五章『あいうら』
家に帰ると希姉さんが、ソファーに寝っ転がっていた。
「おかえりー」
手足を投げ出しながら、だらしなく挨拶をしてくる。これでも希姉さんは、華の女子大生――女子大生なのだ。
「ただいま」
テレビのチャンネルをばちばちと回す姉さん。我が家は最近テレビを新調し、番組一覧を表示することができる機能がついている。しかし、昔からの癖らしく、姉さんはいつもチャンネルを直接変える。
私が買ってきたお菓子をテーブルの上に置くと、ビニールのこすれる音を耳ざとく聞きつけた姉さんが反応した。
「なに? おいしいものっ? だったらちょーだいっ」
「やるか」にべもなく断る。「これは明日からの貴重な食料だ」
姉さんがぐるりと回転した。ぬおーと気の抜ける声をあげる。
「あー、そっかー、明日からキャンプだっけー。いいなー、青春やなー」
「姉さんだって、まだ大学生だろう」
「甘いなー、響。大学生と高校生の間には越えられない大きな壁があるんよ」ビニール袋に手を伸ばしながら言う。「響も、今のうちにヤれることはヤっときなよー」
姉さんの手からビニール袋を遠ざける。
「やれることって?」
「そりゃあんた、部活とか、恋愛とか」ちょっと間をおいて。「初体験とか」
「はっ、は!?」
何を言い出すんだこいつは。
「あれ? そういえばキャンプとか丁度いいタイミングじゃない? うはー、いいねー若いねー」
「な、何を」
「そういう行事の前とか最中ってカップルできやすいのよねー。どう、響もニ、三人くらいからモーションかけられてりしてない?」
「あるわけない」
「ふーん」
姉さんは横目で意味深に私を見つめる。
「ま、それならそれでいいんだけど。それよりアレよ? エッチするときはちゃんと男にゴム着けさせるのよ? 言わないと、なんだかんだで生で挿れようとするからね。あ、ちゃんと準備した? なんなら一箱ぐらい融通してあげてもいいけど」
「馬鹿っ」私は声を荒げる。「ない。ない。絶対に、ないっ」
「やだなー照れちゃってー」
ソファーから立ち上がって、こっちにくる。まだお菓子を狙っているのか。
「あ、そっか。司くん参加できないんだっけ」
「は?」
「そりゃ、浮気できないわねー」にじり寄る姉さん。間合いを慎重に測っている。
「何を言ってるんだっ、そ、それは関係ないし、浮気って、司とは別にそんなんじゃないし意味わかんないし」
「とりゃ」揺さぶりをかけた隙に跳びかかってきた。
「あっ」
手から弾かれるスナック菓子。姉さんが、いつもなら決して見せないような俊敏さで私から奪取する。
「ふっ、焼きトウモロコシ味をチョイスするとは。さすが我が妹、わかっているわね」
「返せ! とんがりコーン返せ!」
「甘いっ」
などと取り合いをしている私たちを、台所にいる母さんは「仲がいいわね」なんて言いながらのんびり眺めていた。
「母さん、何とか言ってやってくれ!」
「希。あんまりいじわるしちゃ駄目よ」
「違うわ。これは一見ただのいじわるに見えるけど、その実は私は響のことを第一に考えているのよ」
「どこがだっ」
「主にダイエット的な意味で」
「大きなお世話だっ」
キャンプ当日。集合場所である校庭に行くと、すでに八割方の生徒が集まっていた。もう集合時間の十分前であるから、当然のことかもしれないが。
「おっはよー響ちゃん。いい朝だねぇー」心音が大きな声であいさつをしてきた。
確かに、雲ひとつない青空だ。
「おはよう」と返す。正直、眠い。
「なんだ、響。大きなあくびなんかして」飛鳥が、からかうような笑みを浮かべた。「もしかして、興奮して寝付けなかったのか?」
「そんな馬鹿な」否定する。「小学生じゃあるまいし」
がやがやと騒々しいクラスメイト。班ごとに整列するはずなのだが、なかなかまとまりそうにない。やはり、普段とは違う環境に置かれ、テンションが少しおかしくなっているのだろう。私も人のことが言えた義理ではないのだが。
しかし、こう、いざ出発となると、やっぱり、わくわくしてくる。
ふと、小鳥遊の姿が見えないのに気付いた。
「小鳥遊はどうしたんだ?」
「来夢ちゃんなら、お手洗いだってよー」心音が、自分のとは違う鞄を掲げながら言う。
「アイツも、案外緊張してるのかもな」飛鳥が、もう一つのカバンを揺らす。
そうだろうか。
と、いうか「アイツも」って言いながら、私に視線を向けるとは、どういうつもりだ。
「小鳥遊と言えばさー」
飛鳥が、私を見つめながら続ける。その視線は、邪だった。なんだか嫌な予感がする。
「どうなんだろうなー、時田と」
「は?」
唐突に、何を言い出す。
「いや、だからさ」飛鳥が口元を斜めにした。「つきあってんの? あのふたり」
「は? 何を言っている? だいたい、そんなこと、私が、知るわけないだろう」
そもそも、知るとか知らない以前に、そんなことがあるわけない。
あるわけないだろう。
いや、多分。きっと。おそらく。
「うーん。私の見立てじゃ、かなりいい感じだと思うんだけどなー」
「何がだ。第一、なんで私に聞くんだ。直接聞けばいいだろう」
「えー」飛鳥がにやける。「だってさー、いいの? このままじゃ時田、とられちまうかもよ」
「とらっ――」
言葉を失う。なんで、希姉さんといい、飛鳥と言い、そう――そういう考え方をするんだ。
「なあ、心音」飛鳥は、心音に話題を振った。
「そうだねー」
心音がによによと笑みを浮かべながら、近づいてきた。口が、『ω』のような形になっている。まずい。これは、心音が誰かをからかう時の表情だった。
「正直、来夢ちゃんがどう思ってるかはわかんないけど、司君は結構、気になってるんじゃないかなー」
「……根拠は?」
「名前だよー」心音が、人差し指を立てる。「司君ってさ、大抵だれでも苗字で呼ぶけど、なぜか来夢ちゃんのことだけは、下の名前で呼んでるよねー。それってちょっと怪しいんじゃないかと、私は思っているわけですよー」
確かに。それは大分、気になっていた。
だって、私のことも未だに『日比野』って呼んでるんだぞ。なのに。
いや別に、悔しいとかそういうわけではないのだけれど。
「それにさー」心音は続ける。「来夢ちゃんって凄い綺麗じゃない? あんな子が傍にいて、揺れない男子なんてそうそういないんじゃないかなーって」
「そうだよな」飛鳥が便乗する。「ほら、キャンプなんていい機会ジャン? 腹割って探りを入れてみるとかしてみれば?」
ふたりのニヤけ顔。なんだ、“腹割って探りを入れる”って。それ腹が割れているのか?
腹が立つ。まったく、他人事だと思って、まったく。しかし、ムキになって反論したりすれば、自分の首を絞めることになるのは必至だ。
だが、こういうのは好きじゃない。
私は、からかうのは好きだが、からかわれるのは嫌いなんだ。
そこで、この流れを変えることにする。
じっと、心音に視線を送る。彼女と視線が合ってから、それとなく切り出した。
「確かに、な。小鳥遊は綺麗だ。ちょっと嫉妬するくらいにな」私は、飛鳥に向けて言葉を放つ。「特にあの髪の毛。黒くて長いのは羨ましい」
「だよなー」乗ってきた。
「それに」私は続ける。「小鳥遊は、凄く胸が大きい」
「…………」
飛鳥の言葉が詰まった。しまったと後悔したような表情を浮かべる。もう遅い。
「なあ、心音」私は心音に話題を振る。しかし、その間も視線は一点を凝視したまま動かさない。
「そうだねー」私の意志をくみ取った心音も、ある部分を見つめたまま言う。「おっきいよねー。よく体育の時間とか、男子がガン見してるよねー」
ある部分――そう、言うまでもないだろう。飛鳥のバストだ。
私たち二人の視線を受けて、飛鳥が腕で自分の胸を隠した。
「な、なんだよ。どこ見てんだよっ」
「どこってー?」とぼける心音。凝視。
「何を言っているんだ? 飛鳥は」穴が開くほど、凝視。
「お、おいっ、なんだよっ、言いたいことがあるならはっきり言えよっ」
すすす、と鞄を胸の前に持ってきて、視線をガードしようとする飛鳥。無駄だ、無駄な努力だ。無駄無駄。
そんなものお構いなしに見つめ続ける。
「言いたいことってなんだ? 私たちは今、小鳥遊の胸が大きいなって話をしてるだけじゃないか」
「そうだよー。飛鳥ちゃんこそ、何か言いたいことがあるんじゃないのー?」
「はっ? 別に羨ましくないしっ」
――掘ったな、墓穴を。
「羨ましい?」私は、驚いたような声を出す。視線はそらさずに。「羨ましいってなんのことだ?」
「さあねー」心音が、精一杯考えたような声を出す。視線はそらさずに。「でも、文脈的に考えて、胸のことじゃない?」
「ち、違うし。全然胸なんか羨ましくないし。下手なワンピースとか着たら、太って見えるじゃん、あれ」
必死の弁解。私はそれに対してほおと感心したような声をあげる。
「そうかそうか、それもそうだな。確かにゆったりとした服は着づらいものがあるかもなー」
「そうだねー。でも、私、飛鳥ちゃんがワンピース着てるとこなんて、見たことないよー?」
私たちの猛攻に対し、飛鳥は「うがー!」と頭を掻きむしる。
「なんでだよ! 今さっきまで響をいじる流れだったじゃん!」
「甘いな、飛鳥」私はさっき彼女が浮かべていたような、意地の悪い笑みを顔に張り付ける。「流れなんてものは刻一刻と変化するんだ」
「そうだねー」心音も笑う。「あまあまのアンマミーヤだねー」
涙目になる飛鳥。ふはは、他人をからかうのは、楽しい。
ほどなくしてトイレから帰ってきた小鳥遊に、飛鳥は「まったく! お前のせいでまったく!」と憤慨しながら鞄を返した。
小鳥遊は、わけがわからないといった顔をしていた。そりゃそうだ。