十四章『embrace』
まずは、明るいうちに外の探索をしてしまおう、という流れになった。暗くなって視界が悪くなれば、その分アクシデントに見舞われる確率は高くなるはずだからだ。
二手に分かれた方が効率がいいのでは、と来夢が言ったが、却下する。この状況で単独行動をするのは好ましくない。
それほど遠くまで行くわけではないので、荷物は全て昨日寝た二階の部屋へおいていくことにした。
玄関からテラスに出る。霧によって見える範囲が極端に狭まっていた。一面の白色。実際に外にでることで、霧の持つ威圧感が強くなった気がする。あまりに色が濃いので、遠景を見渡すことができない。そのため、このコテージが建っている場所は森の中なのだが、遠くの方にぼんやりと山の影らしきものが見えようにも思える、程度の実感しかなかった。隣にいる来夢ですら、十メートルも離れれば見えなくなってしまうかもしれない。
「これは、予想以上に危険だな……」
「そうですね」
これでは、手がかりを見つけるのも難しい。とはいえ、何もしないなどという消極的な態度でいるつもりはなかった。
テラスから降りると、昨日私たちが辿ってきた道が見えた。とりあえず、これをずっと辿っていくべきだろう。ここから逸れなければ、帰り道がわからなくなって迷うという最悪の事態は回避できるはずだ。
明らかに人の手によって整備された道。それは山道よりもはるかに安心感をもたらす。歩きやすく、さくさくと進める。視界が悪いため、いつもよりは慎重になるが。道の脇の草花や、鳥の声。緑の匂いが鼻をつく。朝の匂いだ。錯覚かもしれないが、森の、自然に包まれた朝の空気は澄んでいるように思える。
「深呼吸したくなるな」
「ええ、本当に。私、こういうの好きです」
「私もだ」
しばらく歩き続けていると、なんだか楽しくなってきた。そんな事態ではないのだが、散歩しているような気分になったのだろう。我ながら、暢気なものである。
時計を確認していないが、二、三十分は経っただろうか。「あれ?」と隣を歩く来夢が声を漏らした。
「どうした」
「いえ、あそこ……家がありませんか?」
彼女の指さす方に目を凝らす。すると、かすかにではあるが影らしきものと、明かりが見えた。はやる気持ちを押さえながら、歩みを進める。距離が近づくにつれ、その全景が徐々にはっきりと見えてきた。
それは、コテージだった。私たちがさきほどまでいたものと、瓜二つの。つまり、同じタイプのものなのだろう。
「やった……」
来夢と顔を見合わせ、安堵の息がでる。右手を挙げる。来夢は、ちょっと困惑したような様子を見せたが、すぐに私の意図を察する。私たちは、控えめなハイタッチを交わした。
予想していたように、コテージが複数あったのだ。少し距離が離れている気もするが。多分、途中にもいくつかあったのに、霧で見落としてしまったのだろう。
発見したコテージは、照明もついている。今度こそ、誰か人がいるに違いない。テラスに上がり、玄関わきのインターフォンを押す。つくりもまったく一緒だ。並んで建っていたら、どちらがどちらなのかわからなくなってしまうかもしれない。
呼び鈴がなったにもかかわらず、しばらくたっても反応がない。
……あれ、と思った。昨日も似たようなことがあったと。
誰もでてくる様子がない。時間がたつにつれて、私の不安は大きくなった。これは、おかしいのではないか。得体のしれない恐怖が、そっと這いよってくる。
ドアをノックして、誰かいないかを尋ねる。しかし、うんでもなければすんでもない。
この状況にデジャヴを感じながらも、私はドアをゆっくりと押し開けた。
「すいません」と声をかけながら、中をうかがう。
誰もいない。
またか。いや、しかしそれにしても――何か妙だ。そう、この光景には見覚えがある。見覚えがるというか、――ついさっき見たばかりのような。
――ついさっき見たばかり?
扉を開けた先はリビングとダイニングが一体になったような部屋だ。かなり広い上に、一部が吹き抜けになっている。テーブル、ソファ、奥にはカウンターキッチンが。そう、まるでさっきまで私たちがいたコテージのような。いや、おなじタイプのコテージなのだから、不思議ではないはずだ。
不思議ではないはず、だけれど。それでも、その光景が一致しすぎているような気がした。
何が、と訊かれたら。
そう、たとえば、椅子の位置だったり。明るさだったり、漂う雰囲気といえばいいのか。細かい記憶と言うのは、意識して覚えているわけではない。だけど、脳には刻まれている。そういう無意識下の記憶が、そういった判断を下すのか。
兎に角、昨日寝たコテージと今ここにあるコテージが、『まったく同一のものである』ような、そんな気が――。
――いや、いや、いや。気のせいだ。気のせいにもほどがある。そんなことがあるわけないだろう。
だって、私たちはさっきそこから出てきて、一本道をずっと歩いてきただけなのに。
またそこにたどり着くなんて、そんな不条理な事、あるわけないだろう――。
偶然だ。錯覚だ。あまりにも家具の配置がそのまますぎて、そんな錯覚を起こしているだけにすぎない。人間の脳なんて、いい加減なものだ。
湧き上がる正体不明の違和感をかみ殺していると、なにか足音が聞こえてきた。廊下の奥の方からだ。つまりそれは、誰かがいるということになる。
そうだ、そうに決まっている。
ほっと息を吐き出す。
ちょっと、神経が過敏になっているのだ。ここの人に事情を説明して、何か連絡手段を確保しよう。
そう思った私の考えは、次の瞬間見事に打ち砕かれることになる。
なぜなら、廊下から出て来た人物と言うのが――、
「なんだ、君たちか。てっきり誰か来たのかと期待したじゃないか。まったく、インターフォンを鳴らして、何を考えているんだ? 足を怪我している私への、嫌がらせのつもりか――?」
それは、先ほどのコテージで休んでいたはずの、関口さん、だったからである。
私と来夢は顔を見合わせる。今自分の見ているものが、信じられなかったからだ。
関口さんは、確かに昨日寝たコテージで休んでいたはずだ。その彼が、新しく発見した、三十分も歩かなければならない、このコテージにいるというのは、どういう理屈だ。
おかしい。どう考えてもおかしい。奇妙だ。異常だ。
「えっと……」考えがまとまらないまま、口を開く。「関口さん、ですよね」
「は? 何を言っている? 頭がおかしくなったのか?」
その言葉は、ある意味的を射ている。ありのまま今起こったこと話せば、「私たちは新しいコテージを発見したと思ったら、それはいままでいたコテージだった」ということになってしまう。何をいっているのかわからないと思うが、私も何が起きたのかわからない。――頭がどうにかなりそうだ。
彼を無視して、二階へと上がる。昨日寝た部屋のドアを開ける。床には、私と来夢の荷物が置かれていた。
――たとえば、の話だ。
関口さんが私たちを担ごうとして、この荷物を持って新たなコテージに先回りしていた、という可能性はあるだろうか。
いや、それはない。彼の怪我はこの目で見ている。あんな状態で、私たちよりも早く歩くことなどできそうにない。
それに、私の直感がそう告げている。ここは、間違いなくさっきまでいたコテージであると。そう、脳がそう言っている。一日しかいない施設ではあるが出発する前と後で、まったく差がないのだ。完全な一致。まるで違和感がない。違和感がないことが違和感なのだが。
おかしい。昨日から、おかしいことが連続で続いているが――その中でも、これはトップだ。ダントツで異常で奇妙で不可思議で。
「響さん」開け放たれている扉の外から、来夢が声をかけてきた。「関口さんが、その……」
一階へ戻ると、テーブルに腰かけている関口さんが煙草を吸っていた。降りて来た私たちを見ると、露骨に眉をひそめる。話さない、というわけにはいかないだろう。
「あの――」
私は向かいの席に座ると、いま起きたことを説明した。どこかに連絡を取るため、外へと向かったこと。一本道を歩いて、コテージを発見したこと。そこが、まさに今いるここであったこと――。
彼は紫煙をくゆらせながら、黙って聞いていた。話が終わると、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「私は、」新しい煙草を咥えて、火をつける。「私は、グリーンパークで働き始めてからはそんなに年数がたっていない。だけどね、この仕事につくまでにも、それなりに社会経験は積んできた。君たちにはピンとこないかもしれないが、社会でもっとも大切なことというのは、信用なんだ。そしてその信用を得ることは、とても難しい。にも関わらず、失うのはとても簡単なんだよ。君たちにとっては、ちょっとしたアクシデント程度で、探検気分なのかもしれない。だけどね、私にとって今回の件というのは、今までの信用を失うに足る、ほんとうに、ほんとうに重大なトラブルなんだ――」
「そんな」
言いかけた私の言葉を遮るように、彼は右手をテーブルに叩きつける。そして、まだ長いままの煙草を灰皿でもみ消す。灰皿を掴んだかと思うと、勢いよく投げつけ、叫ぶ。
「あまり大人を舐めるんじゃないっ」
灰皿は、吸殻をまき散らしながら、私と来夢の間をすり抜け、床に叩きつけられた。金属と木材のぶつかり合う鈍い音が響く。
萎縮した私たちを置き去りにして、彼は席を立つ。怪我をした足首を庇うようにして、自室へと戻っていった。その動作は緩慢であったが、呼び止めようという気は微塵もおきなかった。
「来夢?」
そこで、私は彼女が蒼白な顔をしていることに気付く。
来夢は自分自身を抱き留めるように腕を回し、震えている。目をぎゅっと瞑り、「ごめんなさい」と呟いている。関口さんに怒鳴られたのが効いているのだろうか。それにしても、その様子は尋常ではない。「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と。何度も何度も、許しを請うように。その対象が、すでに目の前からいなくなっているにもかからわず、繰り返す。
「ごめんなさい。すいません。許してください――」
瞳が開かれる。私を見ていない。ここではない、どこか遠い場所を見ているみたいに、焦点があっていない。
謝っている。誰かに、謝罪をしている。届かないのに。
知っている。私は、こういう事態を前にも見たことがある。
――恵理香ちゃんだ。
方向性は違う。だけどこの反応は、彼女の発作と同じものだと思えた。つまり、先ほどの彼の態度が、来夢の記憶を呼び覚ましたのだ。忌まわしい、封印しておきたい鈍色の記憶を。
重なったのか。怒鳴り散らす関口さんの姿が、彼女の心に疵をつけた『誰か』に。
「来夢」
私は来夢の手を取る。両手を包みこみ、呼びかける。彼女の名前を呼ぶ。司が、恵理香ちゃんにそうするように。
見よう見まねだ。心得なんてない。でも、他に方法もない。
彼女の身体に手を回す。そして、やさしく――けれど力強く抱きしめる。決して離さないという意思を伝えるために。そして、背中をぽん、ぽんと一定のリズムで柔らかくたたくのだ。赤ん坊を寝かしつけるように。
「大丈夫、大丈夫だから」
「あ――」
そうやっていると、気を取り戻したような声を、彼女があげる。そして今の状況を認識すると、反射的に離れようとした。しかし、逃がさない。
しばらくは抵抗していた来夢だったが、やがて、諦めたように身体の力を抜いた。それから、やっと解放してやる。
「落ち着いたか」
「……はい」来夢は少し恥ずかしそうに俯く。「その、申し訳ありませんでした」
「謝らなくていいさ」
私はそう言った。抱きしめている最中は夢中で、そんなことは気にもならなかったが、こうして落ち着いて離れてから、気恥しくなった。
他人との距離が零になるというのは、あまり日常的には経験しないことだ。小さいころや、恋人でもいればそうでもないのかもしれないが、私はもうそんなに小さな子供ではないし、残念なことに恋人もいない。
誰かを両手で抱きしめるという、プレイベートエリアなんて観念をガン無視する行為。それを、来夢としたというのは、ほんのちょっぴり、変な気分でもある。十年来の友人同士だって、抱き合うなんてことはしない。欧米じゃないから、ハグという習慣もないし。
彼女の身体の感触が、両腕に残っている。
柔らかくて、熱くて。
私は、彼女の方を見る。
近づいて、何の気なしに、もう一度抱き着いてみた。
「ひ、響さんっ?」
驚いて変な声を出す来夢。それを無視するようにじっと抱き続ける。
「悪くないな」
「な、何がですか?」
距離が近いからか、彼女の声が耳元で響く。
「普段こんなに他人と触れ合う事なんてないが、悪くない」
「えっと……?」
「安心するっていうか、元気がもらえるというのか、なんていうか、上手く言い表せないが。うん、これは癖になるかもな」
「あの、その、あ、ありがとうございます……?」
困惑しているのだろう。嫌がられてしまっては元も子もない。私は、また少し距離を置くと、来夢の目を見て言った。
「行こう」
「え?」
「もう一度だ。無いとは思うが、霧で方向感覚が狂ったのかもしれないし、何にしても正確に状況を把握しておきたい」
「あ、はい、そうですよね。そういうことですよね」
コテージを見つけたら、それは元いたコテージだった。
私たちの勘違いなのか、それともそんなことを超越した、何か別の超常現象が起きているのか。
なんにせよ、立ち止まるわけにはいかない。どう判断するにせよ、情報が少なすぎるのだ。
だから、もう一度。
扉を開けて霧の中を進もう。
そう決意して、私は――私たちは立ち上がった。