三章 『夢・出会い・魔性』
それは悲鳴――と呼ぶには些か御幣があったかもしれない。一般的に抱かれる悲鳴のイメージよりは幾分落ち着いて聞こえたのだ。パニックから捻り出された大声、と言うよりも、ただ現状を認知し、そうする必要があると頭の中で整理してから出された大声といえば良いのだろうか。まぁ俺がびっくりして振り返るには充分すぎる役割を果たしたし、そもそもその声に対して生ずる違和感など、今の俺にとっては些末な事だった。
振り返った俺の目に飛び込んできたのは、橋の袂で尻餅をついている女性と、スクーターに乗ったフルフェイスヘルメットの男の映像だった。女性が持っていたハンドバックが男の手によって強引に奪われる。
――引ったくり。
そう俺が認識したのと、身体が動いたのはほとんどど同時だった。このような非常事態に足が竦んだり、パニックになったりして動けなくならなかったのは恐らくただの幸運だろう。
女性からバックを奪うために減速したスクーターが、目的を果たしたことにより、徐々に加速を始める。――そしてそれがトップスピードになる前に、俺は体当たりを決めていた。
衝撃。
プラスチックがアスファルトを削るくぐもった音。
痛む右腕。
横倒しになったスクーターが、橋に設置されている柵に激突する。
道路に投げ出された男は直ぐに立ち上がる。
俺は放り出されたバックを手に取ると、男に向き直る。
フルフェイスヘルメットで顔は確認できないが、俺と男の目線が恐らく交錯した。
そのまま、数秒。
――否、十数秒が経過した。
……俺の心に違和感が到来する。
男の犯行はいわば失敗に終わったのだ。そしたら、自分の正体の判明を恐れて、逃げ出すのが普通の行動ではないだろうか。
俺はそう考え、――いや、勿論あの一瞬で明確にそう思考した訳では無いが、兎に角、俺ならそうすると思い――無理矢理体当たりで男を妨害したのだ。しかし男は動こうと、しない。
フルフェイスヘルメットにより、顔は確認できない。黒のライダージャケットに革のジーンズを履いている。顔が見えないからか、俺はどことなく――不気味な印象を受けた。
男は右手を使い――緩慢な動作で自分の腰の辺りを弄ると、『ソレ』を取り出した。
俺の視界に入る。
けれどそれが何なのか、理解するのに少し、時間が掛かった。
――ナイフだった。
果物ナイフだとか、折りたたみナイフだとか、そんな可愛らしいものでは、決して、なく。ただ無骨に、殺傷能力のみを純粋に追求したがゆえに到ったのだろう。独特の形状を――していた。ナイフに詳しい人間が見れば、それの持つ形状から固有名詞をピタリと当てる事ができるのかもしれないが、俺にそんな知識はないし、そんな事を考えている時間も無い。
男がゆっくりと俺に歩み寄る。それは、操り人形を彷彿とさせるようにぎこちない歩き方だったが、俺は逃げる事が、というより、動くことも、声を出すことも出来なかった。
それは先ほど日比野に対しても感じた恐怖、だったが、まるで別の物だった。
――当たり前だ。日比野だって多少腹がたったとはいえ、あれは日常の一場面。当然俺を殺す気なんて一切、無い。言ってみれば『怒った振り』を彼女はしていた訳で、俺だって『怯えた振り』をしていた訳だ。
――しかし、違う。目の前の男は圧倒的に、違う。絶対的に、違う。
俺は理解してしまったのだ。目の前の男は本気で、当然のように、俺の身体のどこにそのナイフを突き立てれば効率よく俺を殺せるかを思考し、結論を出し、行動に移そうとしている。
――怖かった。男の思考が怖かった。逃げ出したかった。でもできなかった。それは男の思考が理解できてしまったから。
今は男はゆっくりと近づいてきている。しかし、それは俺が動きを止めているからだ。どうとでも対応できるように、敢えてゆっくりと近づいてきているのだ。
俺が右に逃げれば右に。
左に飛べば左に。
後退すれば一直線に。
何通りもの俺の殺し方を、脳内でシミュレートしている。――しながら接近してくる。
そして俺が目線を切ったり、何らかの動きを見せればそのうちの一つを『選択』し、実行するだろう。
だから動けなかった。
いわば俺が動かないことでひとつの『均衡状態』が成立しているこの状況を、俺から壊したくなかったのだ。
――しかしそれは偽りの均衡だ。このまま男が近づき、その射程距離内に俺を捕らえたら、やはり殺すだろう。
それもパターンの一つ『このまま俺が動かない』というパターンとして処理される。
動いても死。
動かなくても、死。
俺は今、チェスや将棋で言う『詰み』の状態にいるのを理解した。――せざるを得なかった。
だから、
「ま、待て」
……そんな言葉を、零す。
動けない――しかし動かない訳にもいかない。だから言葉による時間稼ぎを計る。
しかし、男には通用しない。
それも当然だ。今俺がしている事は詰んだ盤面に対して『待った』を宣告しているようなものだ。勝利を確定させたこの男が俺の言葉に耳を傾けるメリットなんて、何一つ、無い。
それにしても、「待て」は無いだろう。映画などで見かける命乞いの代名詞だが、そんな言葉で待つ場面は観たことが、無い。だけど自分がその立場に置かれて初めて解かった。――「待て」しか言えないのだ。死が迫り来る状況で、冷静な取引や説得をする為に頭などは回らない。ただ、慈悲を求めて同じ言葉を繰り返すだけだ。
「待って、待ってくれ」
紡がれる、第三者から観たら滑稽に思われるだろう俺の言葉。
無視して近づく男。
それに同調して近づく射程距離。
俺の死への距離。
それが零になった時、男が体重を移動させ、ナイフを振り上げ――――
「おい、何をやっているっ」
唐突に聞こえてきた、怒声。
男の動きが止まった。
俺は声の出所に目を向ける。
橋の反対側で、どうやら誰かが俺たちに声をかけて来たらしい。ナイフ男がそちらに向き直る。
そして、停止。まだ逃げ出さない。
俺はぞっとした。
――この男は、この状況で、まだ、闘争か、逃走かを選択しているのだ。
ありえない。産まれて初めて見た、本物の、狂気。
しかし、ナイフ男は、やがて二人のうち、どちらか一人を逃がさずに、殺戮を完了することは不可能だという結論に至ったらしく、倒れたスクーターを立てて、それに跨ると、あっという間に暮れなずむ町並みへと姿を消していった。
「――おい、坊主、大丈夫かい」
振り返ると、声をかけて俺を助けてくれた人が、近くまで来ていた。
「ええ、まぁ」
「そうか、なら良かった」
俺の返答にくしゃりと相好を崩す。人のよさそうな親父さんだった。
「ありがとうございます」
「いや、いいんだよ。無事ならっ――てお前さん、時田さんとこの倅かい」
「ご存知、だったんですか?」
「ああ、由希子さんがね。よくウチで惣菜を買っていってくれて、ね」
なるほど。頻繁に夕飯に登っていたメンチカツはこの人の店のものだった訳だ。
「メンチカツ、美味しかったですよ」
社交辞令、とも取れるが、割と本音を言ったつもりだ。これを機会に俺も常連となるのも、いいかもしれない。
「ありがとよ」
彼は、また笑顔を見せる。
「っと、いけねぇ。お使いの途中だったんだ。あんまり遅いと上さんが五月蝿ぇからな」
と、いうと「じゃあ、またな」といって駆けていった。
そこで、俺は自分の手に掛かる重みを思い出す。そうだ。すっかり忘れていたけど、あいつはひったくりだったのだ。
周囲を見渡し確認すると、先ほどの女性はまだ同じ場所で座ったままだった。もしかしたら、怪我をしたのかもしれない。俺は駆け寄って声をかける。
「大丈夫ですか」
うつむいていた女性が顔を上げる。とても整った顔立ちをしていた。雪のように白い肌と、すっと通った鼻筋。長い金髪と碧の瞳から、おそらく外国の方だと思われる。
「ええ。はい。大丈夫です」
ところが彼女の返答には外国人特有の訛り、のようなものが一切感じられなかった。日本に来て長いのだろうか。
「そうですか。それは良かった」
俺はそう言うと彼女のバックを差し出した。しかし彼女はそれを受け取らず、まっすぐ俺を見ている。
「――貴方が、助けてくれたのですね」
そしてそう問いかける。
「……ええ、まぁ、そういえないことも……ない、のでしょうか」
後半しどろもどろになるのは、当然のことながら、ナイフを取り出したあいつに、手も足も出なかった事を憂慮したからだ。
――その返答を聞いても、彼女は特に表情を変えることなく、再び俺をじっと見つめる。
スーツを着ていることから、恐らくは社会人なのだろうが、とても若く見える。俺と同い年、と言われても納得できてしまいそうな顔立ちをしていた。そんな彼女にじっと見つめられると、なんとなく恥ずかしくなる。
「お名前を、お聞きしても、宜しいでしょうか」
再び彼女からの質問。街角で出会っただけの初対面の人間に名前を尋ねるという行為に、若干の違和感を覚えたものの、大して疑問に思うことなく俺は答える。そういう国で育った方なのかもしれないし。
「時田、司です」
「字は、どう書かれるのですか」
「時間の時に、田んぼの田。それから、えっと、相撲の行司の司、一文字で《つかさ》、と」
彼女はそこまで聞くと再び目を伏せる。不意の動作に驚き、俺が慌てて覗き込んでも、大した反応を見せない。
「――時間、を、司る、ね。――少々出来すぎな名前な気もしますが……まぁ、いいでしょう。良すぎる、ということはありませんし。こういうのも、結構面白いかもしれません」
こちらは見ずにあくまで独り言を呟く彼女。何を言っているのかはわからないが、あまり関わり合いになるのを避けたほうが賢明かもしれない。
「……あの、このバック」
この場を立ち去ろうと、俺は再び彼女にハンドバックを差し出す。怪我しているのかが心配だったが、本人が大丈夫だと言っているのだから、大丈夫なのだろう。
しかし彼女はそれを受け取る事もなく、何事も無かったかのようにすっくと立ち上がると、女神のような微笑を湛え、言った。
「差し上げます」
「……えっ?」
「助けてくださったお礼、です。差し上げますので、どうか有効にご活用下さい」
いや、待て。いくらなんでもそれはおかしい。このバックに何が入っているのかなど皆目見当もつかないが、兎に角――それは、受け取れない。
「いや、幾らなんでも、流石に受け取れません」
「おや、謙虚は美徳、という事ですか。しかし、問題ありません。私が差し上げる、と言っているのです」
"謙虚は美徳"の言葉の使い方を間違えている気がしないでもなかったが、問題はそこではないのだ。――というか、俺だって何が入っているか判らない鞄など、気味が悪くって仕方が無い。
「あの、そうではなくてですね」
しかしそんな俺の言葉を無視するように彼女は踵を返すと、商店街の方へと歩き出した。
「――っ、ちょっと、待って下さいよっ」
大きな声をかけるも、彼女は一切の反応を見せない。
「受け取れません、てばっ」
尚も追いすがる俺。やはり彼女は振り向かない。――この時間帯の商店街は賑わっており、なかなか追跡に苦労する。彼女はというとまるで周囲に人など居ないかのように最短距離で俺から離れていく。くそ。なんて人込みが得意な人なんだ。
“人込みが得意”なんてなんだか初めて使った言葉だな、などと思いつつも必死で喰らいつく俺だったが、徐々に距離を離され、結局は彼女を見失ってしまった。
「…………どうすんだよ、これ」
俺は右手で持っているハンドバックを目の前に掲げ、そう独り言ちる。
そういえばひったくり犯が出たのだから、警察に通報したほうが良いのかもしれないな、と思ったが、犯人はおろか被害者である彼女もどこかに行ってしまった今、それをする意味はさほどない……とも思える。
そもそもこんな赤の他人にひょいひょいと渡してしまうものなのだから、そんなに大切なものでもなかったのかもしれない。
そうすると身体を張って、右肘を痛めて、しかもあんな危ない人間に殺されそうになって下手をしたら顔を覚えられたかもしれない行動にも――あまり意味はなかったのかもしれない。
俺は釈然としない気持ちになりながらも、ハンドバックを持ったまま、帰路に着いた。