二十五章 『終人』
俺は、スタンガンを片手に谷嶋原先生と向き合う。転んだままこちらを呆然と見上げる彼は、驚いているようだった。
「お、お前、なんで」
ぜいぜいという激しい呼吸の合間に投げかけられる彼の言葉を聞き流しつつ、俺は地面に転がったスタンロッドに目を向ける。おそらく、彼が次にとる行動は、それを回収しようとするに違いないと思ったからだ。スタンロッドの他にも幾つか凶器を持っているかもしれないが、刃物程度なら、刺さり所にさえ気をつければ俺のスタンガンの方が有効だ。
出会い頭の不意打ち。先制攻撃が外れたのは、俺にとっても予想外だった。
もっとも、予想外というのならば――犯人である谷嶋原が、こんなに早く"罠"にかかるのも、予想外ではあったが。
もちろん罠にかかってくれるに越したことはないのだが、まさか網を張った初日にひっかかるとは思っていなかったのだ。
俺はあの後、谷嶋原が犯人だと来夢ちゃんに説明した。そして、作戦を提案したのだ。犯人を捕らえるための、方法を。
来夢ちゃんが谷嶋原を誘い出し、俺がスタンガンで意識を奪う。
簡単に言えば、囮作戦。
来夢ちゃんが俺のいう事を信用してくれるか、谷嶋原が罠にかかってくれるか等、不確定要素が多すぎて、立てた時点ではおよそ策と呼べるほどの物ではなかったが、兎に角、今この時点では八割方、成功と言える。
本当はさっきの初手で彼を気絶させ、来夢ちゃんが襲われたと警察に通報すれば、それで終わったのだが――万事上手く事が運ぶほど、甘くはなかった訳だ。
「何で、判った」谷嶋原が、俺に問う。
「何をですか」俺は惚ける。
「巫山戯るなよ」
彼はこちらをぎりりと睨みつける。視線だけで俺を殺そうとしているかのようだ。それは間違っても、教え子に向けていい表情ではない。
よく考えれば、もうこの時点で彼の勝ちは、無い。来夢ちゃんを逃がしてしまった事で、通報されるのは間違いなく、そしてピンポイントで取り調べされれば、連続殺人についても捜査の手は及ぶ。
だから俺の策はほとんど成功したと言っても良い。
「俺が、殺人犯だって事にだよ」
「そうだったんですか?」
「糞が。よく言うぜ。わざわざこんな罠を張ってまで俺を確保しようとした癖に」
「嫌だなぁ。たまたまですよ、たまたま」
「猿芝居は止めろ。何処で気付いたんだ」
「言っても、理解できないと思いますよ」
彼は、その言葉に気分を害したようだ。
「舐められたモンだ」
別に先生を低く見たわけではない。彼が犯人だと気付いたのは、『時間を戻す前』の事だから、彼は身に覚えの無いところで墓穴を掘っていた事になる。だから理解は出来ないだろう。そういう意味での発言だったのだ。
「大人を、舐めるなよ、餓鬼が。もう俺は終わりだ。だから、時田、お前だけは、殺す。道連れにしてやる。――気付いた時点でさっさと警察に相談してれば死なずに済んだのにな。探偵ゴッコなんざやってるから、火傷するんだ」
言って、彼は構える。
だから証拠は無いし、今の時間では根拠も無い。だから態々こんな手の込んだ真似をしたのに。
まぁ、わざわざ口には出さないけど。
「ところで、時田」谷嶋原先生が、言葉を発した。「一つだけ訊かせろ。小鳥遊は――」
彼はそこで言葉を止めると、走り出した。
不意打ち。しかし、用心していれば、それ程効果は無い。彼の向かった方向が、予想通りスタンロッドへ向けてのものだったからだ。
少し遅れて俺も走り出す。この距離なら俺の方が先に到達できる。
そう思った矢先、谷嶋原が方向転換した。
俺の方に、向けて。
――何をする気だ?
懐に手を入れ、何かを振り抜く。ナイフ、だろうか。
俺は咄嗟に身を引いてそれを躱す。
十分、十二分に離れて、射程距離の外に出る。一撃を避けたら、すぐさま地面に落ちているスタンロッドを奪う――筈だった。
衝撃。
俺は、地面に倒れ込んだ。
何を――された――?
頭部への打撃が、俺の平衡感覚を、奪う。
強打したため、立っていることもできない。昨日襲われ、殴られた場所とは違っていたからよかったようなものの――。
それでも、強烈な一撃だったのだ。
へたり込んだ俺を尻目に、谷嶋原は悠然とスタンロッドを拾う。
俺の目は、奴の右手に釘付けになる。
どういう、事だ――。
先生の右手には、金属バットが、握られていた。
なるほど、さっきの距離はナイフの射程からは十分離れていたが、金属バットならば、余裕で仕留められる、距離だ。
いや、いや、いや。
納得しかけたが、それはおかしい。
奴は、バットを、懐から、出した。
そんなばかなことがあるか。
谷嶋原は学校の帰りなのだから、スーツ姿だ。スーツの内ポケットに、金属バットが入る訳が無い。
仕込んでいたとして、そんな長物を取り付けた洋服を着て、走り回れる訳が無い。
どういう、事だ。
脳内を疑問が走り抜けるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
「形勢逆転、だな」
谷嶋原が、顔面に笑みを貼り付けて、近づいてくる。
不味い。
咄嗟に立ち上がる。
奴の両手の武器の射程は、俺のスタンガンのそれを、遥かに凌駕する。
「どこから――」
「どこからバットを出したか、知りたいか」
俺の質問を遮って、奴が言う。
「教えないよ、少年漫画じゃないんだ。自分の事を饒舌に語るなんて、しない。冥土の土産に教えても、やらない」
考えろ。奴は両手に武器を持っているが、一流の武人でもない限り、二刀流はかえって弱くなる。
たとえば、剣道。
ルール上、剣道では二刀流が認められているが、滅多に二刀流の剣士は、いない。なぜなら、武器を両手で扱うというのは、それこそ滅多な才能でできるものではないからだ。
俺は後ずさり、距離を取る。
スタンロッドと金属バットの射程から離れて、相手から仕掛けてくるのを待つ事にした。
「まぁ一言だけ、教えてやるなら――――」
そう思った途端、奴は金属バットを"手放した"。
まさか、意図が読まれた――?
しかし、それだけならまだしも、谷嶋原は、スタンロッドも、"手放した"。
二つの凶器が、音を立てて地面に落ちる。
再び、理解不能。
徒手空拳に、自信があるのか――。
だが、そうでは無かった。
奴は、もう一度スーツの内側に手を入れると、
「≪物品収集≫。それが俺の授かった、〈バロック〉だ」
そこから、『銃』を、取り出した。
銃。
テレビや映画。そういった場面でしか見た事の無い、兇器。
あまりの現実味のなさに――思考が、止まる。
乾いた、音。
巨大な、見えない拳で殴られたような衝撃が、右肩に走る。
俺は跳ね飛ばされて、路面に転がった。
あまりの衝撃に、うめき声ひとつあげることすらできなかった。
「――スナイパートライアングルって、知っているか」
そんな事を呟きながら、谷嶋原が撃鉄を上げる。
――馬鹿か、俺は。
最初の殺人が『銃殺』だった時点で、こいつが銃を持っているのは予想できた――いや、そんな曖昧な状態じゃない。俺は、予測していた。
だからこそ俺は初手でスタンガンの不意打ちをしたのだ。銃を、使わせない為に(無論相手が銃を持ってなくとも、不意打ちが戦闘において最強の戦略なのは言うまでもないが)。
にも関わらず、俺は"距離を取って"しまった。スタンロッドや金属バットに気を取られ、最大にして最凶の武器を、使わせてしまった。
今なら解かる。
奴がスタンロッドを取りに走ったのも、金属バットでこちらを牽制したのも、この展開に持っていくための――ブラフだった。銃を取り出す際に、また、それを構える際に、標的が近過ぎると、奪われてしまう危険性があるから。だから長物をちらつかせて、俺に距離を取らせるよう誘導した。
頭が回らない。
俺には喧嘩の、戦闘の経験が、圧倒的に足りな過ぎた。
だがもう遅い。
銃を使わせてしまったのは最悪の失策。言い訳しようのない悪手だ。
「スナイパートライアングル――――狙撃手がヘッドショットが難しい時に狙う、第二の急所なんだけどな。首の付け根から、両胸を結んだ三角形の事を言うんだ」
ゆっくりと、奴が近づく。
弾丸を外さない、けれど俺が銃を奪いに飛び掛るには遠い、絶妙な距離まで。
「そこには肺やら、肺動脈、心臓は勿論、大事な臓器や神経、血管が沢山、ある。運動を司る神経系の小脳や脳幹とは違い、撃たれて即死って訳じゃあないが、まず死ぬ」
……終わった。
けれど、まぁ、いいか。こいつは確実に捕まる。
夏休みの宿題の計画さえ碌に実行できなかった俺にしては、今回の策のこの結果は上等と言えるだろう。
これで、日比野を、守れたの、かな。
「で、ここからが重要なんだが、スナイパートライアングルの恐ろしい所はな、即死じゃないにも関わらず、『反撃出来ない』んだ」
右肩が、熱い。
「普通心臓を撃たれようが、人間はしぶといから、十秒弱は活動できる。その間に反撃を受けて死んでいった兵士はそれこそ掃いて捨てるほど、いる。イタチの最後っ屁みたいなもんだな」
……走馬灯、は流れないのか。
「ヘッドショットにしたって、キチンと運動を司る小脳や脳幹をぶち抜かないと、反撃をされる恐れはほんの僅かだが、ある。にも関わらず、スナイパートライアングルは、反撃を許さないんだ――『痛み』でな」
動けない。
撃たれた部分は右肩だけだが、動けなかった。
この感覚は、以前にも味わった事が、ある。
「胸骨にヒットさせる事により、砕けた骨と弾丸が肋骨の中で跳ね返り、肺や肝臓に、脾臓。その他諸々の臓器を傷つける」
そうだ。ノナさんと出会った時、引ったくり犯に相対した、あの時だ。
あの時は惣菜屋の親父さんが助けてくれたが、今回は無理だ。
――だったら、行動を起こすしかない。確率は低くても、座して死を待つ訳には、行かない。
「その時の痛みが、想像を絶するみたいでな」
やるしかない。
俺は奴の科白が終わる前に立ち上がろうとする。
銃声。
再び地面に倒れ付した。
今度は左の太腿、だ。
「人の話は最後まで聴けよ、時田。まだ慌てるような時間じゃないだろ」
肩の方の出血が、酷くなってきた。
脳内麻薬の影響か、痛みはあまり感じないが、意識が薄れていく気がする。
「まぁ、兎に角、この世に二つと無い苦しみらしいんだ。絶命までの時間は内臓の損傷具合によりまちまちで、数分か、数秒か、それはわからないが――」
奴が、銃を構える。まずい。このままじゃ――、
「――苦しんで、死ね」
絞られる、引き金。
起こされた撃鉄が、弾丸の底を叩き――、
かしゃん、と。
間の抜けた音が、路地裏に響いた。
「は――?」
谷嶋原の貌が、歪む。
不意に訪れた静寂。
弾丸切れ――?
そんな、そんなことって。
俺は、目を見開く。
弾は、発射されていない。これは、そう考えるしか――。
そこで、おかしなことに気が付く。
谷嶋原の、手。
握られた拳銃。
そこに、――なにか、ナイフのようなものが突き刺さっていた。
なん、で――?
さっきまで、そんなものはなかったはずなのに。
次の瞬間。
谷嶋原の体が、はじかれたように横に吹き飛ばされた。
「がっ――」
突然の事態。驚愕に目が見開かれる。
逆光になったシルエット。
制服。たなびく長髪。――来夢、ちゃん?
壁に叩きつけられた谷嶋原は、咄嗟に銃口を彼女に向ける。しかし、その時にはもうすでに彼女は先生に肉薄していて――、
いつの間にか手にしていた、ナイフで――谷嶋原の胴体を袈裟切りにした――。
一瞬。
あっという間の出来事。先生は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ら――」
顔を、彼女のほうに向ける。来夢ちゃんは、俺の目の前にかがんでいた。
「寝たら駄目です」
そう言って、懐から携帯電話を取り出し、通報し始める。
路地裏は暗くて、彼女がどんな表情をしているのかわからなかった。
俺の意識は、そこで途切れた。