十八章『欲望の主柱は絆』
意外とも思えるが、鬼一さんが言うには、隔離された【結界】のなかには、このコテージのほかにも建物があるらしい。
「昨日、一昨日はあそこの探索についやしたんだ。でも【核】はみつからなかった。だから、周囲を探すことにした」
霧の立ち込めるなか、先頭を歩く彼はそう言った。彼のうしろに私たちは続いている。私たちが進んだ、「いつのまにか戻ってきてしまう道」とは逆の方角にあるらしいのだ。
「疑問に思ったんですけど」来夢が質問する。「その核というのは、見ればわかるものなんですか?」
鬼一さんは首を振った。「いや、君たちにはまずわからないだろうし、俺も直接触らなきゃ判別できない」
それは、難航しそうだなと思った。彼の話によれば【核】というのはモノを選ばない。消しゴムだろうが文庫本だろうがスマートフォンだろうが、なんでもいいらしいのだ。にもかかわらずいちいち触らなくてはわからないとなると、かなりの作業量になるはずだ。
「だから、さ」彼は歩きながら首をこちらにむける。「君たちは来ても特に意味がないから、あそこで待っててもらってもよかったんだが」
たしかに核を探すという作業において私たちにできることは何もない。
「いや。とはいえこの――結界の全貌についてはある程度私たちも把握しておきたい、ですし。それに、鬼一さん」私は周囲をぐるりと見渡す。濃い霧は、一向に晴れる兆しを見せない。「こんな視界だと、まだほかにも建物があるかもしれないじゃないですか」
苦手だが、敬語に切り替える。協力することになった以上、年上でもある彼に対してタメ口というのは気が引けた。
「まあ、その可能性は否定できないが」
「そういえば、この霧とやらもその、魔術的なものなんですか?」
「多分な。というよりも、おそらくこれがキモなんじゃないかと思ってる」
「というと?」
「この霧が、方向感覚に働きかけておかしくしているんじゃないかってことだ」
「つまり、この霧が消えれば外にでられると?」
「あくまで憶測だが」
午前に彼と遭遇した橋を渡る。そのまま五分と歩かないうちに、ぼんやりとした建造物の影が輪郭をあらわした。近づいていくと、しだいにその詳細が把握できるようになる。
それは、二階建てではあるが、私たちが今までいたコテージとは明らかに異なっていた。つまり、方向感覚の狂いによってふたたび戻されたというわけではないようだ。木造のウッドハウスだが、装飾はほとんどなく、すっきりとしている。テラスの類は設置されていないし、窓も少ない。ずいぶんと殺風景だな、と思った。
「ここは、倉庫だ」
そう言って鬼一さんは扉を開ける。その一部が妙に焦げているのが気になった。彼に訊くと、「南京錠がかかっていたから、細い部分を溶かして切った」と答えてくれた。南京錠はいうまでもなく金属製だ。それを溶かすような炎を操れるのだろうか。いったいどれほどの温度があれば、溶かせるのか。鉄や鉛の融点なんてぱっとは出てこないが、相当高いことは確かなはずだ。
窓が内側から木枠でふさがれており、太陽光が入ってこない。そのためただでさえ薄暗いのに倉庫の中はほとんどまっくらだった。入り口付近のスイッチを鬼一さんがいれると、何度か瞬いてから照明が点灯した。
「うわ……」
広がる光景に、思わず声が漏れる。そこにあったのは、まさに雑然といった概念を象徴したような光景だった。
目の前にそびえたつのは、段ボールでできた壁である。いくつもの段ボール箱が、積み上げられて壁を形成しているのだ。他にも工具箱やら芝刈り機やらよくわからない道具もちらほらとうかがえる。その壁の向こうには、また似たような山がそびえたっていた。
「奥までずっとこんなかんじだ。二階も、そうだった。むしろ、もっとひどい。ゴミ屋敷といわれても不思議じゃあないほどだ」
言葉を失う。これは、時間がかかるはずだ。さっきまでいたコテージは、不自然なまでに整理整頓が行き届いていたが、こちらはその真逆である。汚く、ひどく乱れている。まるでそれは、裏の顔――この歪な空間を体現しているようにも思えた。
鬼一さんは奥へと進んでいく。少し迷ったが、結局は彼に任せることにした。彼自身が「来ても意味がない」と断言した以上、素人の私たちには出る幕はないだろうからだ。それよりも、ここの全景を把握しておくほうが先だと思ったのだ。もし他にもこんな倉庫があったとしたら、捜索はさらに困難を極めるということになってしまう。
「行こう」
私たちは別の方向へと歩き出した。迷わない様に、まっすぐと進む。前とは違い道がないため、より慎重になる必要があると思われた。
来夢はその間もずっと、何かを考えているように黙っている。少し気になったので、尋ねてみることにした。
「あ、えっと……」彼女は少し戸惑うような素振りを見せつつ答える。「鬼一さんのこと、ですかね。実際、どれくらい信用すればいいのか、とか――実際、響さんは魔法なんて信じられますか?」
「うーん」難しい質問ではある。「まあ、正直どうなんだろうという気はするが……、でも実際に見せられたからなあ」
「それは、そうですけど」
「もしかしたら、私はすがりたいのかもしれないな」
「え?」
「正直、こんな状況になって、絶望していたのかもしれない。だから、鬼一さんが解決策――あるいは解決策らしきものを提示してくれたから無意識にとびついているのかもな」
「…………」
「藁にもすがる思いで、信じざるを得ないといった方がいいかもな」
倉庫に来る途中で、地面がえぐれているのを確認した。つまり、夢でもなんでもなくあれは実際におこったことなのだ。夢だと思うなら、そもそもこのコテージ自体が夢であってほしい。
「どちらにせよ、私たちが起こせる行動には限りがある。少なくとも、もう敵意がないならそれでいいんじゃないか」
「そう、ですね……」
そうまとめると、彼女は自信がなさげに頷いた。
なんだろう、この違和感は。そりゃ、「魔法使いを名乗る」という彼の行動は突飛なものではあるが、来夢の反応はなんというか、困惑や混乱というよりはむしろ――「アテが外れた」ような感じだ。
腑に落ちない。どうにもすっきりしない。いや……錯覚だろうか。私が精神的に疲れてきているのかもしれない。
私はもやもやとした不安感を抱きながら、歩を進めることにした。
その後、しばらく歩き続けたが目新しい成果をあげることはできなかった。日が沈み、暗くなってしまう前にコテージへと戻る。
リビングでは、関口さんがビールを飲んでいた。冷蔵庫にあったやつだろう。彼は私たちをみとめると、缶を見せつけるようにあおった。
「足、大丈夫なんですか」
「痛くてたまらない」私の質問に、怒鳴るようにこたえる。「でもしかたない。いつまでも寝てるわけにはいかないからな」
「そう、ですか」
「一階にもトイレがあって助かった」缶ビールを傾け、飲み干す。「それで、おまえたちは怪我人をほっぽいて、何をしていたんだ」
詰問するような口調。私はそれをうけて、今日あったことをかいつまんで説明しようとする。ちょうどそのタイミングで鬼一さんが帰ってきた。関口さんの目が、驚いたように見開かれた。
「誰だ、あいつは」
「えっと、さっき外で会ったんです、偶然」
彼ら二人は初対面になる。鬼一さんにはあらかじめ、私たちふたりの境遇を話していたため、関口さんの存在を把握していたが、その逆はない。
どう説明しようか迷う。ちらりと鬼一さんの方に目配せをするが、どうやら完全に私に任せるようだ。
「私たちと同じで、ここに迷い込んでしまったみたいで、それで、協力することになったんです」
「ふん」
関口さんは鼻を鳴らした。そして新しいビールのプルタブを開ける。すでに三本目だ。納得してくれたのか、それともどうでもいいのか、それ以上の追求はなかった。
「さて」鬼一さんが提案する。「それじゃあ夕飯にするか」
「そういえば、食事はどうしていたんですか」
「ふつうに冷蔵庫にあるものを使わせてもらったよ」
それは――豪気だな、と思った。そういえば彼はコーヒーも飲んでいたという。警戒していないのだろうか。それとも、魔法で毒の混入が判別できるのか。
「あの、わかるんですか?」
「何が」
「毒とか、薬とかが入ってるかどうかが」
「いや、全然」
鬼一さんは、そんなことはどうでもいいというような口振りだ。
「よかったら君たちの分も作るが」
「……遠慮しておきます」
夕飯は、粛々と進んだ。私と来夢は昼と同じく、カロリーメイトとそば茶だ。男性陣は、冷凍庫にあった冷凍餃子を食している。関口さんはそれにくわえてビールをさらに開けていて、すでに六本目だった。会話はなかった。なごやかな雰囲気とはほど遠い。咀嚼音だけが、やけにはっきり聞こえた。
先に食べ終わった私たちは、二階へあがる。何か挨拶をすべきかとも思ったが、結局何も言わなかった。「また明日」というのも「おやすみなさい」というのも場の空気にそぐわないと感じたからだ。
部屋に戻った私たちは、シャワーを浴びることにした。一日目は遠慮したが、どうもそういうことに意味があるのか疑問を感じざるを得なくなったのだ。つまり、異常事態に巻き込まれているこの状況で、常識に乗っ取った行為に意味があるのかということだ。鬼一さんのいうことを信じるならば、このコテージは【結界】の中にある。つまり、私たちを閉じこめる目的で用意した施設である可能性が高いのだ。だとしたら、そんな男に対して遠慮や配慮をする必要があるのか。そう考えたのである。ただ単に、自分たちの汗に耐えられなくなっただけともいえるし、もしかしたら、自暴自棄に近いものなのかもしれないが、兎に角。
シャワールームは割合広かったが、用心のために一人ずつ順番に浴びることにした。ひとりが入っている間、もうひとりは脱衣所で見張りをする。私がぼうっとしていると、髪を濡らした来夢が出てきた。入れ替わるようにしてシャワールームへと入る。念のため、ボディソープやシャンプーの類は使わないことにしていた。お湯だけで汗を流す。それでも、ずいぶんとさっぱりした。着替えは無いため、ずっと来ているジャージを着なければならないが、それはしかたのないことだろう。しかし、下着を替えたい。
「さっぱりしました」
椅子に腰掛けた来夢が息を吐き出す。心なしか、その声は弾んでいるように聞こえた。髪が濡れていて、普段よりも黒髪が鮮やかだ。
「まったくだ」
洗面所の棚にはアメニティグッズもあったため、歯を磨くこともできる。しかし、やはり口に入れるものを使うのは抵抗があったので、口を念入りに、何度もゆすぐだけにとどめた。
昨日と同じように、ふたりでひとつのベッドに入って寝ることにした。部屋に鍵をかけるのも忘れない。五月の山は標高か霧のせいか少し肌寒い。来夢と抱き合うような格好になった。彼女の身体に手を回す。ひしと抱き返された。呼吸のたびに上下する彼女の胸の動きを感じる。じんわりとした暖かさにいやされる。
私たちは二日目の夜、抱き合って眠りについた。それは恋人の抱擁というよりは、嵐の夜に、風にとばされないよう必死にしがみつく旅人を連想させた。
前に進めているのかはわからない。けれど、私は穏やかな安心感すら覚えて、気持ちよく意識を手放すことができたのだった。