Birth of the Cool 1
初瀬雫は裸足で川に入り、明けの明星に冷やされた水で眠気を吹き飛ばし、水面で揺らぐ足の甲を眺めて楽しんだ。光の鱗がきらきらと輝いている。
痩せているが、力が無い訳ではない、小学校では運動会で活躍するメンバーに数えられている。のちに茶色に染められる髪は、黒々と艶があり長く、川風に揺られて背を打っている。顔は平凡といえるが、醜くはない、眼は鳶色で美しかった。
雫はこの村の住人ではない、M県の郊外に位置するK村は七夕祭りで有名であり、S市内に住んでいる雫とその両親は祭りを見に来ていた。旧暦の七夕に行われる織姫と彦星の舞はTV取材不可の危険な儀式だと言われており、一度その眼で見てみたいと両親が企画したのだ。
「頭が冴える」
「本当だ。冷たいけど、気持ち良いや」
一緒に祭りに来ていた赤井直人が川に手をつけた。川の底に転がる砂礫に濃い影が落ちて、木陰と勘違いした小魚が足元を泳いだ。
「あっちの方だよね」
「そっちだね。あさっての方向へ飛んで行ったよ」
二人は川を浅いところを選びながら横切り、苔むした対岸を目指した。昨日から旅館に泊まっていて、同い年の幼馴染はその若さを持て余した。家事と仕事から解放された両親を尻目に、持ってきた野球ボールで遊んでいたが、バット代わりにした木の棒がジャストミートしてしまいあさっての方向へ飛んでしまったのだ。
雫はピアノと野球を習い事でしていたが、今年の春から始めた野球は楽しかった。本当だったら、野球の練習試合があったけど、家族旅行優先でついてきていたが、本音は野球をしたかった。彼女は始めたばかりで準レギュラーになっていて、初めて試合に出るはずだったからだ。
未来は無限だが、過去は常に一本道である。偶然の重なりが必然の過去となり、それはしばしば運命と名を変える。七夕が運命の日だった。
「この上みたいだね」
「昇れる?」
雫は腕の力で昇ろうとしたが苔で滑り落ちた。直人も肥った体に鞭打って昇ろうとしたが落ちてしまい、お互いの服をぬらしてしまった。
「無理」
「見れば分かるよ」
「じゃあ、諦めるか」
「その選択肢は……無い」
雫は却下した。
「仕方ないね。直人、お尻押して」
「えっ、嫌だよ」
直人があからさまに赤面して、いやいやと首を振った。
「大丈夫だよ。お尻くらい。減るもんじゃないし。さあ、触るがいい」
「いや、汚いから」
「今年一番傷ついたよ」
雫の乙女として尊厳が減った。
「近くに川があるのでどうぞ洗ってくださいな」
「わかった。なら押そう」
雫は岩肌に手をかけて体を持ち上げた。尻に両手が当てられて、今度は簡単に上ることが出来た。明後日の方向へ飛んだ野球ボールが苔の上に転がっていた。
「見つけたぞ」
雫が直人へ向けて投げると、直人は上を向きながら後ろに下がって、転んだ。
「あっ、大丈夫」
「うげー、最悪」
雫は川へ降りて、直人の手を掴んで立たせた。
「着替えたい。とりあえず、帰ろうよ」
「始めたばっかりなのに」
「なら、水浸しになってみろ」
直人は川に手を突っ込み、雫へばしゃばしゃとかけた。
「うわっ、止めてよ」
「止めない」
直人は楽しくなった。
だが、雫はそんなに甘くはなかった。
直人の胸を前蹴りして、直人を仰向けに倒した。
「暴力反対」
「そういう台詞は、なんの後ろめたい事もない人がいうの」
「後ろめたいことなんてなんも無いけどね」
雫は呆れて溜息をついた。直人は雫の前だと普通なのだが、他の友達が一緒にいると萎縮してしまう。幼稚園の頃からこの調子だった直人は、小学生に入っても同じようにしていたら虐められてしまったのだ。外で遊ぶことも無くなり、家でゲームするのが趣味になってしまい、ぶくぶくとふとってしまい、コンプレックスまで肥大化させつつあった。
負の感情は人を育てるが、正の感情には遠く及ばない。ただし、教育の帰結はすべて個人によるのである。赤井直人は劣悪な感情を糧に遠くまで飛翔することになる。彼は睫毛が長く、二重だ。パーツごとは整っている。赤味を帯びている髪の毛は陽光に当たると黄金のように輝き、後に多くの味方とさらに多くの敵にとって目印となる彼のトレードマークとなる。
雫と直人は川の中の岩に腰掛けて、恵みの太陽が全身に降注ぐのを感じた。夏でも朝は涼しいが、太陽の熱を浴びれば濡れた服すら乾くようだった。蒸気があたりに充満して、二人は陽炎に包まれた。長い間無言でボーっとして、二人とも相手が動き出すのを待った。
川の流れは清新だ。S市にも一級河川はあるが、市内を蛇行する川は崖をつくり、河原で遊べる場所は少なかった。それに先生から川遊びはするなと言われていたので、今まで川に足を入れたことさえ無かった。水が指を洗い、足の裏に砂と小石が刺さった。魚影が足の間を通り、魚鱗がふくらはぎにふれて、足を精査されているようで、くすぐったかった。
「そろそろお母さんたち起きたかな」
返事がなかった。
雫が直人の顔を盗み見ると、彼が心を奪われているのを見てしまった。
直人の瞳が輝き、嘆息が洩れた。呼吸を熄め、男装の少女を瞳に映している。
彼の心は初恋で焦げ付き、二度目の恋は芽生えなかったのは、後の歴史が証明している。
雫は直人の視線の先を見た。
直人が見つめていたのは、常盤木昼子という少女だった。
「佳子は九十九式が使えないから、未来より練習が必要なのは当たり前」
収穫した稲のような短い髪と、彦星を模した男装の姿で少年のように見えるが、少女としての魅力を隠しきれていない。常盤木昼子は絶世の美少女であり、筆舌を尽くしたとしても書き足りないほどだった。端的に言い表すのが適当だろう。
――彼女より美しい女はいなかった。
昼子は義妹に対して、身振り手振り豊かな表情で、七夕祭りの演舞を教えていた。宝刀を煌かせて、歩きながらくるくると回転する。
その時、義妹の頬に朱がさした。後に聞いたところ、見とれていたらしい。
「私だって好きで使えないわけじゃないよ……」
義妹である勅使河原佳子は眉尻を下げ、自信なく喋った。三つ網を古時計の振り子のように垂らし、下を向いて昼子の後を追った。昼子と同じように彦星の格好をしているが、昼子の着物より生地と刺繍は豪華で美しかった。
昼子は練習用、佳子は本番用を着ていたからだ。
「だから練習が必要なの。去年と同じで、私と未来が演舞してもいいけど、伯父さんは未来と佳子が演舞するところを見たいんだって」
「それは分かっているけど」
「私は伯父さんと伯母さんが喜ぶ顔が見たい。でもね、本人にやる気がないと一歩も先に進まないよ」
「私だって、喜ぶ顔は見たいよ……」
昼子は佳子と向かい合い、手を掴んだ。
「だったら練習だ。とりあえず、彦星の演舞のおさらいをして、次に私が織姫の演舞をするから、佳子は彦星の演舞をして合わせてね」
二人は土手から河原へ降りて、清涼な川風に着物をはためかした。男装の少女が並んで歩いていると、祭りの前の熱気に反応して蠱物たちが囁き始めた。
『蠱物』とは世界の残滓であり、色々な姿をした低級の妖魔である。強い魔力を持つものが近くにいると発生し易く、この川の近くの蠱物は魚と蜥蜴の合成のような形をしていた。
川と魚は連想できるが、蜥蜴は連想できない。
「待って。……何かいる」
二人は乙女にあるまじき行為――鼻をひくひくさせた。
「硫黄臭い」
「屁?」
「違う。悪魔の匂いだ。そして、蜥蜴だから、おそらく竜が潜んでいる」
佳子はボケ損をしたが、何も言うまいと心の底で思った。
「昼子のストーカーの?」
昼子は頷き、佳子と眼を合わせた。
「竜だから水かな……。川には近づかないほうがいい」
川は潮のように満ち引きを繰り返しながら、波を立てながら増水していた。
「ヒルコォォォッ!」
川面から、大きな長い口が飛びあがり、雫の足を掴んで引きずり込んだ。突然の出来事に雫も直人も叫び声をあげた。引きずり込んだそれは――巨大な髭をたくわえ、眼光の鋭い竜の形をした水の塊だった。
「助けてっ! 直人!」
雫は無我夢中で手を伸ばし、指先が触れ合って離れた。
「雫! 誰か! 助けて、友達が川に!」
直人は理解不能の出来事に頭が真っ白になりながらも声を張り上げた。目線が自然と昼子へ向けられ、彼女が応じるように動き出した。
「もう遅いみたい」佳子は袖を巻くりあげ、空中に指で呪文を描いた。「土は水を滅ぼす。土の蠱物たちよ。竜を締め上げろ。お願い。お願い……」
「馬鹿たれ!」
昼子は佳子にチョップした。
「痛い……」
「人が溺れているんだから、川を堰き止めるとかにしろ。人命最優先だ」
「分かったよ……」
昼子は宝刀を抜いて、地面に突き刺して、刀の腹を足先で押して、刀を湾曲させた。
「ひ、昼子。宝刀だよ」
「これが一番早い」
宝刀の嘶きが解き放たれると、宝刀が戻ると同時に、地面に転がっていた石とぶつかりあった。石が真っ直ぐ飛び、水の渦を貫いた。水の渦は悲鳴を上げて叫び声をあげると、雫を川へ落とした。
「ダレダァッ。ヒルコハ、オレノモノダ!」
「あの女の子、そんなに私に似ている?」
「さあ?」佳子が気のない返事をした。「蠱物さん、蠱物さん、さっきの間違い……」佳子は昼子の言ったとおりに、土の蠱物に再度お願いをした。
昼子は宝刀を握り、一気に土手を降りて、河原を横切った。その頃には、竜は姿を現界させた。赤い鱗が燃え滾るようで、朝日に燦爛と輝いた。竜は眼を剥くと、走ってくる昼子を睨みつけた。そして、捕らえた少女を見て、もう一度昼子を見た。
「……マチガエテイタノカ!」
昼子はくすっと笑うと、宝刀を両手に持って振り、河原の石を弾いた。散弾のように石礫が飛び散り、竜へ殺到した。竜の前に水壁が現れ、石は吸い込まれた。だが、昼子は水壁の死角を利用して一気に間合いを詰めていた。
水壁が無くなった。
竜は水壁の向こうを睨んでいたが、いつのまにか真下から首を斬り上げられていた。
「かってぇぇっ!」
宝刀が鱗にあたり弾かれ、手の平も肩も痛くなった。
「ムダダ! ミズノナカデハオレニ……」
昼子は川底に立った。
だがその時、川水は流れを止め、竜の姿は完全に現れた。
土手の上で佳子が小さく手を振った。土の蠱物が上流で川を堰き止めたのだ。地の利は妖魔にとって重要な要素だ。自ら切り離された竜の力は、先ほどと比べたら激減している。
竜は口を小さく開けて、水鉄砲を連射した。高速だ。
昼子は最小限に体を動かし、水鉄砲を避けた。意識は此処に在らず――何百年と受け継ぐ戦闘経験を時代へと相伝する九十九式の術者ならではの動きだった。脊髄反射の演舞は、無限の道筋の中に必勝を掴もうとしていた。
避けながら少しずつに雫に近づき、雫の脇の下に腕を入れて、河原まで走った。
「ヒルコッ! コンドハ、ニガサン!」
竜は咆哮をあげて、体ごと昼子へ体当たりをした。
昼子は竜の攻撃を避けられた。
――だから直人は余計なことをした。だが、それが彼の運命を変えた。
直人は昼子の前に立ち、竜の体当たりを受けたのだ。直人は河原を転がり、石が全身を切り刻んだ。転がった跡に血が残り、全身が血塗れになった。
「おい、大丈夫?」
昼子は雫を担ぎ、直人へ向って駆けた。
直人の肌に赤い鱗が浮き上がり、口から竜の咆哮が洩れた。
「ヒルコォッ……オマエノセイデ、シニンガデキルゾ……」
直人は嘲笑っている。悪辣な皺が顔に刻まれていた。
「オマエハ、ウマレテハイケナカッタ……」
直人に取り付いた竜の哄笑が虚しく響いた。