四章 『結ンデ開イテ羅刹ト骸』
くたびれた身体を引きずるようにして、家に帰る。団地の外れに設けられている公園――そのすぐ向かいにある我が家だ。公園の反対側には沼があり、桜並木が特に目を引く。
もうそろそろ完全に日が落ちようというのに、家の電気が点いていなかった。
(あれ? ――峰子さんはもう行っちゃったのかな?)
門を潜る。庭付き一戸建ての、我が家でも特に自慢だった庭は、長かった冬を終えて、新しい季節に向ける、生命の息吹のようなモノを俺に感じさせた。
園芸が趣味だった両親が、少し都心部から離れようとも決して譲ろうとしなかった、庭。広葉樹がところせましと植えられている様は、まるで小さな森のように感じられ――両親のこだわりがうかがえた。
「冬の間はほっといて大丈夫だったけど、また、いろいろ手入れしなきゃ、か」
意識せずに、そんな言葉が唇からこぼれる。
――自分で言うのもおかしな話だが、最近独り言が増えた気がする。
もう折り合いがついたと思ったのに、やはり俺の中にも、まだ、残るものがあるのだろうか。
いや、あるのだ、確実に。ただ見ない振りをしているだけで。
俺は首を振って考えを中断する。なんら生産性の無い思考だったからだ。今はやるべき事が他に、ある。峰子さんが行ってしまったなら、今、家には恵理香一人だし、夕飯だって作らねばならない。
今は――少なくとも今は、感傷には浸るべきでは、ない。
「ただいまー」
間延びした声で帰宅を知らせる。
次の瞬間耳に入る廊下を走る音。
黒い影のようなものが俺に体当たりを食らわせる。本日二度目の転倒。
倒れた拍子に後頭部を扉にぶつけてしまい、鈍い音と共に、目の前で星が、散る。
暗い視界の中で襲撃者を確認する。ぼさぼさに伸びきった長い黒髪。一時期に比べればまだマシになったものの、依然痩せぎすな身体。小さめのサイズのはずなのに、丈のあまる黒いワンピース。真っ当に人生を歩めれば、きっと美人になれるはずだったのに、頬が痩け、目の下に深い隈ができ――それでもまだ、どこか危なげな可憐さを残す顔。瞳を涙で潤ませ、俺を見据える表情。
予想通り、その正体は俺の妹――時田恵理香だった。
「 」
恵理香が声にならない声で、何かを俺に訴える。それと同時に大きく頭を振る。両手で俺の服を固く握り締める。
その拳が血で汚れていたこと、また暗闇に目が慣れ、家の中の"惨状"が視界に入るつれ、俺は気づく。いや、本当は気づいて、いた。認めたくないだけで。
フラッシュバック―――また、起こってしまった。最近は安定してきたから大丈夫、だなんて思ってはいけなかった。一人にするべきではなかったのだ。普段より早く仕事に行ってしまった峰子さんを思わず心の中で呪ってしまいそうだったが、見当違いの八つ当たりだという考えに至り、中断する。――彼女はもう、大人だ。本来より早く仕事の呼び出しがあれば、出向かなければならない。
……そもそも俺が普段通りに帰っていれば、それで良かったのだ。日比野との甘い時間に現をぬかして、帰るのが遅れたのは、どこのどいつだ。
「 」
恵理香が、叫ぶ。声は出ない――出せない。でも、俺には聞こえる。理解できる。彼女が何を言っているのか。何を訴えているのか。
「大丈夫だ、大丈夫。謝らなくていい」
彼女を抱きしめ、安心させるように、言い聞かせる。
「 」
謝罪の言葉を繰り返す。泣きながら。無音で。しかし激しく。繰り返しながら、涙を流す。
「大丈夫。俺は恵理香を見捨てたり、しない。居なくなって欲しいなんて、言わない」
胸に襲来する罪悪感。安心させようと俺が紡ぐ言葉の、薄っぺらさ、白々しさ。
俺は何を言っているのだろうか。形だけを取り繕って、自分の事を棚に上げている。恵理香を赦すような発言をするという事は、彼女を安心させると同時に、この惨状の全ての責任が彼女にある事を認めてしまっている。
過ちを犯したのは自分なのに、彼女のせいにしている。
「大丈夫、お前は悪くない、恵理香は少しも、悪く、ない」
その言葉は真実。恵理香には一片の責任も無い。悪いのは油断をしてしまった、俺。
「 」
責任は俺にあるのに、彼女は俺に赦しを請うのを止めない。
俺はそれを受け止める。きつく抱きしめる事で安心させる。彼女を軽薄な科白で彼女を安心させ、その科白は同時に自分の無実を声高に叫ぶ。俺なのに。責められるべきは俺なのに。
「 」
「大丈夫、分ってる、傍に居る。嫌いになったりなんて、しないよ」
反吐が出る。全くもって反吐が出る話だった。
――そして、俺達は抱きしめあったまま、時間だけが過ぎていった。
暴れ疲れたのか、泣きつかれたのか、俺の腕の中で眠ってしまった恵理香を抱きながら、居間へと足を運ぶ。
本当は恵理香の部屋に運びたかったが、後始末の掃除をする事になるだろうから、恵理香が起きた場合に備えて、自分の近くで寝かせたほうがいいだろうと思ったのだ。
居間の方も燦々たる有様だった。ガラスは砕け、カーテンは破れ、戸棚は倒され、椅子は投げられ、原型を保っている物がほとんど存在しなかった。
と、その居間の中央、辛うじてその形をとどめているテーブルに、突っ伏して、
富士、峰子さん、が、
――死んで、いた。
「ああ、お帰りなさい」
生きていた。顔をこちらに向け、挨拶をする峰子さん。
しかし、生ける屍、と言ってもいい位に、彼女の顔つきには生気が無かった。
三十五歳という年齢ながら、未だにフェロモンたっぷりのいつもの美貌は陰りをひそめ、年相応の哀愁に包まれていた。また、恵理香に引っかかれたのだろう生傷があちこちに見える。商売柄か派手目にコーディネイトされた服も、所々破れている。ブロンド色でいつもは軽くウェーブされた髪も、乱れていた。
……そして何より瞳に、光が、無かった。
「ただいま」
取り敢えず挨拶をする。恵理香をソファーに横たえると、彼女の正面の椅子に座る。
台風が直接部屋を通ったかのように乱雑な部屋だったが、その中でも、峰子さんが、一番、危うそうに、見えたのだ。
彼女は俺が座ったのに気づいたのか、一回、深い溜息をついたあと、一言だけ、言った。
「……わかってた、つもり、だったんだけどなぁ」
再び、テーブルに突っ伏す峰子さん。その言葉で、俺は、大体の事を理解した。
ここ半年以上、恵理香の"発作"は起きなかった。峰子さんは彼女の容態が次第に良くなっている、と思ったのだろうし、俺だってそう感じていた。
しかし、今日、何が原因かは分らないが、発作が、起きてしまった。
暴れだす恵理香。峰子さんは必死に止めようとしたのだろう。しかし、いくら止めようとしても、止まらない。止まるものでは、無い。
恵理香の発作は彼女が信頼してる人間――今は俺だけだが――が止めようとすると、多少、収まる傾向がある。――骨は折れるが。
ところが彼女の場合は、どんなに必死になっても、大人しくならなかったのだろう。つまり、それは、『恵理香が峰子さんを、信じていなかった事』を、意味する。
――心を開いたかの様に思っていたが、それは峰子さんの思い込みだった。
その事実が、多分殴られた事よりも、蹴飛ばされた事よりも、峰子さんにダメージを与えたのだろう。
だから、押さえつけるのを止めた。結果、恵理香は破壊の限りを尽くした。
……赤い目をしていたから、峰子さんは、泣いていたのかもしれない。
「なんだったんだろうね」
顔を下に向けた状態で、峰子さんが呻く。主語も、目的語も無い疑問文。だけど俺は答える。その質問の意味を、意図を、推測して。
「――俺は」
彼女に受けた恩を、忘れるわけにはいかないから。
「……俺は、感謝しています。峰子さんに」
彼女が顔をこちらに向ける。俺は、目をまっすぐ見て、言葉を続ける。
「俺達が路頭に迷っていないのは、峰子さんのおかげですし、それに、一緒に暮らしてくれて、とても、嬉しい、です」
彼女は動かない。それでも俺は言葉を続ける。それしか、出来ないから。
「恵理香も、貴女のことは、良く、思ってます。兄妹だから、分るんです」
字面だけなら薄い、何の根拠も無い科白だけど、俺は、紡ぐ。伝わって欲しいから。この、気持ちが。本当に、彼女の存在を、有り難く思っているから。
彼女はそんな俺から目を外すと、ふふふっと鈴の音のような声で笑い、
「――ありがと」
そう、言った。
「ごめんね、気を使わせちゃって」
先ほどの暗い表情から一転、少女のような無垢な笑顔で俺に語りかけてくる峰子さん。
「十五も年下の男の子に気を使わせるなんて、オトナの女性失格だね」
「……あれ? 十八じゃありませんでしたっけ」
「うるせー」
冗談を飛ばせる程度には回復してくれたらしい。
彼女は両手を打ち合わせ、軽い音を響かせると、
「よし、じゃあ今日中に片付けちゃおっか」
立ち上がってそう言った。
「峰子さん、仕事はどうするんですか」
当然の疑問を投げかける。
「こんな格好で客前に立てっかーっ。……それにもう遅刻だよ、遅刻。店長に休みの電話は入れといたから、そこは心配しなくてもオッケーだよん」
流石峰子さん。しっかりしていらっしゃる。
立ち上がって片づけを開始しようとした彼女のお腹から、空腹を知らせる音が鳴った。それも、かなり大きい。
「あのねー、つーちゃーん。お腹すいたー」
「何ですかその新種のあだ名。今までそんな風に呼んでなかったでしょう」
俺は台所の方に目を向ける。無事だろうか。
「台所、使えますか?」
「あ、無理無理。五徳とか、宙を舞ってたもん」
シュールな画だな、それ。
「じゃあピザでも取りま「オニオンガーリックピザねっ、もちろん生ハム添えでっ」
俺の提案に被せるように、大声で峰子さんが注文を叫ぶ。
了承して電話へと向かう俺に、彼女がふと、問いかけてきた。
「……ねぇ、つーちゃん」
「気に入りましたね、その渾名」
「――私って、卑怯な女、なのかな」
その質問は本来ならもう少し、ロマンチックな場でされるべきであろうが、もちろん今、この場に限っては、そんな意味などではないと理解できた。
「――そうですね、峰子さんが卑怯かどうかは、正直良く分りませんけど」
そこで一旦言葉を切り、彼女と向かい合う。
「少なくとも、その質問は、とても卑怯ですね。――そんな風に訊かれたら、『違う』って言うしか、ないじゃありませんか」
俺のその答えに対し、彼女は満足げに、微笑んでいた。