十二章『一月物語』
私は運動があまり得意ではない。小学校の時はスイミングクラブに所属していたけれど、平泳ぎはマスターできなかったし、中学ではバレー部に入っていたが、万年ベンチウォーマーだった。
そのうえ高校に入ってからはめっきり運動をしなくなったため、体力はさらに落ちた。だから、山道を歩くのは至難だ。加えて二人がかりとはいえ、だいの大人をひとり抱えているのだから、数十分も歩けば身体のあちこちが悲鳴をあげはじめる。関口さんの重量がモロにかかる肩や、登り下りを繰り返すために動かし続けるふくらはぎや足の付け根。それと、なぜだか腰も痛くなってきた。人を支えると必然的に変な姿勢になってしまうのが原因だろうか。
数時間も歩き続けると、鈍痛はさらに激しさを増す。左の膝が先ほどから痛い。すごく、痛い。それしか考えられない。時間の感覚が狂う。もう何時間も経過した気がしたが、それは気のせいなのだろうか。あ、やばい。ふくらはぎが、つりそう。
ずず、ずずず、という何かを引きずるような音が耳に入る。なんだろう、と疑問に思ったが、確認するのも億劫だった。
さらにしばらく進むと、支えている関口さんの身体がずっしりと重くなった気がしてきた。横目でそちらを見やると、彼は目をつむっていた。足も動いていない。意識がないように見える。どうやら、ずいぶんと前からそんな状態だったらしい。引きずるような音の正体は、彼の両足が地面を抉る音だったのだ。彼の右足に負担がかからないように、担ぎなおす。声はかけなかった。
同じように関口さんを見ていた来夢と目が合う。彼女は相当運動神経があるようだったが、さすがに疲労の色がうかがえた。
すでに日はとっぷりと暮れ、夜のとばりに覆われている。暗い。携帯電話のライトで照らすが、霧も一向にはれないため、視界は最悪だ。
泣き言の一つも言いたくなるが、そんなことに体力を使うのすらためらわれる。足が棒のようになり、膝ががくがくと笑う。気を抜けば、その場に倒れこみそうになってしまう。
もうどれくらい歩いているのだろう。最後に時計を見たのは大分前だ。恐ろしくて、確認ができない。
唯一の救いは、比較的道が安定していることだろうか。担ぐ形とはいえ、三人が横に並べるだけの広さの山道。土はいつの間にか砂利となり、凸凹とした難路ではなくなっていた。アップダウンも緩やかになり、だいぶ降りて来たのだということを実感する。
「あ、あれ……」
来夢がぽろりとこぼす。つられて前を見ると――ぼんやりとした明かりが、目に入る。
「やった……」
たどり着いた――そう安心した途端、私は膝から崩れ落ちそうになる。慌てて足を動かし、何とか持ちこたえるが、バランスが崩れて大きく揺らぐ。
「大丈夫ですか」
「ああ、いや、ほっとして、少し気が抜けただけだ」
長かった。暗く、霧が濃いという最悪の視界条件の中での行軍。先行きがわからないストレスによる疲労。足は綿のようになり、限界寸前だった。そこにようやっと現れたゴールを目にして、安堵してしまったのだ。
「さあ、行こう」
到達点が見え、萎えかけていた気力が復活する。マラソン大会でラスト一キロになった時みたく、明確な終わりが見えるということは精神的な負担がかなり減るのだ。
蝋燭が消える前、ひときわ輝くように、私は最後の力を振り絞った。
しかし、そこはゴールではなかった。
明かりとの距離が近づくにつれ、その正体が明らかになる。霧のなかのぼんやりとした光。それは、一件の建物だった。
コテージ、というのだろうか。木の素材をそのまま生かすようにデザインされたログハウス。見覚えはない。
どっしりとした佇まい。二階建てで、面積もかなりのものだ。霧さえなければ、大自然との調和が見事なものになるであろう。
「……違った」
てっきり先生たちに合流できたと思ったのだが――そういう訳ではなかったようだ。
「どうします?」
「とりあえず、事情を説明して電話を貸してもらおう」
とはいえ、やっと人のいる場所へとたどり着いたのだ。連絡をすることができるし、何より現在の明確な位置が把握できる。迎えに来てもらうにせよ下山するにせよ、それは大きい。私の携帯電話は長時間ライトをつけていたので、すでに電池が切れてしまっている。
木製の階段を二段ほどつたい、テラスのような場所へ上がる。そこに備えられたドアの横のインターフォンを押した。
電子音が鳴る。しかし、反応がない。一分ほど待ってからもう一度押してみるも、誰も出てこなかった。
私は来夢と顔を見合わせる。とはいえ、ずっとこうしているわけにもいかない。そう決心し、ドアを開けながら「すいませーん」と呼びかける。それでも相変わらずなしのつぶてだった。
「誰も、いないんでしょうか?」
「いや、電気がついてるし鍵も開いてるから、それはないと思うが……」
それに中からふんわりと、こうばしいコーヒーの香りが漂ってきている。私はこの匂いが好きだ。
しかたがないので私たちはテラスに関口さんを横たえると、二人で家の中に入ってみることにした。ずっと支えていた方の肩が、ばきばきと音を立てる。
「ごめんくださーい」
室内は、外観から予想した通りの造りだった。木のあたたかみがにじみ出る内装というのか、赤茶色のつやのある木がむき出しになっていて、ログハウスという単語の持つイメージそのままだ。広い。リビングだろうか、壁や天井と同じ、木材のテーブル。オフホワイトのソファ。壁際の大きな暖炉が存在感を放っている。ダイニングと一体となっていて、さらに奥にはカウンターキッチンも見えた。
「誰かいませんかーっ」
リビングの横には階段があり、二階の一部が吹き抜けになっていた。そちらにいる可能性も考えて、上にも聞こえるよう大きな声を出す。しかし、帰ってくるのは無反応という反応だけだった。中を見渡しながら、そろそろと進んでみる。やはり、広い。天井には、薪ストーブの暖気を部屋中に循環させるための扇風機――シーリングファンだったか――も備えつけられていた。小さいころは、あれがなんのためについているのかとても疑問だったのを思い出す。
「あの、響さん……これ」
そう言って来夢が指さしたのは、ダイニングテーブルの上に置かれた紙だった。A4サイズのそれは、ラミネート加工が施されている。その中心にポツンと、文章が書いてあった。
【ご自由にご利用ください】
なんだこれは。
ワープロで打ちこまれたであろう文字は、飾り気のないゴシック体で、サイズも小さくフォントの加工もしていない。そのせいか妙に寂しさを感じる。裏面を見ても、何も書いてなかった。
「ご自由にご利用って……何をだ?」
少し悩むそぶりを見せた後、来夢が言った。
「……もしかしたら、このロッジをってことかもしれません」
……まあ、そう受け取れないこともない。
冷蔵庫やテレビにでも貼り付けておくならまだわかるが、テーブルの上に置かれても意図が掴みづらい。
とはいえ、
「じゃあなんだ、確か七篠グリーンパークにはログハウスに宿泊できる区画があったが、そこまでおりてきてしまったってことか?」
「どうでしょう」来夢も自分で発言しておきながら、自信がなさそうだった。「そうとも、言いにくいです、けど」
いくら霧のとはいえ、そこまで方向を見誤るとは思えないし、降りてくる途中にオリエンテーリング領域の区切りにあるロープにもぶつからなかった。
第一、ここがそのログハウス村だったとしてもだ、予約も無しに『ご自由にご利用』できるような――そんなコテージがあるとは考えにくい。そんな商売が成り立つとは思えない。
思えないが、しかし、ありえないこともない。……かもしれない。
いや、ただ単に私が疲れて切っていて、これ以上考えるのがめんどくさいとか断じてそういうことではなく。本当に、そういうわけではなくて。
「それにしたって、だ」私は紙をテーブルの上に戻す。「仮に、もし仮にそういうサービスがあったとしても、誰か『先客』いることは多分間違いないだろう。電気はつけっぱなしだし、珈琲もある」
テーブルの上、紙が置かれている場所とは別に、一人分の珈琲が淹れられていた。カップと、ソーサー。それから空のフレッシュ。カップの中身は半分ほど残されていて、まさに今飲んでいましたといった感じである。そっと触れてみても、まだあたたかい。
「淹れたてだ」
「挽きたてですか?」
「それは知らん」
なんにせよ。
「その先客に挨拶をする必要が、ある」
そういうわけで、私たちはこの家全体を見て回った。大体の間取りを把握しながら、全ての部屋を確認する。ひとつひとつだ。リビングダイニング、キッチン。寝室に、トイレに、シャワールーム。奥には押入れのようなものまであった。リビングの横の階段を上がり二階も見てみる。ちなみに階段はふたつあった。二階には少し大きめの寝室と、それから書斎のような場所。何に使うのかよくわからないホールもある。上にもトイレがあり、かなり広い家だと実感する。
しかし、予想に反してこのコテージには誰もいなかった。
「誰も……いませんね……」
「そう、だな」
疲れた様子で来夢が呟く。私ももう、限界だった。だったら精々、自由に利用させてもらうとしよう。半ば投げやり気味に、そう決意する。
「もう今日はここに泊まらせてもらおうそうしよう」
句読点なくするりと吐き出す。来夢も、反対することなく頷いた。彼女も疲れているのだ、相当に。身長が高い分、私よりも負担があったかもしれない。にも関わらず、文句のひとつも言わなかったのだ。
「もし問題があったとしたら」
「あったとしたら?」
「謝ろう。誠心誠意」
「……そうしましょう」
最後の力で、関口さんを一階の一室に運び、ベッドに横たえる。靴を脱がせがてら怪我の様子を見てみるが、やはり腫れは引いていなかった。
そうしてから私たちも、休ませてもらうことにする。
ここがどこかとか、連絡を取る手段だとか、そういったもろもろの考えるべき事項をすべてなげうって、兎に角、一刻も早く眠りにつきたかった。
念のために、戸締りをしておく。もしかしたら誰かが来るようなことがあるかもしれないが、その時はインターフォンで呼んでもらえればいい。
「部屋は、どうします?」
寝室と思われる部屋は、一階に二つ、二階に一つの計三つだった。二階の方のベッドは大きく、セミダブルサイズである。
「ご自由にどうぞって言われてるとはいえ、な。来夢さえよければ、二階の部屋で一緒に寝ないか」
「…………っ」
「駄目、か」
「いえ」俯き、ほんの少し頬を染める。「それがいいですね」
二階の手前、他の寝室よりやや広めのその部屋を、二人で使わせてもらう。内装も、シンプルながら整っている。大きめの窓に、私と来夢の疲弊しきった表情がうつった。
部屋の鍵をかけてから、リュックを置き、靴を脱ぎ、布団に倒れこむ。
そこでふと気づく。
一階の寝室もそうだったが、シーツも掛布団も洗濯したばかりのようだということに。まるで、あたりまえの宿泊施設みたいだと。そう、私たちが泊まりに来ることを知っていて、用意したような……。
いや、考えすぎだ。もしここが本当に、『ご自由に利用できる』施設だとしたらいつでも新しい客が来るのに備えなければならないだろう。ただ、それだけの話だ。
少し遅れて、来夢も私の隣で横になった。
……歯を磨いていない。シャワーを浴びていない。着替えもしてない。そもそも着替えを持っていない。ああ、そうか。だから彼女は恥ずかしそうにしたのか。そんな状態で同衾するなんて、ちょっと配慮が足りなかったな、と後悔した。
いろいろと懸念や不安や不満が浮かぶが、それらが大きな声を出す前に、私は意識を手放していた。