八章『全ては愛のターメリック』
カレーライス。
様々な種類の香辛料を用いて、肉、野菜などの具材を味付けした料理のことである。
発祥の地はインドであるが、日本には明治時代のころに輸入された。
そして長い時間をかけ、独自の進化を遂げた日本のカレーライスは、いまや国民食と言っても過言ではない位置づけになっている。
みんな大好き、カレーライス。
大事なことなので二回言うが、みんなが大好きである。
私の十六年弱の人生において、カレーが嫌いな人間にはひとりしか会ったことがない。
その奇特な人間と言うのが、私の実の姉である希姉さんなのだから、血の繋がりというのはわからないものだ。
ちなみに、もちろん私はカレーライスが好きである。とても、好きである。
どれくらい好きかというと――クリームシチューと同じくらい大好きなのだ。
……辛いものは苦手なため、甘口にしてくれると、とても助かるのだが。
七篠グリーンパークの設備の一つに、屋外の調理場、というものがある。ガスコンロ、流しなどの基本的な調理器具が、屋根付きの建物に並べられているのだ。
せっかくの大自然、キャンプ場なのだからそこで料理を作る人もいるだろう。そんな至極当然のニーズに応えるための、大自然の台所といったところだろうか。壁はとっぱらわれており、十数本の柱だけなので、視界を遮るものはほとんどない、開放的な台所、といった所である。
そこコーナーの隣には、飯盒炊爨をするためのスペースがある。折角のキャンプ。ごはんを炊くのに炊飯ジャーでは風情がない、という匠の粋な計らいがうかがえる。
「うまい!」氷室はカレーを一口頬張ると、目を輝かせて叫んだ。「こいつはうまい」
そういって紙の皿に盛りつけられたカレーを、掻きこんでいく。
氷室ほどオーバ・アクションでないものの、飛鳥や藤倉といった他の班の面々もおいしそうに食していた。
かくいう私も、文句のつけようのないできになったカレーに夢中になっている。
自分たちで、キャンプ場で作ったカレー、というロケーション的な付加価値もあるのだろうが、やはり普段のカレーに比べてもずいぶん美味しさが上がっている。気がする。
カレーを食べながら、ちらりと多賀の顔色をうかがう。
露骨にテンションが落ちているように見えるのは、気のせいではないだろう。口数も少なく、機嫌も悪いように思えた。むすっとした顔のまま、カレーを黙々と口に運んでいる。
藤倉や心音、飛鳥もちらちらと彼の方の様子を気にしているのがわかる。
小鳥遊が言いふらしたとは考えにくい。つまり事情を知らない人間にも、多賀の様子は異様に見える、というわけだ。
氷室がいつも以上にハイテンションなのも、なんとなく、空気が重くならないようにするための気遣いに思えた。意外と場の空気に対して敏感な奴である。
小鳥遊もフった負い目があるのか、いつもより暗い気がする。もっとも小鳥遊に関して言えば、普段からそんなに明るい性格ではないため、判断の難しいところではあるが。
まずいな、と私は懸念する。
いや、カレーのことではない。多賀のことだ。
このままギクシャクとするのは、非常によろしくない。
集団行動をする際に、不和が生じるというのはとてもよくないことだ。特に、色恋沙汰に関しては。
明日はオリエンテーリングがある。チームプレイが要求されるであろうことは、想像に難くない。私は負けるのが嫌いだ。このままの状態で勝負に臨むというのは、確実に勝率を下げることにつながるだろう。
それ以前に、純粋に楽しくない。
私はゲームが好きだ。勝つことはもちろん好きだが、それ以前に楽しむことが重要だと考えている。
ギスギスした状態で、楽しめるとは思えない。建前とはいえこのキャンプは親睦を深めることが目的なのだから。
何とかしなければ。
とはいえ、何をすればいいのかもわからない。惚れた腫れたというのは、あくまで多賀と小鳥遊ふたりの問題である。第三者が必要以上に首をつっこんで掻き回すのが、得策とは思えない。
そしてこの場合、もう結果はでているのだ。
小鳥遊が"ノー"と言った以上、あとは多賀の心持ち次第である。
――恋人は無理でも、友人として。
そう吹っ切ってもらえれば、それで終わる話だといえる。
――そう終わらないから問題なのだし。
――そう終われないのが問題なのだが。
やはり男子としては、告白を断った女子に対し、まるで気にしていないようにふるまうのは難しいのだろう。
いや、そういった気持ちも十分に理解できる。理解できるが――それでも、もう少しドライにふるまってもらいたい、というのが本音なところだ。
露骨にさけられるのは後を引くし、気分のいいものではない。
それに、なんというのか、そういう態度は「男女間の友情」を否定しているような気がするのだ。
「友情」と「恋愛」は同一線上に存在する感情ではない。「友情」が「恋愛」の下位互換なんていうのは、悲しすぎる。恋人になる関係ではないとしても、友達にすらなれないというその姿勢は、なんというかちぐはぐではないか。
何とかしなければ。
そう思い、ひとまず私は目の前のカレーを味わうことにした。
などと決意したところで実際どうなることもなく。時間は淡々と経過し、あっという間に日が暮れてしまった。
グリーンパークの隣にある旅館が宿泊先だ。
しかし、山の中にそびえたつ佇まいは想像していたよりも……言葉を濁すならばシンプルといえた。
集合住宅のように長方形の建物で、もとは白かったような色合いのくすんだ灰色。壁はところどころがひび割れており、裏側の方にはよく橋の下にあるような、スプレーによって描かれた抽象的な落書きがほどこされている。あれは一体、アルファベットなのか蝶々なのか炎なのか。何をモチーフとしているのかいまだによくわからない。
建物の高さは結構あるが、なぜかいくつかの窓に鉄格子がついているのが気になった。
旅館というよりもむしろ病院みたいだな、とは口には出さない。バスを降り、間近で見上げると威圧感はさらに強まった。
とはいえ、私も含めてだが――クラスのみんなに特に落胆した様子は見えなかった。
クラスメイトたちと共に一夜を過ごすという特異なシチュエーションの前では、宿泊施設のよしあしなどは問題にならないのだろう。
男女別、一班ごとに部屋が割り当てられている。通常は三人ずつだが、私たちの班は女子がひとり多いので、四人部屋となる。
三○七号室の扉を開ける。八畳ほどの和室だった。隅には布団がしまわれているであろう押入れが。部屋の奥には襖で区切られたちょっとした空間があった。そこは畳張りではなく、椅子とテーブルがおかれ、鏡と洗面台が備え付けられている。
カーテンを開けた心音が「おおー」と感嘆の声をあげた。つられて窓の外をみると、青々とした木々が織りなす風景が広がっている。夕暮れによって染められて、お世辞抜きできれいだと思った。
「いい景色だな」
私が言うと、心音が頷く。
「そーだねー。やっぱこう、旅行に来たーって感じがするよね」
部屋に荷物を置き、人心地がつくと、すぐに六時になってしまった。夕食の時間である。
一階の宴会場『竹の間』が、夕食の会場だ。私たちがつくころには、すでにクラスのほとんどが集まっていた。
ずらりとならんだ膳。そこには山の幸や煮物の類がならんでいて、もう食事の準備は万全といった調子である。ちょっとした先生の話のあと、すぐに食べ始める。
「この鍋」
私は小鳥遊に話かける。
「鍋……ですか?」
「そう。この小さめで、固形燃料であたためるタイプの鍋って、この手の食事の時には絶対あると思わないか?」
「確かに、そうですね」
小鳥遊は、火の加減を確認しつつ頷いた。
「やはり、宿泊するお客の人数にもよりますが……たくさんの量をつくるとなると、当然できたてを提供するわけにはいきませんから。少しでも温かいモノをたべていただきたいという配慮では?」
「うん」適当にふった話題なのに、思ったよりまじめに返された。「温かい料理はそれだけでワンランクあがるからな」
「私は、好きですよ」
そう言ってくつくつと煮える鍋のふたを開けた。
ふわりと湯気が立つ。中の肉はすでにいい色合いになっていた。
「もう、大丈夫みたいですね」
私もふたを開け、鍋をつつく。
白滝を食べていると、私の――小鳥遊とは反対側の隣に座っているクラスメイトが話しかけてきた。小柄でショートヘアの女の子だ。確か、高橋さんといったはずだ。明るく、顔が広いが結構おっちょこちょいという印象だ。教室でよく転び、そのたびに何かをひっくり返している。
「ねえ、日比野さん、小鳥遊さん」
「なんだ」
「あのさ、ウチら点呼の後に、怪談する予定なんだけど」
「……怪談?」
それは、それは。夏にはまだ早いというのに。しかし、お約束といえばお約束のイベントでもある。
「おもしろそうだな」
「でしょ。そんでさ、F班の四人もよかったら、どう?」
「いいな。飛鳥と心音にも聞いてみよう」
「やった。九時半に、三一〇号室で――ぇっ!」
小さくガッツポーズをした拍子に、コップに入ったオレンジジュースをこぼしてしまった。慌てて布巾でぬぐおうとする。やっぱり、そそっかしい。
「ああ。ありがとう」奮闘する高橋さんに礼を言ってから、小鳥遊を見る。「楽しそうだな、なあ――」
小鳥遊の箸が止まっている。表情は変わらないが、視線の移動が少しだけぎこちない気がした。
これは、ひょっとして――。
「……もしかして、小鳥遊怖いの苦手なのか?」
「まさか」
彼女は首を振る。
――ダウト。
私は心の中だけで呟いた。鉄面皮なところがある小鳥遊の、意外な弱点を発見した。ほんの少し、微笑ましいなと思った。
からん、と。
湯桶と床がぶつかりあう音が響く。ゴミ拾いでかいた汗を流す時間だ。
露天風呂ではないが、温泉を使っているらしい。じっくりと湯船につかっていると、じんわりと筋肉がほぐれていくのを感じた。
「あ、あー」
「飛鳥ちゃん、おやじっぽいよー」
気持ちいい声を挙げる飛鳥に、心音がつっこんだ。しかしそんなことを気にする様子もないほど、飛鳥の顔はリラックスしきっている。
クラスごとに入浴時間が決められているため、家にいるときほどのんびりとすることはできないが、それでも十二分に癒される。
「そういえば、小鳥遊は?」
さっきから姿が見えない。
「あー、あの日だって」飛鳥が答えた。
「うーん。残念だねー。汗で気持ちわるいんじゃないかなー」
そうだったのか。
と、本人がいないのをいいことに、飛鳥がずいと踏み込んできた。
「そういや、どうだって?」
「なにが?」
「いや、ゴミ拾いのとき、二人でいたじゃん。時田とのこと、訊いたんじゃないの」
まだそれを言うか。
特に隠すこともないので、正直に答える。
「別に、つきあってはいないそうだ」
「今のところは?」
「怒るぞ、飛鳥」
「――そういえばさ」心音が、思い出したように呟いた。「多賀君、様子が変だったよね」
「……ああ、そうだな」
多賀が小鳥遊に告白したことは、二人にも言ってない。むやみに言いふらすようなことではないからだ。
とはいえ、彼の様子がおかしいのは、班の全員の目にも明らかだったらしい。
心音が今そのタイミングで口にしたのは、もしかしたら小鳥遊とのことを察しているのかもしれない。
「あーもおかしいと、何かあったのかって思っちゃうよ」
心音が続ける。
すると飛鳥が肩をすくめた。
「ま、何があったにせよ、明日にはよくなってるさ」
「……なんでだ?」
「氷室がいるだろ。きっと今夜、元気づけるようなことをするはずさ」
飛鳥のその口ぶりは、妙に確信を得ているように思われた。飛鳥と氷室は小学校のころからの腐れ縁だそうだ。だからだろうか。
まあ、失恋の傷を慰めるのは、やはり同性同士のつきあいだろう。確かに、氷室ならなんとかするかもしれない。飛鳥がそういうのだから、きっとそうなるのだろう。
C組の入浴時間が迫った。いそいそと湯船を上がる生徒がでてくる。脱衣所もこむだろうから、早めにでることにしよう。
夜はまだ、はじまったばかりなのだから。