蜜柑
車は甲州街道を走っていた。昼間からたくさんの車が行きかっており、やはり大都会の中心だけあって、周りには高層ビルが森のように立ち並んでいた。
乗り込んできた女に行き先を聞き目が合ったとき、修一は驚きのあまり女がなんと言ったのか聞き取れなかった。まさかこんなところで再会するとは夢にも思わなかった。数年前に修一の家に同棲していた以前、彼女は埼玉県の川越市の実家に住んでいた。当然修一と別れたあとはその実家に住み帰っていたと思っていた。彼女はなにより都会が嫌いだったのである。
本当は人違いじゃないのか。そう思いながら修一はもう一度行き先を聞きなおすが、その声はやはり昔と変わらない女の声だった。高すぎず落ち着いた、育ちの良さを感じさせる透き通った声だった。忘れはずがない。そしてその確信のなによりの決め手だったのは彼女の瞳だった。大きく開いた、しっかりと力のある瞳だ。昔からなにも変わらない。強いて言うなら目尻に皺が増えたところだろうか。
彼女は新宿に程近い大学付属病院に行きたい旨を修一に伝えていた。子供が病気なのだろうか。元気に彼女と話しているようだから重いものではなさそうだ。検査かなにかだろう、と修一は思った。
彼女は修一に気づいているような様子は見せなかった。もし気づいているなら、こんな突然の再会が起こったなら少しは驚いた反応を見せるものである。しかし彼女は目の色ひとつ変えずに修一に答えていた。さすがにそれが演技には修一は思えなかった。
さすがに気づくだろ、と修一は思った。運転手になったことは知らせていなかったが、お互い長い間親密な関係であった仲である。意外な職業に就いていても気づかないことはありえないと思っていた。ということは気づいてないふりをしているのか。お互い気まずいのはわかるが、少しくらい今のことを報告しあってもいいんじゃないか。そう思いながら修一は女に話しかけてみた。
「お子さんお元気ですね」女と子供は話すのをやめ、女が答えた。
「ええ。でもこの子喘息持ちで、昨日発作がひどかったので今日お医者さんに見せなきゃいけないんですよ」そういって女が愛想笑いを浮かべるのがミラーごしに見えた。
「そうなんですか、それは大変だ」
女は自分に気づいていないことを修一は確信した。残念に感じていた。なんだよ、あんなに仲良かったじゃないか。そう思うととても歯がゆい気持ちがした。
「里美・・・」女の名前だった。修一は自分でも気づかないうちに彼女の名前を口にしていた。
「えっ・・・」里美は驚いた。突然ただの他人だと思っていたひとに名前を呼ばれた。ふつうでは考えられないことである。
「どなたですか・・・?」そういって里美は身を乗り出し修一の顔を覗き込もうとしたところでとても驚いた表情を浮かべた。「修ちゃん・・・?」
「そうだよ。やっと気づいたか・・・」修一の顔からは自然と笑顔がこぼれていた。
「でも、なんでこんなところに・・・」
「それはこっちの台詞だよ。お前が何で新宿なんてとこにいるんだ?」
「それは・・・」そういって里美は修一と別れた後のことについて話した。
里美が話したことは、修一と別れてすぐに両親にお見合いをさせられてその人と結婚に至り、すぐに子供を授かったということと、現在はその人の住んでいる恵比寿のマンションで住んでいる、ということだった。ちなみに今の夫は会計事務所に勤務しており、なかなか裕福な生活をしているらしい。
「いい人とめぐり会えたんだな」修一は言った。
「うん・・・。修ちゃんは?」
「俺はそんな余裕ないよ。貯金だって全然無いしな」
「そうなんだ・・・。今は運転手さんやってるの?」
「そうだよ。上にがみがみ言われないから前の仕事よりストレスは少ないよ」そう言って修一は笑ってみせた。
「そっか。あのさ、修ちゃん怒ってる・・・?」そういって里美は上目遣いで修一の方を見てきた。後ろを見ると里美の子供はいつのまにか眠ってしまっていた。
「怒ってるって、なにを?」なんのことだが修一には思い当たらなかった。
「だから、リストラされて、すぐ別れたことよ」言い出しにくいことだったのか、里美は俯いてしまっていた。
「ああ、そんなことか」 たしかに当時は結婚を目前に控えたところまでの関係だったのに、職を失う途端に別れを切り出されたことには驚いたし、なによりその程度の愛だったのか、と悔しかった。だがあとから考えてみると、三十路も現実に迫ってきて、わざわざ甲斐性のない男のもとにいるなんて、女として合理的ではないだろう。そう考えると自然だし、納得はできた。しかし別れるときに里美はそういった理由をなにも一つ言ってくれなかった。結局なんで別れようとしたのかがわからず終いになってしまっており、それが修一は唯一の気がかりではあった。
「最初は辛かったけど里美が選んだ道だし、今は一人で楽しくやってるよ」今楽しいことなどろくにないが、里美を心配させないために修一は嘘を利かせた。
「そう、よかった」そういって里美は微笑んだ。彼女が時折見せる屈託ない笑顔に何度も救われていたことを修一は思い出した。当時の想いがよみがえりそうになるのを修一は必死でこらえた。もう里美には夫も子供もいる。
「ところでさ、聞きにくいことなんだけど」そういって修一はミラーごしに里美を見た。彼女は少し身構えたようにも見えた。
「な、なに?」
「別れるときにさ、なんで理由を話してくれなかったんだ?」ずっと修一が考えてきたことである。修一の甲斐性以外になにか理由がある気がした。
「それは・・・」
「言いにくいことならいいんだ」さすがに簡単に言い出せることではないことは修一はわかっていた。
「あのね、あのときお父さんの会社がつぶれかけてたの」里美が言った。
「えっ、どういうことだい・・・」修一は驚いていた。里美の親の会社といえば業界でも中堅の証券会社であったはずだ。里美の父親はその会社の取締役であったし、その会社が他の大手会社と合併したというニュースを何年か前に見た。今でもその会社は残っている。
「あのね、お父さんの会社不景気でけっこう前から危なかったの。そのときからお見合いの話は私にしてきてて、前合併した会社の社長の息子さんと結婚すれば、会社の傾いてることに融通が利くから頼むって話をしてきてね。最初は修ちゃんがいるからって断ってたんだけど、リーマンショックで修ちゃんが仕事をなくしたって知ると私に早く別れてその人とお見合いしなさいって言われたし、お父さんの会社も相当危なかったらしいの。お父さんのこととか考えると断れなくて結局そのひとと結婚したの。ごめんなさい・・・」
そういうことだったのか。親の事情があったのか。親の事情があったならいたしかたない部分もある。しかし、里美の親の会社がそんな状況だったなんて修一は知りもしなかった。
「全然知らなかったよ。いや、驚いた。じゃあ俺が仕事を無くしたから去っていったわけではないんだな・・・?」
「そんなの当たり前じゃない。私は修ちゃんとは結婚まで考えてたのよ。辛いけど仕方なかったの・・・」
「そうだったのか」修一は里美は甲斐性がないから去っていたのだと思っていたが、実は違っていたのがわかり、なんとも言えない気持ちになっていた。里美に嫌われたわけではないことがわかりほっとしたのだ、と修一は解釈した。
「そうか、よかったよ。嫌われたからだと思ってたよ」そう言いながら修一は笑った。里美とこれから一緒になれないのは悔しいが、心の中でもやもやしていたものが取れて清清しい気持ちだった。
「そんなわけないじゃない。私は仕事がなくても修ちゃんとは一緒にいるつもりだったもの」里美が微笑みながら言った。昔の二人に戻れた気がして、修一は嬉しかった。
すると里美の子供が泣きだした。いつから起きていたのだろうか。会話を聞かれていたと思うと修一は不安になった。
「あら、どうしたの?」里美が子供に聞いた。すると子供は里美にヒーロー物の人形と思われるものを差し出した。人形は下半身と上半身を斜めに綺麗に別れていた。
「壊れてちゃったの? もう、ポケットに入れておくからよ」
「レッドが壊れちゃったよう」そういって子供が泣きだした。
「もう、我慢しなさい」里美がなだめるが子供は泣き止まない。
「じゃあどうしたいの」里美が言うと子供は前を指差した。指差した方向には例の靴ひもがある。
えっ、と修一は驚いた。その靴ひもは今日一日守り通さなければならない。
「あれで縛って直してほしいってこと?」子供はうん、とうなずいた。
「お家で接着剤で直してあげるから」里美は言うが子供は首を振った。
「ほんと仕方ない子ね。じゃあ修ちゃん悪いけどそれくれない?」里美が言ってきた。しかし修一はやすやすと渡す気はなかった。
「いや、それは・・・」修一がそう言うと里美は腑に落ちない顔をした。
「えっ、いいじゃない。ただのゴミでしょ?」
「うん、それはそうなんだが・・・」
(これは今日一日持つこと決めたんだよな。あの女の言うことを真に受けるわけじゃないが、簡単に渡してはいけないと思うし・・・。でもあの女『どうしようもないときにはだれかと交換してもいい』とも言ってたな。これは”どうしようもないとき”なのか? どうしよう。断固として拒否することもできるがそれは里美に悪いしなあ。うーん・・・)
「お願い、この子いつもこの人形持ってないと落ち着かなくて泣き出すのよ」そういって里美は両手を合わせて頼んできた。
「うん、しょうがない。わかったよ」そういって修一は例の靴ひもを手に取り、里美に渡した。
「ありがとう。助かったわ」そう言って里美はその靴ひもで人形をつなぎ合わせ直し、子供に渡した。それを受け取ると子供はすっかり機嫌を直し、笑っていた。
「いやいいんだ」本当に渡してしまってよかったのか? あの女の言うことを聞かなければ末恐ろしいことでも起きそうだし。まあ仕方ないか。修一はそう思うことにした。
「じゃあお礼と言ってはなんだけど・・・」そういって里美はボックスティッシュを一つ渡してきた。修一が驚いていると、修ちゃんこの時期鼻水ひどかったでしょ、と里美は言ってきた。
たしかに昔はこの季節は花粉症で鼻水がひどかった。しかし修一は去年専門の病院で花粉症を直していた。人は時が経てば変わっていくのに、会っていないとなかなかそういうことに気づかないんだな。そう思いながら修一は、ありがとう、と答えていた。
「いえいえ。あっ、ここよここ!」そう言って里美は大きな建物を指差した。なるほど、なかなか立派な病院である。日本でも有数な最先端の技術を取り入れている病院らしい。
「ああ、ごめん通り過ぎそうになった。じゃあ2160円ちょうだい」
「はい」里美はちょうどのお代を渡してきた。そして修一はドアを開けた。
「じゃあ、大変かもしれないけど、これからがんばってね」そう言って里美は降りていこうとした。その手はしっかりと子供の手を握っていた。
「ちょっと待って!」修一は声を出していた。里美は両足を外に出した状態で振り向いた。
「なんで最初俺のことを気づかなかったんだ?」修一は言った。最初に目が合ったときになんで修一だと気づかなかったのか疑問だった。
「気づいてたわよ」そう聞くと修一はえっ、と驚いた。
「でも君は目の色一つ変えずにいたじゃないか」
「あら忘れたの? 私修ちゃんと付き合ってたとき女優目指してたじゃないの」
気づかないわけないでしょ、そう言って里美は完全に降りて去っていった。