十三章『空が灰色だから』
ちちち、ちちち。という山鳥のさえずりで意識が引き戻される。
やけに外が明るい。ついさきほど、目を閉じたはずなのに、すでに朝になっていた。一瞬だった。
体感的には一秒も経っていない。にもかかわらず、時計の針は朝の六時前である。目を閉じて、開いたら朝だったといった感じだ。
疲れていたんだな、と思った。身体が疲労し切っていると、ときどきこんな睡眠になるのだ。小さいころ、家族で旅行にいったときなどによくこの現象がおきた。そしてその度に狐につままれたような気分になるのだ。
今回も「あれ?」と思ったが、確かに聞こえる山雀やらなにやらの鳴き声が、今の時間帯を物語っている。
人の気配を感じ、首を横に向ける。来夢の顔が、私のすぐそばにあった。すう、すう、という規則的な寝息。吸って、吐いて。それを見て、昨日の出来事が夢ではないことを思い知らされる。布団に広がる彼女の黒髪に、小さな葉っぱがついていた。
むくりと上半身を持ち上げる。来夢を起こさないようにそっと葉をとろうとしたが、その動きを察知したのか、彼女の瞳がぱちりと開いた。
「おはよう」
「……日比野、さん?」
まだ半眼で、完全に覚醒したわけではないのだろう。起こしてしまったのならばしょうがないと思い、さっと、彼女の髪の毛についた葉っぱを取り除く。そしてそのまま、ベッドから降りて靴を履いた。
来夢もベッドから起き上がろうとする。寝ぼけ眼をこすりながら、頭を左右に振った。
「霧、まだ出てるな」
窓の外には、相変わらず霧が立ち込めていた。もちろん、朝になっているため明るさは段違いではあるが、霧単体の印象でいえばむしろ濃くなったようにも見えるほどだ。太陽光すら遮って、視界に入るのは一面、どんよりとした灰色だ。重苦しく、厚い。
少し、不気味だった。山の中というのは、そういうものなのだろうか。それともたまたま、こういう気候なのか。中学生の時、林間学校でカッター実習をやったが、そのときもこんな濃い霧だったのを覚えている。あのときは先生も一緒に乗っていたし、クラスのみんなもいたから、むしろ先が見えなくて楽しくすらあった。
しかし、いまは来夢しかない。誰もいないコテージをすっぽりと覆うこの霧は、まるでホラー映画のワンシーンを連想させる。ここと、外を分かつような――自分が閉じこめられているような感覚。
いや、やめよう。霧を見つめていると、気が滅入る。まずは、なんとかして学校の先生と連絡をとらなければ。いまごろ大問題になっているに違いない。下手をしたら警察沙汰だ。いや、夜が明けてしまっているのだから、下手をしなくてもそうかもしれない。去年も問題も起こして、今年もこんなことになっては、来年からのキャンプの開催が本気で危うくなってくるだろう。そう考えると、申し訳ない気持ちになる。
「……顔を洗ってくる」
「私も行きます」
寝室のそばの洗面所へ。冷たい水で顔をすすぐと、とりあえずさっぱりした気持ちにはなった。正直に言えばシャワーも浴びたいが、さすがに図々しすぎるというものだろう。二人で顔を洗って一階のリビングへ降りる。昨日はすぐに寝てしまったので、電気も点けっぱなしだった。
「まあ、まずは電話だな。固定電話くらいあるだろうし……」視線を巡らせる。「そういえば、来夢は携帯どうしたんだ?」
そう尋ねると、彼女は少しバツが悪そうな表情を浮かべる。
「あ、あの。……持っていないんです」
口調からすると、『今』たまたま持っていないという意味ではなく、
「――それは、つまり契約すらしてないってことか」
「はい」
それは珍しい。そういう主義なのか、あるいは――。そこまで考え、私は思考を打ち切った。
固定電話はすぐに見つかった。玄関のすぐわきに設置されていたのだ。発見してしまえば、昨日見落としていたのが嘘のようだ。灯台下暗し――とは少し違うか。
とりあえず誰に掛けるべきか。諳んじている電話番号なんて、自分の携帯と自宅くらいのものだ。兎に角どこかに連絡しようと、受話器を耳に当てた時、違和感がした。
「あれ……?」
一、一、七の時報のナンバをプッシュする。しかし、いつまでたってもウンともスンとも反応しない。電子音すら鳴らず、ボタンを押してもプラスチックがぶつかる音がするだけだ。
おかしい。一七七の天気予報――反応なし。自宅のナンバも、反応なし。
「壊れてる……」
一一〇番も、出鱈目に押しまくっても、まるで無反応。電話線が切れたか、故障してるとしか思えなかった。
「そんな……」
絶句。ここまできて――という思い。それとは別に、なんとなくこんな風になる気がしていた自分もいた。悪いことは重なる。そういうものだ。
沈黙が降りる。まさか、この霧の中を無策で突き進むわけにはいかない。地図を見ても、一体ここがどこなのかわからないのだから。
「あ、でも」来夢は何かに気づいたように、顔を上げた。「関口さんってたしか、グリーンパークの方でしたよね。だとしたら、この場所や下山するためのルートを知っているかもしれません」
「そう、か」私は頷く。「そうだな、うん。その可能性は、あるな」
二人で、彼を運んだ部屋へ向かう。ノックをしてから、扉を開けた。この部屋の間取りは、大きさこそ多少狭いものの、二階のものとほとんど同じである。カーテンの開かれた窓からは、灰色の霧しか見えない。
関口さんは、ベッドの上に腰かけていた。
「ああ、君たちか」きょろきょろと周囲を見渡す。「ところで、ここはどこなんだ?」
私たちは、彼に昨日の事を説明する。あの後、なんとかここへたどり着いたことや、テーブルの上の奇妙な紙についても。彼は話を聞いて、すこし顔を歪めた。
「それが、この紙なんです」彼に【ご自由にご利用ください】と書かれたそれを見せながら質問する。「それで、ここは七篠グリーンパークの施設……なんですか?」
「いいや、こんなところは知らない」関口さんは、紙を胡散臭げに眺めながら、首を横に振る。「第一、グリーンパークにそんなコテージはない。全国探したってそんなボランティアみたいなサービス、あるわけないだろうね」
彼のその返答は、私が想定していたもののなかでも、最悪の部類だった。心臓が、とくんとなった。
「知らないん……ですか」
「ああ」
「グリーンパークのものでは、ない」
「――だからそう言っているだろう」
何度も言わすな。そう言外に臭わせていた。彼は乱暴に頭を掻きむしりながら、続ける。
「それにしても、警察には連絡したのか? ……いや、警察はまずい。兎に角、グリーンパークや、学校に」
「いえ、それが……」
「じゃあ、さっさとしなさい」
私の言葉をいらいらとした口調で遮る。そんなこともわからないのか? とでも言いたげだった。
「あの、この小屋の電話、壊れてるんです」
私の釈明に、関口さんは露骨に眉を顰めた。
「だったら、携帯電話は」
「電池が切れていて、使えません」
彼は大きく舌打ちをし、頭を抱える。「まったく、これがゆとり世代か……」などと小さくぼやくのが聞こえた。
「えっと、関口さんは何か連絡手段は――」
「あるわけないだろっ」
突如、激昂。後ろにいた来夢が、その大声にびくりと反応する。
「……失礼しました」
そう言って、私たちは逃げるように部屋を後にした。
扉を出て、大きく息をつく。どっと疲れたように、のったりと歩きながら、リビングへ向かった。
「警察がまずいというのは、どういうことでしょうか?」
「――あまり大ごとにしたくないんだろう。……もっとも、もう手遅れな気もするが、な」
リビングのソファに腰を下ろす。
「どうしましょう」
来夢が、力の抜けた声で呟いた。そうなるのも無理はない。関口さんの言葉で、ここが〈七篠グリーンパーク〉の施設であるという可能性が消えたのだ。
私はそっと手を口元に寄せた。目をつぶり、考える。
――この状況はまずい。かなり危機的であると認識せざるを得ない。
まず最初に、このコテージがどこにあるかがわからない。第二に、外部との連絡手段が一切ない。
つまり、『陸の孤島』とでも言うべきか。完全に孤立してしまっているのだ。もしこれがミステリ小説であるのならば、間違いなく殺人事件が起きるシチュエーションだろう。……いや、三人では数的に不足か。もし殺人が起きても、すぐに犯人が特定できてしまう。たとえばA、B、Cの三人がいて、Aが殺された場合。Bは自分が殺人犯でないならば、残ったCが犯人であることが消去法から判明してしまうのだ。それではミステリにならない。もし推理小説として成立させたいのならば、彼ら三人を俯瞰する視点で観測する第三者が必要になる。つまり四人目の存在が。
…………。
……何を考えているのか。
私は現実逃避気味になった思考を戻す。
「来夢は、どうすればいいと思う?」
時間稼ぎ的な意味で、質問を質問で返す。彼女は、しばらく考えてから口を開いた。
「えっと、まずここがどこかわからないのだから、それを特定する必要があるかと」
「そうだな」
「なので、少しでもこの場所を特定するための情報を求めるべきではないでしょうか」
「具体的には?」
「……たとえば、リビングの棚を調べたりだとか。――二階にあった書斎。あそこの机を調べたり、だとか」
なるほど。
「よし、それでいこう」
「え?」
何をそんなに拍子抜けた顔を。自分で提案した癖に。
「いいんですか?」
「いいも何も、それが多分最善手だ。ただでさえ闇雲に下山するのは危険なのに、この霧だ。情報収集に徹するべきだろう。……そうだな。まあ、あえて付け足すなら、外の様子も確認しておきたい、というのはあるが」
「外、ですか」
「ああ」ソファから立ち上がり、大きく伸びをする。「すこし危険だが――迷子にならない程度に周辺をうかがっておきたい。もしかしたら、近くに同じようなコテージがあったりするかもしれないし、大きな道や――看板みたいなものが見つかるかもしれない」
看板? と不思議そうに首を傾げる来夢に、説明を続ける。
「グリーンパークのモノでないにせよ、【ご自由にご利用ください】と書いてある紙や、セットされた寝具、奇妙なほど片付いている室内からすると――宿泊施設である可能性はかなり高い。だとしたら、ここにたどり着くための道が整備されているだろうし、駐車場からの案内用の看板が設置されているということもあるかもしれない。――もしそういったものを発見できれば、自力での下山もみえてくる」
「なるほど、そういうことですか」
来夢は納得したように頷いた。
「まあ、そのうちにひょっこりと誰かが来るんじゃないかとは思うが」
私はあくまで楽観的な意見を言う。あまり後ろ向きになるのはよくないことだからだ。
それに、この状況は考えようによっては幸運ともいえるだろう。下手をしたら昨日、ここにたどり着かないまま野宿をする――なんて羽目になってしまうことも、十分にありえたのだから。それを思えばきちんと屋根のあるところで眠れたのは、運が良かったとしかいいようがない。
「大丈夫。どうにでもなるさ」
もう一度、繰り返す。その言葉は来夢を安心させるために言ったはずだったが、声に出してみれば自分に言い聞かせるために呟いたようにも思えた。