仕事
車は首都高を走っていた。もう三十分もすれば新宿に着く。いつも修一は新宿駅東口付近のタクシー待合所から仕事を始めていた。そこ一帯は大学生の頃からよく遊んでいた馴染みのある場所であったが、タクシー運転手に就いてからのほうがたくさん知らないところを発見できたし、学生のころには知らなかった都会の恐ろしい一面もわかるようになった。そういう面ではこの仕事にやりがいを感じている。しかし、多くの乗客が乗り降りするこの仕事では、たくさんのいろんな種類の人間と出会えるということこそが、修一にとって一番の刺激となり、なによりも自分を成長させてくれるものだと思っていた。成功しているひと、失敗しているひと。お金があるひと、ないひと。今が楽しいひと、つらいひと。そんなひとたちと車内でかわす他愛もない世間話が修一に新しい価値観を呈示し、これからの人生に対する見方も大きく変えてくれた。この仕事を始めても最初はなかなか立ち直れなかった修一だが、いろいろなひとと出会うことによって徐々に新しい道に光が見えたのだった。
車が徐々にスピードを緩めていった。前ではおびただしい数の車が列をなしていた。少し渋滞が起こっているようだ。
「今日はどんなやつが乗ってくるかね」
そう言って修一はポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。そして取り出した煙草はそのままフロントガラスの前に置いた。となりには薄汚れた白い靴ひもがあった。
「まじかあ、参ったよ」
そうつぶやきながら修一は、ずぶ濡れの身体をバスタオルで拭き始めた。手などが汚れていたため、シャワーを浴びて洗い流していたのだ。汚れたスーツは休日にクリーニングに出すために、一旦紙袋の中にしまっておいた。
身体を拭き終わると、修一はあらかじめ用意していた予備のスーツを着た。そして着替え終わると仕事に持っていく貴重品類を取るためリビングに向かった。
そうしてリビングに着くと修一はあることに気がついた。
「最初にさわったのって・・・これか」そうして修一はテーブルの上から靴紐をつかみ上げた。おそらく靴からちぎれたものだろう。長さこそ短いが、普段から目にしているスニーカーについている靴ひもと大差ないものだった。
(あの女の言ってることを守るならこれを一日中持っていることになるのか。しかしなんでこんなゴミみたいなのを? ほんとは守るのは家の鍵でよかったんじゃないか?)
それより疑問なのはさっきの階段だ。ちょっと見てみたら氷が融けていて滑りやすくなっていた。まあおそらく、ファーストフード店で買った飲み物からこぼれたのだろう。よくみると紙コップも捨てられていた。それに最近、夜中にアパートに住んでいる学生たちが、駐車場付近で騒いでいるのは住人の間で問題になっていたからな。間違いないだろう。ファーストフード店のゴミが敷地に落ちているのが、一番嫌だって大家さんも言ってたし。夜は冷え込んでいたため、朝方太陽が出てきてようやくその氷が融け始めたといったところか。
だが、今日に限ってそんな状況ができているなんて出来すぎだろ。いかにもこの意味ありげな靴ひもをつかむよう仕向けられたとしか思えない)
そう考えていると修一の頭にはあの女の笑顔が浮かんできた。いまになってみると、それはなにを考えているのかわからない、不可思議に感じるものだった。
(なにかありそうだしな。今日一日ゴミくらい持っててもいいんじゃないか。持ち運びに困るものではないし。まああの女を見つけたら問いただしてみよう。もしなんもなかったらいい笑い話が一つできたようなもんだ)
そうして修一は手に持っている靴ひもと、いつも持っていく必需品類をポケットに入れて家を出た。そして車に乗り込むと新宿へ向かったのだった。
時計を見るともうすぐ十時を迎えるというところだった。修一はすでにいつもの新宿の待合所に着いていた。しかしそこから一時間近く客は乗って来なかった。考えてみれば朝からタクシーを使うひとは少数派であるし、しかたないだろう。それにこういう待合所は順番に並んでおいて、自分の番になってからじゃないとお客さんに乗ってもらえないのだ。
それから少しすると前の車は続々と客を乗せ、いよいよ修一の番となった。あとは自分の客が来るのを待つだけであった。
すると数分で客は来た。手をあげて乗りたい意思を示してきたので、乗車席のドアを開けた。横目で見てみると女性と子供の母子であった。この時間は取引先に急ぐサラリーマンの客が多いのでめずらしいと思った。乗り込んで座ったのを確認すると修一は女性に行き先を聞いた。
「どちらまでですか?」
そうして修一は後ろに振り向くが、女性を見るや否や凍りついて固まってしまった。
乗り込んできた女性は数年前に修一の元を去っていた元恋人であった―――。