九章『死者のための音楽』
「この旅館の名前、みんなは知ってる? うん、『さらしな』っていうんだけど、実はここ、以前にもキャンプで利用されてたんだって。
私の家は三人兄弟で、一番上のお兄ちゃんとは十個離れてるんだけどさ、お兄ちゃん、神原高校のOBなんだよね。
そのお兄ちゃんが二年生の頃だから、ちょうど十年前になるのかな。その頃にはもうすでに『交流キャンプ』っていうのはあったの。伝統行事だからね。
でもその時の名称は、『交流合宿』だったんだって。今より一日多い三泊四日の日程でね。キャンプじゃなくて合宿って言ってたのは、今年みたいに『さらしな』に泊まってたからなんだよ。
ところで、なんで今年からさらしなに泊まることになったかは、みんな知ってるよね?
え? 知らない? 嘘、ゆっこ知らないの?
あのね、今の三年生に、……その、……エッチした先輩がいて、先生たちにバレて、それでなんだよ。確か、テニス部の人でね。
ん? テントでシたのって? いや、外でって聞いたよ。
……いや、いつって? 夜じゃないの? 知らないけど。って、違うよ。去年の事件は今の話とは関係ないの。あんまし深くつっこまないで。はい、その話はここでおしまい。
兎に角、十年前くらいまではさらしなに泊まってたの。なのに、どうしてその年からここを使わなくなったのかっていうとね……。
このさらしなの建物、妙な造りじゃない?
内装はそれなりに綺麗だけど、外観は病院みたいだと思わなかった?
実は以前――三十年前くらいまではここ、そのものずばり病院だったんだって。
正確には病院っていうより、療養所っていうか保養所っていうか。……保養所は違うか。
精神病の人たちの隔離施設っていうのかな、そんな感じだったらしいんだけど。
それを改装して、旅館にしたんだって。
どうしてかっていうと、三十年前に火事があったらしくて。その時所長をしてた人とか、職員の人とか、患者さんとかがたくさん死んじゃったらしいんだ。
コンクリートだから建物は大丈夫で、内装だけ変えればまだ使えたんだよね。
とはいえ、事故でそんなたくさんの死人を出した施設がそのまま使えるわけがない。
困ってたんだけど、変わり者の経営者が引き取って――で、始めたのがこの旅館さらしなってわけ。
でも全然繁盛しない。当然だよね。立地は悪いし見た目も悪い。おまけにいわくつきなんだから。経営状況はかなり悪かったらしいよ。グリーンパークが近くにできるまではほんと、いつ潰れてもおかしくないみたいだったって。
とはいえ格安だから、神原高校みたいに利用するにはある意味もってこいってわけ。
だから、十年前くらいまではここを利用してたんだよね。
……まあ、ここまでは前置き。ここからが本題。
ウチのお兄ちゃんの同級生にさ。……まあ、仮に佐藤さんって女の子がいたんだって。
割と地味目で目立たなかったらしいんだけど。長い髪が綺麗な子だったって。その子オカルトが好きで好きで、怪談に目が無かったらしいんだよね。
そんな子が、さらしなみたいなスポットに関して、興奮しないわけがなくて。
三十年前――当時だから差し引き二十年前の火事についてのこととか、療養所の事とかについても合宿の前に調べたんだって。
それで、さらしなで囁かれてる『噂』についてみんなに言って回ったらしいよ。
どんな噂かっていうと。――まあ、でるんだよね、幽霊が。
みんなさっきお風呂入ってさ、気付かなかった?
一か所だけ、シャワーがあるのに、鏡のついてない洗い場があったじゃん。
使ってないよね? え、使っちゃった? 混んでてしょうがなく?
……ふぅん。
そう。あそこ。
あそこに、出るんだよ。幽霊が。
深夜にね、誰もいないはずなのに、シャワーの音がするんだって。
そう。それで、気になって覗いてみると、髪の長い女の人の幽霊が、髪を洗ってるの。そういう噂。
見てしまったらどうなる、とかそういう細かいことはわからないけど、ね。
佐藤さんはその話をみんなにしたんだけど、全然信じてもらえなかったの。
こういう怪談みたいに話したんじゃなくて、なんていうか、必死だったらしいよ。好きな分野だからね。熱くなってたんだろうね。
そしたら同じ班の子が、そんなのウソに決まってるって言って。それで「じゃあ見に行こう」って流れになったらしいんだよね。
折角だから肝試しみたいにしようって。今日みたいにみんなで集まって、一人ずつ順番に女湯のほうに行くことにしたんだって。
トップバッターは、言いだしっぺの佐藤さん。
みんなは彼女を見送って、その間はおしゃべりをしてたらしいんだ。
でも、十分、十五分たっても戻らなくて、これはおかしいなってことになって。
次の人が迎えに行ったら、佐藤さん、女湯の前で蹲ってたんだって。がたがた震えながら、泣いちゃって。迎えに行った子が引きずるようにして部屋に連れ帰っても何も言わずに泣いてるの。ずっと震えて。かと思ったら突然笑い出したりして。様子がおかしかったって。
どうしようかってなったけど、先生に隠れてこっそりとやってたわけだから、怒られるのは嫌だ。
怪我をしてるわけでもないしってことで、その場は解散になったみたい。
そして翌朝。
同じ部屋の人が起きて、佐藤さんの方を見たらね――いなくなってたんだって。
荷物はそのままで、布団はもぬけの空。
ただ、髪の毛――人ひとり分はあるんじゃないかってくらいのたくさんの長い髪の毛だけが、シーツに絡まってたんだってさ」
時刻は夜の十時。三一〇号室。十人強の女子が集い、怪談話に花を咲かせていた。
寝間着は部屋に備え付けの浴衣を着ていいことになっている。なので全員が浴衣姿だ。
さらに、どこから用意したのか蝋燭が部屋の中心におかれ、和室、浴衣、蝋燭の炎と怖い話をするには絶好のシチュエーションが整えられていた。
F班からは二人――私と飛鳥だけが参加することになった。
心音はゴミ拾いを頑張り疲れたのだろう、風呂を上がったらすぐに寝てしまい。小鳥遊も「嬉しいですが、遠慮します」と布団をかぶった。
飛鳥はこういった話が好きだから、喜んで参加している。ひとつの話を聞くごとに、目を輝かせるのだ。
「どうだ」
エピソードが終わるごとに、語り手が机の上に置かれた蝋燭を吹き消すため、そのたびに悲鳴がおこる。喧騒にまぎれて、私は隣の飛鳥に小声で話しかける。
「なかなかだね」飛鳥が言う。「やっぱり、身近で起こった系の話は根強いよ」
「身近で起こった系?」
「そう。名前の通り身近で起こった者を題材とした話で、聞き手にとってもなじみ深いシチュエーションのこと」
「そのまんまだな」
「そのまんまだよ。この手の話は『もしかしたら自分も体験してしまうかもしれない』という心理が、より恐怖をわきたてるんだ」
「ああ……それはなんとなくわかる気がするな」
「今泊まっている『さらしな』を舞台にしたり、自分たちのOGを主役にしたりと、かなり狙ってるね」
とはいえ冷静に分析されると、恐怖は薄れるな。
着火音とともにライターの火が蝋燭に点され、再びオレンジ色の明かりがゆらめく。蝋燭の火の振動とリンクして、私たちの影も大きくゆらいだ。
「はい! じゃあ次の語り手は、不肖ながらこの高橋鮎子がつとめさせていただきます」
飲みかけのフルーツ牛乳を机に置き、こほん、とわざとらしく咳払いをしてから、高橋さんは語り始めた。
彼女の話も、飛鳥曰く『身近で起こった系』に分類されるのだろうか。私たちが今いるこの山が舞台だった。
ここの山のどこかには、不思議なコテージがある。なんでも、常に霧で覆われており、山で遭難した登山客が迷いこんでしまうらしい。
そこには誰もおらず、ただ一件のコテージがあるだけ。しかし、奇妙なことにまるでつい先ほど人がいたような状態――らしいのだ。淹れかけの珈琲や、ついたままの暖房。
迷い込んだ人間は、最初は不思議に思うも、休憩したら出発しようとする。
しかし、決して抜け出すことができないそうだ。
霧の中を進んでいくと、なぜかもとのコテージへ戻ってきてしまう。
何回やっても、何回やっても、決して脱出することはできない。そうして死ぬまで、そのコテージから逃げられない……という話だった。
火が消され、再び闇に呑まれる。
「……なんとなく、マヨイガを連想させるな」飛鳥がいう。
「まよいが?」
「そう。柳田國男って学者が『遠野物語』って作品で紹介した、民間伝承だよ。――今度、調べてみると面白いかもね」
「なあ……でも、決して逃げられないのに、なんでこの話を知ってる人がいるんだと思う?」
「響。この手の怪談で、そういう突っ込みは野暮だよ」それに、と飛鳥は続ける。「出られないだけで、電話はつながるとか、かもよ」
「……確かに、私が野暮だった」
しかし、なかなか火がつかない。消した人が自分のタイミングで、再びつけるのがルールなのだが……。
「あれ?」とか「えっと」とか、戸惑ってる高橋さんの声が聞こえる。うーん。
これは、大丈夫だろうか。
ややあって。固い音。「きゃ」という高橋さんの悲鳴が聞こえた。まさかとは思うが、おそらくこれは机に置かれた、フルーツ牛乳の瓶が倒れた音ではないだろうか。
硝子が机を転がる――ゆあん、ゆわんという音。液体の流れる音。慌てた高橋さんが、どこかを机にぶつけた音。「痛っ」という彼女の声。
視界が闇に閉ざされているため、それらの音がはっきりと聞こえた。
冷たい感触。が、私の足に襲い掛かる。
「ひぃっ」
思わず変な声が出てしまって、あわてて口を押えた。
――ああ、まずい。浴衣が、濡れるのがわかる。
フルーツ牛乳の甘い芳香が鼻をつく。
「電気、電気つけてっ」
強烈な明るさに目を閉じるが――少しして、目が慣れてくると、蛍光灯が映し出す惨劇が飛び込んできた。
倒れた瓶。ぶちまけられた中身。運が悪く、私に向かって真っすぐ伸びてきて、机のふちから滴っている。太ももから下はびっちょりと濡れていた。
「…………」
訪れる沈黙。やってしまった。誰もがそんな顔をしている。
「ごっ、ごめんなさいっ」
我に返った高橋さんが、床に頭を押し付ける勢いで謝罪をしてきた。
「す、すぐに拭きますねぇっ」
彼女は中身がまだ少し残っている牛乳瓶を慌てて掴み、立ち上がる。しかし、突然立ち上がって――正座をしていたのに急に立ち上がって大丈夫だろうか。
大丈夫ではなかった。
「あ、足が」
しびれていたのだろう。ぐらりと崩れ落ちる。すっぽぬけた牛乳瓶は、私の方へ放物線を描いて飛んできた。
咄嗟に手を出し、なんとかキャッチする。しかし、慣性の法則によって運動し続ける瓶の中身が、私の顔にぶちまけられた。
「…………」
今度は、より深い沈黙。私の顎からぽたり、ぽたり、と滴り落ちるフルーツ牛乳の音が響くほどだ。
「あ、あああああっ」
顔を真っ青にして、泣きそうな表情を浮かべる高橋さん。こっちが被害者なのに、なぜかなぐさめてしまいたくなるほどの慌てっぷりだ。
「す、ストップっ」私は叫ぶ。「落ち着け、落ち着いてくれ高橋。いいか、落ち着け、大丈夫だから」
これ以上ドジを重ねないでくれ。いやほんと。
笑いの神がおりてきてるような奇跡なのに、泣きたくなるのはなんでだろう。
幸運にも――お風呂場がまだ空いている時間だったため、私はもういちど入りなおすことになった。
さすがにフルーツ牛乳臭を漂わせたまま睡眠するのは避けたい。浴衣は、高橋さんの部屋のあまりを借りることになった。下着まで濡れてしまったため、一度自分の部屋に戻る。眠っているふたりを起こさぬよう、こっそりとパンツとブラとタオルをとりだした。
夜の廊下を進む。照明の光量が抑えられていて、道中は不気味だ。散々怪談で盛り上がったあとだから、なおさら恐怖が掻きたてられる。
そういえば――と、思い出す。確か、女湯には幽霊がでるという話があったと思い出す。
もちろん、あれは怖い話として語られただけで、あくまで怪談だ。フィクションだ。
実際に幽霊がいるはずがない。とはいえ、怖いものは怖い。身近で起きた系の効果がさっそくあらわれている。
先生に見つかるわけにもいかず、足音を立てないよう慎重にお風呂を目指す。
暖簾をくぐると、脱衣所であることに気付く。
明かりが、ついていた。
さらには、誰かがシャワーを浴びる水音が聞こえる。
そう、先客がいるのだ。こんな夜遅くに。
つい先ほど聞いた怪談が、頭の中をリフレインする。
さっき入った時は大勢だったため、それに比べると驚くほど静かだ。連続的な水音だけが鼓膜をゆらす。
――深夜にね、誰もいないはずなのに、シャワーの音がするんだって。
……莫迦莫迦しい。
たまたまだ。現に私だって入りにきているのだから、偶然、同じタイミングで入るひとがいるだけだ。
あがり框の隅に揃えられた、一足のスリッパ。さらには脱衣所の籠に置かれた着替えが、それを物語っている。
私はさっさと浴衣を脱ぎ、タオルを手にすると風呂場への扉を開けた。
――髪の長い女の人の幽霊が、髪を洗ってるの。
いた。髪が長い女が――例の、鏡のついていない洗い場に――。
顔はわからない。頭を洗っているからだ。腰まで届きそうな黒髪が、前に垂らされている。
肌は白い。腕も、足も、尻も。女性らしい体つきだ。胸も大きい。しかし――。
私の目はある一点に、釘づけになっていた。
一点。それは、背中。
最初は、刺青かと思った。
その女の背中には、翼の模様が描かれていたのだ。片方だけ。だから、そういうファッションなのかと。
しかしそうではない。それにしては、色が奇妙だ。その模様は紫色だった。
それに、なんというか、それは。
「……え」
今までは髪を洗っていて気付かなかったのか、その女性がこちらを向いた。目が合った。私は、言葉を失う。
「なっ……小鳥遊?」
そう、彼女は、まぎれもなく、部屋で寝ているはずの――クラスメイトの――小鳥遊、来夢だった。
寝ている、はずだが。しかし、確認はしてない。さっき下着を取りに戻った時も、彼女の姿を見たわけではない。
こちらを見る、小鳥遊の表情。
小鳥遊と知り合ってそんなに長くない。――普段はほとんど感情をみせない彼女が、こんなにもはっきりとした表情を浮かべるのは、はじめてだった。
その感情は、
――怯え。
彼女も私が誰かわかると、すぐに立ち上がった。
「あ、おいっ」
そしてそのまま――恐怖の感情を浮かべたまま――身体も拭かずに脱衣所へと駆け出す。
転びそうになることもなく、脱兎のごとく逃げ出した彼女。
私は、彼女を追うことができなかった。
なぜなら、すれ違った時。私は彼女の背中の模様の正体を、はっきりと視認したから。してしまったからだ。
あれは、刺青なんかではない。
あれは――火傷の跡だ。
ほんの少し浮き出た、青紫色の丸い跡。
ただの火傷ではない。見たことがある。煙草だ。
煙草を肌に押し付ける――いわゆる『根性焼き』と呼ばれる行為によってできた、火傷あとだ。
その丸いやけどが集まって――隙間のないほどに集まって――片翼の模様を描いていたのだ。印象派の画家が、筆のタッチを強調するために色を置くように。
彼女の白い背中というカンバスに――描かれていたのだ。
隆起した、青紫色の翼。
その正体を理解し、怖気がはしる。
根性焼きで描かれた絵? なんだそれは。
根性焼きというのは、その名の通り、不良たちが根性を試すために、自分の手の甲あたりで煙草の火を消すのが元来の方法である。もっと古くになれば、先輩が後輩に煙草を押し付けることもあったそうだが。
なんにせよ、小鳥遊が自分でやったわけがない。そんなことをするやつではないし、それ以前に、自分の背中に煙草を押しつけるなんて不可能だ。
ということは、必然的に、誰かにやられたということになる。あれだけの傷をつけるのに、どれだけ煙草を使えばいい? 十本やニ十本では足りない。
気持ち悪い。ありえない。
誰にせよ他人の背中に煙草を押し付けるなんて、ましてや、それで絵を描くなんて、正気の沙汰じゃない。狂気じみた暴力。
……気持ち悪い。生理的嫌悪感に襲われた。吐き気がする。口許を押さえる。
少しの間近で見た、彼女の『翼』は、芸術とは程遠い。ただひたすらに、痛々しかった。ごつごつと隆起し、生々しい火傷。グロテスクな傷跡。
歪んでる。悪趣味なんてもんじゃない。
誰がやったのか考える。いじめかとも思ったが、いくらなんでもそれはないだろう。だとしたら――
虐待。
その言葉が脳裏に浮かぶ。
その可能性が高い気がした。高校生で、一人暮らし。珍しいと思っていたが、まさか。
蹲る。寒気がする。
なんだそれは。なんなんだそれは。
私は理解する。
小鳥遊は、隠したかったのだ。あの翼を。生々しく痛々しい傷跡を。
だから、あの日だなんて嘘をついて、みんなと一緒にお風呂に入ることを拒んだのだ。そうしてみんなが寝静まったあとに、ひっそりと、身体を洗っていたんだ。
そういえば、何度かあった体育の授業でも、彼女が着替えている姿を見たことはなかった。トイレかどこかで着替えていたのだろう。別段、気にするようなことでもなかったが、いまになってみれば。
あれも、そう、隠すための行為だった。
「う……」
目頭が熱くなる。つんと、鼻の奥がしみる。そうして、自分が泣いていることに気付いた。
しかし、何故泣いているのだろう。
悲しいのとも違う。悔しいのとも違う。
腹立たしいのだろうか。何が。あんなことをした『誰か』か。あるいは、今まで気付けなかった自分がか。
わからない。やるせない気もする。こんな激しい感情を抱くことはそうそうないが、どんな感情なのかわからないのは初めてだ。
よくわからない激情が、ごちゃまぜになって、ぐるぐると全身を駆け巡る。
「う……ううう……」
うめき声が漏れる。ぽたりと、涙が落ちる。視界がにじむ。
一人残されたお風呂場で、私は静かに泣き続けた。どうして泣いているのかもわからないままに。