プロローグ 『メリー・ゴー・ラウンド・ハイウェイ』
ぼんやりと眺めていた窓ガラスに、水の線が走る。
いったいなんだろうと思っていると、すぐにいくつもの線が描き足された。
「あら、雨が降り出してきたわね」
運転席でハンドルを握っている由希子さん――もとい、お母さんが言った。
「代わろうか」
「んー、あとちょっとでしょ? 帰りはお父さんに運転してもらうんだから、少しくらい大丈夫よ」
シニカルな笑みを浮かべ、助手席に座るお父さんの申し出を断る。
そうか、もう少しなのか。
わたしは高速道路のスピード感が好きだった。いつもとは違う速さで走る車に乗るのは、ちょっとどきどきする。
「あと何分ぐらい、ですか?」
わたしは問いかける。
敬語を使う必要はない、と言ってくれてはいるのだが、つい使ってしまう。司さ――お兄ちゃん相手にはタメ語で話せるようにはなったのだが、やっぱり年齢の開きがあると、どうしても距離感がでてきてしまう。
「次のインターチェンジだから、十五、六分ってところね。高速降りたらすぐだから」
バックミラー越しに微笑みかけてくるお母さん。
「司の分までたっぷり食べまくろうねー」
今日は、お兄ちゃんの誕生日である。
例年はそれほど盛大に祝うわけではないらしいのだが、ふとしたお母さんの気まぐれで、今年は高級レストランでディナーをすることになったのだ。
お兄ちゃんは「俺の誕生日を祝うっていうか……母さんがその店の料理ずっと食べたがってたから、俺の誕生日をダシにしてるって部分があるけどな」などと言っていたが、兎に角。
なんにせよ、そういうのは――家族の仲が良好なのは、とてもいいことだと思う。
だから、祝われる張本人であるお兄ちゃんが不参加を余儀なくされたのは、とても残念だ。
なんだかんだ言いつつも、お兄ちゃん自身楽しみにしていたのに。
だから、わたしはため息をついた。
「もう、恵理香は本当にお兄ちゃん思いね」
お母さんが嬉しそうに笑う。
「そう、ですか?」
「そうよ」ハンドルを左にきった。「だから、そうね、恵理香に免じて、司におみやでも買って言ってあげましょう」
それはいい考えだ。
何の気なしに視線を窓の外に移した私の目に飛び込んできたのは、スリップした対向車線のトラックが、わたしたちの乗る車へと突っ込んでくるところだった。
目を開ける。
視界がぐらつく。
頭が痛い。変なにおいがする。ぼうっとしている。
記憶を手繰る。
――こちらに向かうトラック。
事故?
変なにおいがする。目の前が赤い。
運転席が歪んでいた。
変なにおいがする。
ぐしゃぐしゃになってしまった。
平衡感覚がおかしい。後ろに傾いている?
目の前が赤い。
身体中が痛い。変なにおいがする。
運転席がぐしゃぐしゃになっている。
お母さんもぐしゃぐしゃになっている。
変なにおいがする。目の前が赤い。
頭がつぶれて、何かがはみ出している。
目の前が赤い。
助手席は、もっと酷い。
お父さんはいない。何かよくわからない赤いものがあるだけだった。
ちがう。
あれが、お父さんだったものだ。
■■が捻じれて、■■がつぶれて、眼球が■びだして転がって、よくわからない■■みたいなものがはみだしているけど、ほかにもたくさん、たくさん、つぶれて捻じれて曲がって砕けて弾けて割れて折れて切れてばらばらになってまざって窪んで歪んで変なにおいがして目の前が赤いけどあれはお父さんだ。
変なにおいがする。
目の前が赤い理由がわかった。
車が、垂直方向になっているのだ。
だから、運転席のお母さんの頭から流れてくる血とか、■■とかが、わたしの顔めがけて垂れてきている。
それが、目の前が赤い理由だ。
むせ返る。
窓の外を見る。
ヒビが入った窓ガラス。その外には、水。
水。
水?
なんで?
変なにおいがする。
少しずつ沈んでいく。
歪んだ前の座席から、水が少しずつ入ってくる。
なんで?
目の前が赤い。
出なきゃ、ここから。
左腕が痛い。
変な方向に曲がっている。
折れている?
■■が、顔にかかる。
シートベルトをはずそうとする。
外れない。
外れた?
外れない。
変なにおいがする。
動けない。
水が入ってくる。
このままじゃ溺れちゃう。
水が入ってくる。
動けない。
どうして?
助けて。
溺れちゃう。
死んじゃう?
なんで?
溺れちゃう。
水が入ってくる。
血が垂れる。
お父さんが、ぐしゃぐしゃ。
お母さんの、■■が、鼻に入る。
むせ返る。
動けない。
溺れる。
助けて。
溺れる。
助けて。
助けて。
変なにおいがする。
目の前が赤い。
助けて。
助けてよぉ。