような時間が、どれくらい続いた頃だろうか。

「失礼します」

 聞こえた声に、二人は焦って居住まいを正した。

 病室の入り口に白衣を着た初老の男が立っていた。

「先生……この度は本当にありがとうございます」

 教授の妻が恭しく頭を下げると、担当医の初老の男は、

「いいえ、私達の仕事は人の命を救うことですから。それに、こうして意識が戻って、私も大変嬉しく思いますよ」

 担当医は不思議な雰囲気を持っていたが、とても礼儀正しい聡明な男だった。

「ありがとうございます。貴方のような先生に担当していただけて、私は幸運です」

 教授も頭を下げた。

「何を仰いますか。世界でも有数の心理学者である貴方のような方を救えて、私は誇りを持てますよ。家に帰ったら娘に自慢しようと思います」

 少し冗談めかしてそう言った担当医は、短く笑った。教授とその妻も笑い、病室は温かい空気に包まれた。





 結局、教授は何の後遺症もなくすぐに退院できる事になり、早速自分の研究に戻り、家に帰ると、生徒達に出していた課題を確認した。

「うん、やっぱり若い感性は面白いなあ」

 と、リビングのソファに座りながら関心したように頷くと、妻が隣に座り、

「もう、そんな年寄りくさい言い方して」

「そうかな?」

「そうよ」

 妻は教授の肩に頭を乗せて笑った。

 病に伏せて以来、二人はより仲睦まじい関係になっていた。

 




 それから暫く経って、一度倒れたとは思えない程の元気になった教授はいつものように大学の研究室から家へと歩く。車で十分ほどの距離なのだが、健康の為に歩く事にしたのだ。

 しかし、それがまさか悪い方に働くとは、教授自身も考えていなかった。

 家路を辿り、五分ほど歩いた頃、信号待ちをしながら教授仲間からのメールを確認していると、向かいの歩道から大きな声が聞こえた。

「危ない!」

 その声に反応して顔を上げると、対向車線からこちらへと向かってくる大型のトラックが見えた。

 大型トラックはぐんぐんとスピードを上げながら教授の方へと迫る。

 運転席では筋肉質の若い男が居眠りをしていた。

 まずい、と思ったが、時すでに遅く、逃げる教授に肉薄した大型トラックはそのまま彼を跳ね飛ばしてしまった。

 教授にはその瞬間がすべて、コマ送りの映像のように見えていた。

 迫るトラック。針金のように簡単に折れ曲がる小さなガードレール。叫ぶ通行人。衝撃で目を覚ます運転手。そして、舞いあがる自分の体。

 ああ、せっかく救われた命が――――。

 最後に頭に浮かんだのは、愛すべき妻。

 何よりも彼女を残して死んでしまう事が心残りだった。

 ――――――――

 ――――

――

しかし、またしても意識は現実に回帰する。

それも、今度は病院の上ではなく、先刻自分が跳ね飛ばされ、打ちつけられた地面の上だった。

そして教授は自分の目を疑った。

骨が粉々に砕け、まるで箱のなかに押し込められた人形の用に歪んだ体は、みるみるうちに元の姿に戻っていく。映像を巻き戻しているかのように。

それから、たったの数分で教授の体はすっかり元に戻り、自分の足で立って歩けるようになった。

自分の身に何が起こったのか理解できずに、ただ唖然としてその場に立ち尽くしていると、

「知ってしまいましたか……」

 目の前に現れたのは担当医の男だった。

 その後ろには彼の仲間と思しき黒いスーツの男達がいて、彼らに抱えられるようにして通行人とトラックの運転手が眠っていた。

「ああ、大丈夫、彼等には今しがたの事を忘れてもらうだけですよ」

 教授は混乱する頭をどうにか機能させ、言葉を捻り出す。

「どういう……事ですか?」

 担当医の男は僅かに間を置き、おもむろに語りだした。

「実は、あの時、貴方は死んでしまったのですよ。心筋梗塞でね。しかし、貴方のような優秀な人材を簡単に死なせてしまうのは、もったいない。そこで、我々は極秘裏に研究されていた機材で貴方の体をスキャンし、ナノマシンでまったく同じ人物を作りだした。それが――貴方です」

 教授は言葉を失った。

 目の前の男が口にしている言葉が理解出来なかった。

 いや――――

「今回も、そのナノマシンが貴方の体を完全に修復したのですよ」

「そんな……」

「自分の目で見たでしょう? 貴方ほどの知識を持たれている方ならば、あれが錯覚であったかどうか、わかるはずです」

「しかし、そんな研究は――」

「聞いた事がない、ですよね? しかし、確かに存在するのです貴方の知らない世界もね」

 教授は返す言葉を失った。

 確かに、これが夢ではないのならば、先刻自分の身に起こった事はその説明で全て片がつく。

「しかし――」

 担当医の男は、教授の目と鼻の先程の距離に歩み寄る。

 次の瞬間、腕にチクリと鋭い痛みが奔ると、ゆっくりと意識が遠退いていった。

「貴方にも、この事は忘れて頂かないと、なにぶん不都合がありましてね」

 耳元で聞こえる声。

 教授は霞みゆく意識のなかで、思考した。

 自分こそがスワンプマンなのだと。

 妻と話し、論文を読み、教鞭を振ってきた自分は、コピーにすぎなかったのだと。

 いや――いったい、そこになんの違いがあったのだろうか。

 こうして今真実を知るまで、『自分』は、心臓病で倒れる前の『自分』だと信じて疑わなかった。

 ならば『自分』とはいったい――――

 そこで、教授――いや教授のスワンプマンである彼の意識は自我の海の底へと沈んでいった。


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