四章『キミの記憶』
バロック。
水柿京子の質問は、"バロック"という言葉を聞いたことがあるかどうか、というものだった。
私は一度間を取り、考える素振りを見せてから、彼女の目を見て答える。
「知らないです」
その返答に、彼女は口の端を釣り上げる。
「ダウト」彼女は言い切った。「汗をなめるまでもねーな」
「…………」
「おらおら、さっさと吐いちゃったほうが身のためだぜ」
仕方ない。私はごまかすのを諦めて、自分の知る事実を正直に説明することにした。
「……確か、建築とか音楽とか文学とかの美術の様式でしたっけ」
「そうだね。バロック建築とか、バロック音楽とかは有名かもな」
水柿は手のひらを上に向け、四本の指を"くいくい"と数回曲げる。もっと喋れ、というサインに見えた。
「あとは……歪んだ真珠、のことをそう呼びますよ、ね」
そう。真珠は本来正円が美しいされ、好まれる。だが、歪んだ真珠もまた独特の趣があるとされるのだ。そしてその歪んだ真珠のことを、『バロック』と呼ぶらしい。宝石業界の用語のひとつだ、多分。
「うんうん。女の子だからね。宝石とか好きだろう?」
それは偏見というものだろう。嫌いじゃないが。
……しかし、バロック、か。
確か司から、聞いたことがある。
「それと、これは友だちから聞いたのですが――」
「なに?」
期待に満ちた目をしている水柿に、最後の心当たりを告げる。
「バロックという名前のゲームがあるそうです。プレステで」
何かを期待していたらしい彼女は、大げさにずっこけて見せた。縛られた黒髪が、動物のしっぽのように上下した。「ゲームかよ」
「まあ、こんなところでしょうか」
"バロック"という単語から聞いて連想した事柄は、これで全部だ。嘘偽り隠し立てはない。これでもまだ私に何かを要求するなら、彼女の観察眼はハッタリだったということになる。
まあ、もしそうだとしたら、そんなものに引っかかる私も私だが。
「ふむ」彼女は顎に手を当て、私の顔をじっと見つめる。「どーやら本当にそれ以上知らないみたいだな」
そしてヤス――という男性に視線を送った。
「ヤス、この娘もシロだ」
「……まあ、貴女が言うならそうなんでしょう」
どうやら彼女たちが聞きたかったのは、そういう答えではなかったらしい。
――つまり、もっと別の"バロック"という単語がさす名称のモノがあって。
彼女ら二人はそれを探している、といったところだろうか。
それが二人の用件ならば、私はもう用済みのはずだ。とっとと帰ってもよかったが――少し気になって水柿に尋ねた。
「あの、"バロック"って、なんなんですか?」
「それは、私達の言うところのって、意味か?」
私は頷く。
彼女は少し考えた後、こう言った。
「『消火器』だよ」
「え?」
「言ったろ? 消火器詐欺っつーのがあるって。"バロック"っていうのは、詐欺師が売りつける『消火器』みたいなもんだ」
「……はあ」
するとスーツの男性――ヤスが、口をはさむ。
「〈蛇〉。うまいたとえを言ったつもりだったなら、だいぶ見当外れですよ」
「ああん?」
「『奴等』が詐欺師と称したのは中々的を射ていますが、〈歪んだ真珠〉が『消火器』というのはいただけません」
彼は眼鏡の位置を直した。
「……まあ、確かに、な」水柿――いや、蛇、と呼ばれた彼女は、彼の言葉を首肯する。「あれはそんな生易しいモンじゃねーな」
そして「でもよ」と言葉を続けた。
「じゃあ、ヤスだったらなんて説明するよ」
その問いに、ちょっと考える仕草をしてから、ヤスは答える。
「しいて言えば『不良債権』、でしょうか。――ま、そんなことはどうでもいいです。早く終わらせましょう」
その言葉を聞いた水柿は、笑みを浮かべた。
「ああ、そのことなんだけどよ。今回の『鍵』、私に決めさせてくれないか」
「……何か考えでも?」
「女の勘って奴だ」
男性は呆れたように息を吐き出した。
「まあ、いいですけどね」片手で眼鏡の位置を直す。「それで、何にするんですか?」
「ああ。その前に」
水柿は私に向き直る。
「なあ響ちゃん。生徒手帳かなんか持ってない? 定期入れでもいいけどさ」
生徒手帳など持っていない。
「定期なら、ありますけど?」
「おっけー、おっけー」
水柿は名刺を差し出してきた。思わず受け取る。
名刺。
それは、企業名も個人名も一切書かれていない、奇妙なものだった。
ただ一件の電話番号だけが、手書きでぽつりと書かれている。
「なんです、これ」
「私んとこの連絡先。定期券の裏にでも入れておいてよ」
なんだそれは。なぜ、初対面の怪しい人間から受け取った名刺に対し、まるで恋人の写真のような扱いを強いられなければならないんだ。いったい誰がそんな真似をするか。
私はそう思いながら、素直に名刺を定期券の裏に差し込んだ。
――あれ?
「さっきも言った〈歪んだ真珠〉ていうのはかなりやばいモンでな、もし響ちゃんがこれから先その名前を聞くようなことがあったら、何を優先してでもその電話番号に連絡してくれ」
「――は?」
いや、待て。名刺? どうして?
バロック?
「いいな、絶対だ」
「なんで――」
「危険なんだ」彼女は私の言葉を遮る。「いいか、響ちゃん。――自分のことを詐欺師だという詐欺師なんて、いない」
だから、と強く言い聞かせるように。
「偶然にも〈歪んだ真珠〉を手に入れるような場合になっても、間違っても使うような真似は絶対にしちゃ駄目だ」
すぐに私に連絡しろ、それだけ言うと、水柿はスーツの男性に向き直った。
「よし大丈夫だ。ヤス、頼んだ」
「……それで?」彼は肩の骨を鳴らす。「結局『鍵』は何にするんです?」
「大体予想ついてんだろ?」水柿――蛇は口許を斜めにした。「『バロック』だよ」
ヤス、がゆっくりとこちらを向いた。
「あ、そうだ」蛇が私に話しかける。「それで、プルス・ウルトラの話なんだけどさ」
思わず彼女の方を向いてしまった。
「もともとは"この先には何もない"って意味なんだけど」
そして、私の意識が彼女の話に向けられた一瞬。
ヤスの人差し指が私の額に突き付けられた。
「日比野さん?」
鈴を鳴らすような澄んだ声色が、私を微睡みから引きずり戻す。
「んえ?」
目を開けると、ブレザーを着た少女――小鳥遊がこちらを見下ろしていた。
「なに、してるんですか」小鳥遊が言う。「こんなところで寝たら風邪をひきますよ」
「え? あれ?」
私は商店街に設置されたベンチにもたれかかっていた。腰かけて休憩してる最中に眠ってしまったらしい。
そうだ。お菓子。明日のためのお菓子を買って、その帰りに。
――あれ?
「なんだっけ?」私は首を傾げる。
「どうしました?」
「いや、えっと……」
いくら私でも、ベンチで寝るなんてことがあるだろうか。
でも、そうだ。確かにベンチに座って――、あれ?
「なんか、忘れてるような」
「明日の準備ですか?」
「いやそれは完璧だ。今日旅のおともを買ったことにより、もはや一部の隙も無いと言っても過言ではない」
それはぬかりない。
でも、何か重大なことを忘れているような気がする。が――まあ、思い出せないということはさほど重要なことではないのだろう。
私は小鳥遊を見上げる。
「お見舞い、行ってきたのか」
「ええ」彼女は頷いた。
「司は」思わず視線を外す。「小鳥遊に打ち明けた、か?」
その質問に、彼女は少し時間を置いてから答えた。
「ええ。――話して、くれました」
私の視線は、彼女のローファーに向けられる。なんとなく、小鳥遊の顔を見るのが怖かった。
昨日あれだけ司に啖呵を切っておいてなさけない限りだが。
そうだ。情けない。
私がくよくよしてどうする?
一つ気合を入れると、私はベンチの隣を叩く。
「なあ小鳥遊、じゃがりこ食べないか?」
「え?」小鳥遊は目を丸くした。「いいんですか? それ、明日からのおやつでは?」
「心配はいらない。たくさん買ったからな」
そう言ってパンパンに膨らんだビニール袋を掲げる。みんなで食べる用のスナック菓子から、ガムやグミ。変わり種として胡椒煎餅、かりんとうなどまで取りそろえた、隙の無いラインナップである。普段ならカロリーが怖くて買えたものではないが、しかし、折角のお泊りなのだ。ちょっとくらい羽目を外したって、いいだろう。
私は小鳥遊の顔を見て、言う。
「それとも何か? 君は私の買ってきたじゃがりこが食べられないというのか?」
「……いただきます」
彼女は私の隣に、すとんと腰を下ろした。
私はじゃがりこをひとつ取り出し、べりりと蓋をはがすと、小鳥遊に差し出した。しゃかしゃかとスナックの跳ねる音がした。
「個人的にやっぱりサラダ味が無敵だと思っているんだが」
彼女は一本取り出し、咥える。固い菓子を砕く咀嚼音が、私の耳朶をうった。
「おいしい、です」
「だろう」
私も一本取り出し、口の中に放り込む。
程よい塩気とジャガイモのうまみが舌の上に広がった。
夕日がビルの谷間に落ちる。
しばらくの間、私たちはただ黙々と食べ続けていた。