十七章『魔法使いの夜』
私は、人の嘘が見抜けた。
いったい、いつのころだったか。ものごころがついたときにはもう既にそうなっていた。しいて言うならば、はじめからだ。生まれつき、というやつである。
発した声、仕草、視線の動き、呼吸の速さ。そういった物が発する『嘘のサイン』を、直感的にとらえることができたのだ。もちろんサインは人によって激しく個人差があるが、関係なかった。親しい人間だろうが、初対面だろうが、数十秒も観察すれば本能的に嘘か真かを見極め、確信することができたのだ。
他人のつく嘘に、人一倍敏感だった。いや、ある意味誰よりも鈍感であったといえるかもしれない。――特に、小さいころは。
なぜなら、幼いころは嘘であることはわかっても、それがどういう意図でつかれたものか、慮る想像力を持たなかったからだ。それ以前に、嘘がわかるということがあまりにも当然のことだったため、「嘘が通用する」という概念が存在することに気付けなかった。
最初は、不思議ですらあった。どうして、大人たちはあんなバレバレのことを言い合っているのだろうと。本気で理解できなかったのだ。いったいなぜ、誰もそれが嘘であることを指摘しないのか、奇妙でしかたがなかった。まるで信じたようなふりをして、会話を続けるなんておかしいのではないかと。
ピアジュの三つ山問題というものがある。幼児に三つの連なった山の模型――その麓に一件の家が建っているのを見せる。家のサイズは山に比べて小さいため、裏側の人間には家が建っている光景は見えないはずだ。しかし、その光景を見せた幼児に「裏の人からはどんな風に見えると思う?」と質問をすると、彼らは自分の観た光景を正解として述べてしまう――というものだ。
幼児期のころは、自分に見えるモノは他者にも見えていると思ってしまう。自己中心性と名づけられているその性質。いってしまえば他者と自分が別だという認識が、まだついていない時期である。それに近かったのかもしれない。
幼い私は「私以外の人間には、嘘が見抜けないのだ」ということがわかるようになるまで、かなりの失敗をおかした。
小学校低学年の頃、仲の良かった友人の家に遊びに行ったときのことだ。
その日は日曜日で、お昼前に遊びに行くと友人の父がちょうどでかけるところだった。スーツを着てネクタイをしめ、玄関で友人の母と会話をしていた。
「すまない。本当はゆっくりしたかったんだが、急に仕事が入ってね」
「わかっています。気をつけて」
慌てるようにして鞄を持った父親は、車に乗って発進した。私は、友人の母親に尋ねた。
「おばさん、おじさんはどこに行ったんですか」
「あら、お仕事よ。さっきそう言っていたじゃない」彼女は残念そうに微笑んだ。
私は納得がいかなかった。
そんなにさびしそうな顔をするならば、家族で過ごしたかったならば、なぜ。あんな言葉を甘んじて享受するのだろう、と。
「でも――」だから、質問をした。「あれ、嘘じゃないですか。どうして、何も言わないんですか?」
ただのきっかけにすぎなかったのかもしれない。子供の戯言と一笑に付されてもおかしくはない。しかし、それから少しして、友人の父と母は離婚した。原因は、父親の浮気だった。
「俺は魔法使いなんだ」
と、目の前の男は言った。平時ならば、お前はいったい何を言っているんだと頭を心配するような宣言である。あきれ果てるか、相手にもしないか。
この男は嘘をついていない。私にはそれがわかる。だが、それがどうしたというのだろう。それは大したことではない。嘘をついていないからといって、真実を話しているとは限らない。人間というのは不思議なもので、往々にしておかしなものを信じ切っていたりするのだ。ひとはそれを妄想という。
だから、普段だったらとりあわない。決して、まじめに向き合ったりはしない。
しかし、今は日常ではない。わけのわからない霧に囲まれ、奇妙なコテージに閉じこめられている。どこからどう見ても、立派な異常事態だ。
ゆえに、思考を切り替えなくてはいけない。いつも通りに考えていてはいけないのだ。常識を、捨てる必要がある。
「つまり、手から火を出したのは、魔法だということか?」
「信じたのか?」
赤髪の男は、自分で言いだしておいて不思議そうに首を傾げた。
私は説明する。「まあ、頭から信じるわけでもないが――、こんな霧がでているし、火を出したし、なにより、さっき『私たちを信じる体でいろ』なんて言ったからな」
「ってことは」
「そうだ。お前が私たちを信じる体でいるかぎり、私たちもお前を信じる体で話をつづける。そうでもしなければ、先には進めないからな――来夢も、それでいいか?」
隣に座る彼女へと視線を向ける。彼女は、何かを考えるようにじっとしていたが、話しかけると「……ええ」と遠慮がちに頷いた。
「ところで、話を聞く前に訊いておきたいのだが、名前は何ていうんだ?」
私のその言葉に、男は黙り込むする。妙に長い沈黙のあと、「鬼一夕雲」とぽつりと呟いた。
「きいち、せきうん――」口の中で反駁する。「どういう字を書く?」
「――鬼ヶ島の、『鬼』、に漢数字の『一』。夕方の雲で『夕雲』……だ」
その説明を受け、字面を思い浮かべる。変わった名前だな、と思った。とはいえ、仮にも魔法使いを名乗るのだからある意味ふさわしいともいえるかもしれない。
じっと、私を見つめる鬼一さん。それは、観察、というよりも私の反応をうかがっているような表情に見えた。
「わかった。鬼一さん。あなたは魔法使いだ。――それで?」
しかし、あえてその視線を無視するようにして先を促す。それを受け鬼一さんは、訥々と話し出した。
「俺は、ある仕事を抱えてここに来た。といっても最初からこのコテージが目的地だったわけじゃない。一昨日、偶然巻き込まれたんだ」
「偶然、ね。仕事と言うのは――」
「とりあえず、今のところは関係がない」
「そうか」
彼は、言葉を続けようとして、少し考えるそぶりを見せる。そして、ゆっくりと話をはじめた。
「いいか。まどろっこしいから要点だけ言うぞ。俺は、この現象を魔術――あるいは魔法によるものだと考えている」
まあ、そうだろう。仮に魔法なんてものが存在するのならば、まっさきにその可能性を考慮するべきだ。
「魔術と魔法は違うのか?」
「似ているが、違う。しかし、説明は関係ないし、意味がない。兎に角、この空間を物理的に隔離する【結界】系統の魔法か魔術だと考えた」
「結界?」
「ああ、そうだ。それで、このコテージ付近の空間を切り離している。だから、出ることができない」
「ふむん」
正直に言うと、よくわからない。だが、あいかわらず嘘はついていないようなので、続きを促す。
「その、ここがその結界とやらで閉じられているとして――、ここから出る方法はあるのか?」
彼は、一度ぺろりと唇を舐めた。
「ある――。かみ砕いて説明するぞ」やや間をとって、続ける。「【結界】の魔術というのは、術者――魔術を行使する人間が、対象となる空間を外界から切り離し固定する必要がある。そのために、隔絶した空間を固着・安定させるために【核】が必要なんだ」
「核――英語のコア、か?」
「そうだ、シェルではない。そうやって【核】を空間に配置することによって、はじめて実現するのが【結界】という魔術だ」
「つまり、その【核】を――」
彼は、口の端をあげた。
「察しがいいな。そう、ぶち壊しちまえば、ここから出ることができる」
沈黙がおりた。来夢の方を向く。彼女は、鬼一さんを見つめていた。その表情は、困惑――だろうか。もちろんこんな話を聞かされれば、混乱するのもわかる。私だって、半信半疑に近い。だが――それにしては、少し。
「その、【核】というのは、どういったものなのですか」
来夢が鬼一さんに対して質問をした。
「なんでもいい。自身がよく理解しているものにアニマを込めれば、なんでも【核】としての役割を果たす」
「アニマ?」
「……魔術を使うときのエネルギーみたいなものだ。だが、【核】のなかでももっともポピュラーで、簡単で、それでいて強力なものがある」
「それは?」
「自分自身さ。術者本人が己を【核】にするのが、一番――効率がいい」
「さっき私たち襲ったのは」来夢が確認するように問いかける。「私たちが結界を創りだした術者だと考えて、そして出るために殺そうとしたわけですか?」
「……ああ、そうだ」
私と来夢は、顔を見合わせる。
「どうしましょう」
「どうしましょうって言われてもな……」
混乱している。それは彼女も同じなようだ。
しかし、魔法とはこれまた大きく出たものだ。この不気味なコテージで、奇妙な体験をしていたため、まあ、真っ向から否定するわけでもないが、それにしたって。
しばしの沈黙のあと、私は口を開く。
「私の意見を言わせてもらえば、彼の言葉には一考の余地があると思う。毒もって毒を制す――というわけではないが、まあ超常現象には超常現象といった感じか」
「そう、ですか――」
「納得いかないか?」
「えっと、まあ、そうなんですけど」彼女は頭を振る。「でも、たとえどんなことを言われても結局、納得なんてできないでしょうから、響さんの方針に乗らせていただきます」
……なんだろう。彼女にしては妙にはっきりしない物言いである。嘘、というわけでもないが何か隠しているような気がする。
私の判断がおかしかっただろうか。そりゃ、魔法だの結界だのというのは突飛ではあるが、そもそも当初の予定通りに地道な検証を続けて行ったとしても、脱出の決定打にはならないのだ。鬼一さんは確かに信用しがたいだろうが、こちらを騙そうとはしていない。すべてを話しているわけではないが、嘘を言ってもいない。
いや、そうか――。私にはそれが――嘘をついていないことがわかるが、彼女にはわからないのか。
「全面的に鵜呑みにしているわけではないさ」肩をすくめる。「ただ、まあ現実離れしていようと、脱出の手立てがあるならばそれに協力するのもやぶさかではない、といった程度だ」
私たちの会話を聞いていた鬼一さんが、口を開く。
「わかってくれたなら、この縄をほどいちゃくれないか」
「それは無理だ」私は彼の申し出を却下する。「別に、信用しているわけじゃない。こっちとしてはいきなり殺されかけたんだからな」
「だが、俺を動かしてくれなきゃ、【核】を見つけ出すことは難しいぜ」
「そうなのか?」
「あの」私たちの会話を遮るように、来夢が声をあげる。「響さん、えっと、私なら、大丈夫です」
ちらり、彼女の方に視線を向ける。不安そうではあるが、それでも覚悟を決めたような顔つきをしていた。
「……じゃあ」鬼一さんに向き直る。「私たちに手を出さないっていうなら、ほどいてやる」
彼はじっと考えた後、口を開いた。「わかったよ。お前らには手を出さない」
嘘ではなかった。心変わりの可能性も考慮する必要があるが、少なくとも今のところは大丈夫だ。
私は、彼を縛り上げているロープをほどこうと手を伸ばしたが、解き方がわからない。見かねた来夢が手を伸ばすと、蝶々結びよりも簡単に、ほろりと結び目が消えた。
縛られた部分をさすりながら起き上る鬼一さんに、質問をする。
「そういえば、珈琲を入れたのは鬼一さんか?」
「ああ」彼は頷いた。「食事のあとは珈琲を飲むって決めてるんだ」