七章 『ローリンガール』
「ねー、響ちゃんはさー、どうして今日、学校をお休みしたのー?」
土曜日という事で、今日は授業は三限目までしかない。昼前に終わったので、そそくさと帰り支度をしていると、クラスメイトの猫宮心音が、そう尋ねて来た。
「ああ、何かバリカンを買いに行くとか、だとさ。谷嶋がそう言ってたぞ」
――そうなのだ。昨日の事を謝罪しようと画策していた俺だったのだが、今日、日比野は学校を欠席した。朝のうちに谷嶋原先生に訊いてみたら、「『バリカンを買いに行かなくてはいけないから欠席させて頂きます』って連絡が入って来てたぞ」と教えてくれた。先生は新手の冗談だと思っていたらしく、笑っていたが、俺は自分の顔が引きつるのを、止める事が出来なかった。
「そっかー、バリカンかー。それじゃーしかたないねー」
第三者が聞いたら全く理解不能であろう欠席理由であるにも関わらず、猫宮は納得したように頷く。何故か彼女の周囲には、花のようなものが空中を、漂っている気がしてならない。
猫宮心音。
日比野ともう一人のクラスメイト飛田飛鳥と一緒に、いつも三人でつるんでいる友人だ。顔や体つきなど、全体的に造形が小さく、所謂『中学生料金、下手をしたら小学生料金でも通用するんじゃないか微妙な女子高生』である。「お人形さんみたい」という感想は、日比野のもの。「ああいう子だって守備範囲だぜ。保護欲をくすぐるんだよ」とは氷室の談である。因みに俺は彼女が歩くときに、いつでも脳内で≪テコテコ≫とか≪トテトテ≫といった効果音を勝手に追加しているし、立ち止まっているときは≪ポワポワ≫と付け足させてもらっている。と、いうかそんなイメージを俺に毎回抱かせるという事は、もしかしたら本当に、そんな音が出ているのかもしれない。
「待って、心音。なんでアンタはそれで納得している?」
と、後ろからまた別の声が聞こえる。確認するまでも無く、飛田飛鳥のものだろう。しかし、万が一という事があるので、振り返る。飛田だった。良かった。
「万が一って、何だよ。誰かが声帯模写してたとでもいうのかよ」
俺の心を読んだように言葉を掛ける飛田。健康的に日に焼けた肌が眩しい、陸上少女だ。『胸が無い』という理由で氷室のストライクゾーンからは外れてはいるらしいが、目鼻立ちがではっきりとした顔つきは、男女共に人気がある。
タイプが全く違う三人の仲が良いのは、少し不思議だが、人付き合いは、案外、そういった方が上手くいくのかもしれない。
「飛騨は読心術者か何かなのか。俺の心を読むなよ」
「アンタが、わかりやす過ぎるんだよ」
日比野にも似たようなことを言われた気がする。えっ、自覚してなかったけど、本当にわかりやすいのか、俺の心。日比野が異能の観察眼で、見抜いたとか、そういう事だと思っていたのに。
「なぁ、俺ってそんなにわかりやすい?」
猫宮に問いかける。彼女は俺の質問にしばらく考えた後、答えた。
「えっとー、そんなことないよー。別に、普通だと思うけどー」
その答えに安心する、俺。しかし猫宮はこう見えて、異様に鋭い所があるからな。『普通』というのは『普通にわかりやすい』という意味かもしれない。
「おい、話が逸れてるぞ。バリカンってなんだよ。それに何で心音はそんな理由で納得できるんだ」
飛田が話題の軌道修正を図る。
その質問にも猫宮は、同じように少し考える素振りを見せた後、口を開いた。
「えっとねー、飛鳥ちゃん。私たち、今、ヤジ先生に、『響ちゃんは今日、どうしたんですかー』って訊きに行こーとしてたじゃない」
「そうだな。アイツの事だから遅刻かもしれないと思ったけど、結局最後まで来なかったからね」
「でもねー。そんな私たちよりも、司くんは早い段階で、ヤジ先生に訊いていたって事になるよねー」
「うん、それで?」
「だから私は、司くんには『響ちゃんが休むという疑惑』か『響ちゃんに何らかの用事』があったと思ったのねー」
「なるほど」
「そしたら響ちゃんは『バリカンを買いに行く』っていう良くわからない理由でお休みしてたらしい。――でもね、私は響ちゃんが本当に『良くわからない理由』でお休みするとは思えないの。いや、そんな『理解出来無い理由』を学校に伝えるとは思えないっていうのが正確かな。第三者に理解出来ない理由なら、適当に嘘をつくなり、あるいは黙ってサボっちゃえばいいわけだし。つまりね、響ちゃんは他の人たちには解からないけど『誰か、この意味を知っている人間』が聞いたのなら理解できる、≪メッセージ≫のようなものとして、そんな理由を学校に伝えたのかなって。そして当然このメッセージは『ヤジ先生に響ちゃんの欠席理由を訊く人間』に向けて宛てられた物だよね。そしてその人は普通、私と飛鳥ちゃんを除けば、司くんしかいない。――――そして最初に言った通り、司くんには『響ちゃんに何らかの用事』があったらしい」
将棋やチェスで、一手ずつ詰まされる、感覚。
刑事コロンボ、エルキュール・ポワロ、古畑任三郎。彼らに追い詰められていく、犯人の気持ちが痛いほど理解出来る。まさか俺のあんな一言で、ここまで正確に、真実に迫れる、なんて。『異様に鋭い所がある』など、とても彼女を舐めていた表現だろう。『異常に鋭利』なのだ。何時の間にか普段伸ばしている語尾も、短くなっていた。
「だから、私には『バリカンを買いに行く』なんて理由は皆目見当もつかないけど、何となく『司くん絡みの理由』なんだなって、そう、思ったの」
そう言って自分の仮説を話し終える猫宮。彼女の鋭い推察に呆然とする、飛田。
不味い。飛田が今の話を完全に理解したら、『その理由』を俺が訊かれる事は間違いない。昨日セクハラ紛いの発言を日比野にした事を知られたら、どんな目にあうか、想像に難くない。
だからといって二人の――――特に猫宮の追求を、俺が躱し切れるなんて、到底思えない。下手したら、彼女はこうなる事を見越して谷嶋原先生よりも先に、俺に理由を訊いてきた可能性だってあるのだ。
よって、俺は、
「そういえば、猫宮。最近発見したんだが、卵掛けご飯に天カスを乗せて、麺つゆを掛けるとな、とても美味い」
「えー、なにそれー。知らなかったー。バターに醤油が最強だと思ってたよー」
「うむ。何せ俺も最近までバター醤油派だったんだがな。この前何かの雑誌に載ってたので試してみたのだ。しかし、これがまた美味い。天カスのサクサクとした食感と、卵ご飯の滑らかさ。麺つゆの一風違う風味が絶妙なハーモニーを奏でるんだ」
「それはとっても美味しそうなんだよ。是非とも今度試してみるよー」
「ってオイっ、時田っ。何あからさまに話題を逸らしてんだよっ。それに心音も乗るなよっ。そんなミエミエの誘導にっ」
飛田が復活して、割って入る。
「そーだねー。卵掛けご飯は大抵朝食べるけど、朝から天カスを用意するのは、ちょっと大変そうだねー」
「そうじゃないだろっ。響が休んだ理由だよっ」
飛田は律儀に猫宮に突っ込むと、こちらをじろりと睨む。
「っつーか、今度のはアホの私でも、解かるぞ。後ろめたい『理由』なんだろ」
む。流石に話題転換が露骨過ぎたようだ。しかし飛田は自分で言うほど、馬鹿じゃないだろ。
しかし、どうしよう。
このままではセクハラ発言まで辿りつかれるのは、時間の問題だろう。そう焦っている俺に、この状況を打破し得る、救世主の声が届く。
「おーい。つーかさー」
氷室幸一だった。
助かった。お前がナイスタイミングで声かけてくれて、本当に助かった。
「おおっと氷室が来たから俺は名残惜しいけどもう行くことにするねいやぁそれじゃあまた月曜日にね」
句読点の一切無い滑らかな誤魔化しをして、俺は二人の前から逃げるように、去る。というか、逃げ出す。二人とも何か言いたそうな顔をしていたが、気にしない、気にしない。
教室の前方の扉に、凭れ掛かっている氷室。そういったちょっとした動作もいちいち絵になっている。
俺が近くまで行くと、片手を挙げて、問いかけてきた。
「来夢ちゃん、もうカラオケに誘ったかい」
俺はてっきり冗談だと思っていたが、彼にとって朝の会話はどうやら本気だったらしく、一難去ってまた一難といった状況になっていた。
氷室には俺を助けてくれた恩もあるので、まぁ、形だけでも誘わねばなるまい。
小鳥遊さんは、いつも通り、窓際の席、一番後ろで、本を読んでいた。
土曜は昼食の時間が無いからだろう。本を読みながら、パンを頬張っている。まだ帰っていなかったのは、俺にとって幸運なのか、あるいは不運なのか。
それにしても綺麗だった。腰の辺りまで伸びた、黒く長い髪と、それと対照的な雪のような白い肌。細められた目は手元の本から動かされる事は無いが、長い睫毛が特徴的だ。すっと通った鼻に、薄くグロスを塗ったのだろう唇が、どこと無く官能的な雰囲気を醸している。けばけばしい化粧をしている訳ではなく、ナチュラルメイク、というのだろうか――も彼女の魅力を引き立てる要因の気がした。
朝の会話もあってか、俺の目線は自然に下へと向けられる。成る程、大きい。氷室が夢中になるのも、解かる。
「小鳥遊さん」
突っ立っている訳にもいかないので、俺は観察をそこで中断して、声を掛ける事にした。メープルメロンパンを咥えながら、彼女はこちらを見やる。
「パンはあげませんよ」
無視されるかと思ったが、返答を返してくれた。しかも、俺には全く記憶の無い意地汚さに釘を刺されて(変な日本語だ)。大体、もう最後のひとつで、今彼女が食べているパンしか残っていない。なんて失礼なんだ。彼女が食べかけのパンなんて俺が欲しいと思うのだろうか。
――欲しくないと胸を張って言えないのが、男の哀しい性なんだろうなぁ。
「欲しくないです」
「物を食べながら本を読むことは行儀悪いとは知っていますが、止める気はありません」
否定すると、また彼女が会話を先回りして、返答する。返答したら、文庫本に目を落とした。なんとなく、そこから、彼女が早く会話を終わらせたがっているのを、感じる。よって俺はさっさと用件を切り出すことにした。
「カラオケに、行かないかい」
再び彼女は顔を上げる。
そして、きっぱりと、言った。
「お断りします」
ですよね。
振られた事ですし、帰るとしますか。
じゃあ、と言って振り返る、俺の背中に、彼女は問いかける。
「ところで、誰の差し金ですか」
差し金、とは古めかしい言葉だな、と感じた。小鳥遊さんがそこに考えが至ったのは鋭いが、氷室の名誉のためにも有耶無耶にしておこう。
「いや、俺の独断だけど。小鳥遊さんとの仲を深めたいなー、と思った純粋なデートのお誘いだよ」
「私の考えだと、あの氷室、とかいう方ではないかと思うのですが、違いますか」
どうして俺の周囲には、鋭い方が多いのでしょうか。
相対的に考えると、俺が判りやすいという事になる。なんてこったい。
「黙っている所を見ると、そのようですね」
「……そうです。その通りです」
ごめん、氷室、俺じゃあお前を、守れなかったよ。
俺が彼の名誉を守れなかったことを、深く反省していると(反語的表現)、小鳥遊さんは、「そうですか、彼が――」と、何事かを呟き、俺に顔を向け、再び質問をしてきた。
「つかぬ事を伺いますが、私がその誘いに乗った場合、貴方はどうするおつもりでしたか」
「――今月は財布がピンチだし、君の承諾の如何に関わらず、参加しない予定だったけど」
古風な言い回しをする彼女につられ、若干言葉遣いが古くなりながらも、俺は返答する。
「そうですか。つまり彼は席が隣と言う理由だけで、あなたに私を誘うよう、依頼したわけですね」
彼女の淡々とした言葉に、すこしたじろぐ。まずい、このままでは氷室に対する彼女の好感度が、だださがりになってしまう。
「いや、ほら……でもあれだよ? あいつだって悪い奴じゃないし、うん、多分。……きっと。……おそらく」
しどろもどろになりながら、氷室の肩を持つ俺。何て健気なんだ。
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「では、あなたの知っている彼の良いところを、具体的に挙げていってくれませんか」
「なにが悲しくてそんなバカップルみたいなことをしなければならないのでしょうか」
俺の抗議を黙殺する小鳥遊さん。その顔は、無表情なので、まるで読めない。くそ、こうなったら百個ぐらい挙げて、氷室の名誉を挽回しなければならないだろう。
「そうだな。まず、顔だろ」
教師が生徒に教えるように、人差し指を立てる。彼女はゆっくりと頷いた。
「次に……」
二つ目。
「…………」
「…………」
なんということだ。早くもネタが尽きてしまった。いくらなんでも早すぎるだろう。
だがしかし、言い訳をさせてもられば、彼のいいところが顔だけしかない、などというわけではない。ただ単に、「女性視点から見て」彼のいいところを探すのがとても難しいだけなのだ。そう、例えば性知識の深さなんていうものは、同性同士の猥談では非常に盛り上がる利点なのだが、今ここで言うのは不適切極まりない。もてる、というのも、あんまりいい印象を与えない気がするし。
こうなったら、表面上の無難なところを挙げ連ねていくしかないだろう。
「成績、とか」
小鳥遊さんが頷く。
「運動神経、とか」
こっくり。
「…………」
「…………」
三つ。そこで詰んだ。
沈黙が、俺と彼女を包み込む。小鳥遊さんは、しばらく黙り込んだ俺を、何も言わず、じっと見つめていた。
「……ごめん」
さらに幾許かの後、俺の唇から搾り出された謝罪の言葉は、一体誰に向けられたものだったのだろうか。