二十三章 『失踪HOLIDAY』
◆
晩御飯のメンチカツを口へ運ぼうとしているときに、母さんがとんでもないことを言い出した。
「……今、なんて言った?」
そのあまりにも信じられない内容に思わず問い返したのだが、言った本人は、何て事のないように平然としている。
「あら、聞こえなかったの?」
「――新しい、家族とか何とか」
聞き間違いであってくれ。そう思っての俺の言葉だったのだが、あっけなく否定される。
「そ。新しい家族が出来ます」
……えっと、どういうことだろう。つまり、その――、
「やっだー、司くん、なに想像しちゃってんのー。お母さんにそんな体力ないわよー」
母さんは身体をくねくねと動かす。ええい、アラフォーがやっていい仕草ではないぞ。その隣で、平然と父さんは飯食ってるし。
「じゃあ、犬でも飼うの?」
「残念。れっきとした人間よ、しかも女の子。司の二つ下だから、妹ってことになるわね」
小学生、か。
そのくらいの人が、急に家族になるってことは、まさか。
「つまり、……養子ってヤツ?」
「そう! 察しが早くて助かるわー、さすが"時田家のホームズ"と呼ばれるだけのことはあるわね!」
「今はじめて呼ばれました」
そんな二つ名。
でも、養子――とは。
「大丈夫なの?」
「ん? 何が?」
「いや、だからさ、詳しくは知らないけど、養子縁組なんて簡単にできるモンじゃないだろ?」
そうだ。以前観たドキュメンタリ番組で、養子をテーマとしているものがあったが――養子を受け入れる側にもいろいろと、条件があったような気がする。
「それはそうね」母さんは頷く。「だから、正式に養子にできるかどうかは、これからおいおい調べていくわ。まあ出来ればそうしたいところだけど。でもとりあえず、引き取るだけは引き取ります」
母さんのその言い回しに、少し引っかかる。
「どういうことだよ」
「あのね、その子――恵理香ちゃんっていうんだけど――ウチの親戚なのよ。でも、彼女を育ててた二人が事故で亡くなってね」
成る程、身内に不幸があったのか。それでとりあえず、我が家で預かることにした、と。母さんの口ぶりだと、"とりあえず"なんてことではなく、本当の家族にするみたいだが、兎に角。
「ふうん。でも親戚ってことは、俺、会った事あったりする?」
「それは無いと思うわ」母さんは首を横に振る。「親戚っていっても、かなりの遠縁だから」
「そうなんだ」
「詳しいことはあとで話すわ――とりあえず、明後日から家に来るから、二階の西の部屋――片付けなさい」
「すっげー急じゃんっ」俺は悲鳴を上げる。「あの"魔窟"を? 明後日までに? 俺ひとりで?」
「もちろんお父さんも手伝うわよ、ね」
有無を言わせぬ断定口調。しかし、長い夫婦生活でなれたものなのだろう、父さんは大して動揺したようすも見せずに、頷いた。
もっとも、父さんがこの話を事前に知らなかったとは考えられないけれど。
「司」
と、普段無口な父さんが、珍しく言葉を発した。
「何?」
「仲良く、やれよ」
「うん――わかっているよ」
◆
目を開けると、天井が見えた。
……しかし、どうやら自分の知っているものではない。ここは、どこだろうか。
酷く喉が渇いているのを感じる。喉の奥が、焼けるように痛い。
身体を起こす。どうやら、ベッドで寝ていたようだ。
あたりを見回す。よく分からない機材のついたパイプベッド。そして、そのベッドを区切るように設置されたカーテン。小さめのテレビ。
「病――院?」
そうか、うん。多分ここは病院の、それも病室のようである。
なんでだろう。
よく、思い出せない。どうして俺は病院のベッドで寝ているんだ?
自分の姿を確認する。病院の服を着ているため、おそらく入院をしているのだと思われるが――なんで?
記憶を辿ろうとしたとき、カーテンがゆっくりと開けられた。
「司――起きたのか」
日比野だった。学校の制服を着ている。俺の顔を見て、彼女は安心したような表情を浮かべた。
「えっと、日比野。ここ、病院だよね?」
確認のために質問をすると、彼女は頷く。
「そうだ」そして、眉を顰める。「覚えて、ないのか?」
「覚えていないって……え? 何を?」
純粋な疑問であったのが、なぜか日比野は心配そうな視線を送ってくる。
「……昨日、小鳥遊と<アナト>で会ったらしいな」
「ああ、うん」
「その後、彼女を家まで送ったことは――覚えているか?」
そうだ。そう、そのはずだ。彼女に氷枕を借りて――、それでどうしたんだ。
「その、帰り道。司は襲われたらしい」
「襲われた……って、誰に?」
日比野は首を横に振る。
「それはわからない。司は、犯人の顔を見なかったのか?」
「いや、見ていない、と、……思う。多分」
襲われたことすら知らないのだ。犯人の顔を見ているはずは――無い、はずだ。
「そうか――」
日比野は溜め息を吐いた。その仕草が、ちょっと気にかかった。
「何か?」
「いや、医者の話ではな、司はこう」言いながら日比野は、剣道の面を打つような仕草をする。「正面から頭をぶん殴られた、らしい」
……まじか。
「だから、おそらく犯人を見たんじゃないかと思ったんだが――きっと、頭を打たれたショックで忘れたんだな」
「えっ」
「だって、襲われたこと自体、覚えていなかったんだろう?」
動揺する。
――忘れるもの、なのか? 記憶っていうのは。そんな簡単に。頭を打ったぐらいで。
でも、そうとしか考えられないのだ。何せ、俺は覚えていない。来夢ちゃんの家を出て、そして――帰り道。そこであった出来事を。
手を、頭にやる。包帯が巻かれていた。さきほどまで全然気づかなかったのに、意識しだした瞬間、急に頭が痛くなり始めた気がする。
そこで、左手にもなにか治療がしてあることに気づいた。
「なあ日比野、これは?」
彼女は俺の左手にちらりと目をやる。
「それは、多分、襲撃者の攻撃を反射的に防御しようとしたらしい。って言ってた」
「そう、か」
「骨にヒビが入ってるらしい」
「げ」
「でもまあ、そのおかげで頭の方のダメージが、いくらか軽減されたのかも、な」
それもそうか。
……だけど、自分の記憶に穴がある――体験したはずのことを覚えていないというのは、なんというか、こう……妙な気分になるな。不思議というか。こうして話を聞いていても、どこか人事にしか思えない。頭と、手の怪我がなければ、悪い冗談だと思ったかもしれない。
いや、そんな壮大なドッキリをやる必要などどこにもないが。
「ほら」
日比野が、何かを差し出す。ペットボトルの、スポーツ飲料だった。
「喉、渇いてないか?」
渇いている、とてつもなく。だから正直、とても嬉しい。
俺は「ありがとう」と礼を言うと、彼女からボトルを受け取る。そして息をつく暇も無く、一気に飲み干した。
「ああ、生き帰る」
「そうか」
「俺がポカリ派だということを覚えていてくれて、嬉しいよ」
「私はアクエリアスの方が好きなんだがな……ポカリは少し甘すぎないか?」
「それが良いんじゃないか」俺は力説する。「時々、許せないことがあるのが、おばちゃんとかがスポーツ飲料全体をさして"ポカリ"という名称を使うことだな。まったく。あれのおかげで運動会とか町内会で、"あとでポカリ配るからねー"とか言われて期待していたらアクエリアスだったことが何度かある。あれはかなりがっかりする。善意で配っていただいているのだから文句は言えないが、それでもとてもがっかりするんだ。そのたびに俺は、煮え湯を飲まされる気分になるよ」
「飲まされたのは、アクエリアスだがな」
「日比野さん、どや顔やめてください」
冗談を言い合い、笑う。日比野も、くつくつと楽しそうに声を漏らした。
ああ。久しぶりだな、こういうの。
「そうだ。峰子さんは?」
「たしか……何か警察に傷害事件の被害届? を申請するとかなんとかで、今はちょっといないな」
「そっか」
峰子さんには、迷惑をかけっぱなしだな。と反省する。心配もさせてしまっただろうし、治療費だって安くはないだろう。
「そうすると、恵理香はどうしてる?」
あまり彼女を一人にしておくわけにもいかない。
「今はトイレに行っている。そのうち帰ってくると思うが」
「そっか」
ひとつ、深呼吸をする。しかしこの状況、どういうことだろう。
俺は襲われたらしい。そう、来夢ちゃんの家からの帰宅の際に、何者かに。
このタイミング――連続殺人の犯人と結びつけてしまうのは、早計だろうか。でも、無関係とも言い切れない……かもしれない。
どちらにしても、自分の記憶に空白があるというのは、かなり気持ちが悪い。
ロードを、するべきかもしれない。
事件に関係があろうとなかろうと、襲撃犯の顔を覚えていないというのは、とてつもないマイナスだろう。
四月十六日のセーブデータからやり直せば、今度は対策が打てる。襲撃犯を返り討ちに――するのは無理だとしても、顔を見て逃走ぐらいはできるかもしれない。
本当に?
今回は、たまたま運よく助かっただけだとしたら?
やめておいたほうがいいのでは?
何か、予期せぬはずみで――今度は死ぬかもしれないぞ?
俺はぐるぐると考えながら、そっと胸ポケットに手を伸ばし――、
――ない。
ない。ない、ない。
セーブしておいた、四月十六日のセーブデータが、なくなっている。
どうして?
まさか、襲撃犯に奪われた?
いや、それは考えにくい。あれは、【ぼうけんのしょ】を知らない人間が見ても、なにがなんだかまるで分らない代物だ。そんなものを盗って、何になるというのだろう。
だとすると、その襲撃のごたごたに巻き込まれて、落とした――のか。
さっと、顔から血の気がひくのを感じる。
まずい。どうする。
いや、落ち着け。大丈夫だ。ここでロードできなくなったのは痛いが、致命的な失敗ではない。少なくとも、今はまだ。
だとしたら、すぐに今の状態をセーブしておきたい。できるだけ早く。
「日比野、俺の財布知ってるか?」
「ん? ほら」
そういって日比野は俺の横を指さす。ベッドの横に置かれた椅子に、俺のカバンやら時計やらが置かれていた。その一番上に、財布を見つける。
俺は【ぼうけんのしょ】のページが入っているそれに手を伸ばしかけ――ふと、腕時計に目を留める。
現在時刻――午後、一時。
……すこし、早くないか?
日比野のほうを見る。
「なあ、学校どうしたんだ?」
そう。彼女はいつもの制服姿だった。もちろんスカートの下にジャージをはいた埴輪スタイルだが、兎に角。
それで、俺はてっきり、放課後に見舞いに来てくれたのかと思ったのだが、それにしては時間帯が少し早すぎる。
ひょっとして、早退して――?
一瞬そう思ったが、日比野の口からでた答えは、別のものだった。
「ああ、今日、少し学校が遅れたんだ。それで、早く終わってな」
すっ、と。
自分の体温が下がるのを、感じた。
「な、」声がかすれる。「なんで――?」
そこで、日比野の眉が少ししかめられる。
彼女はすぐに返答をしてくれたのだが、その声が脳で処理され、意味を理解するまでに少し時間がかかった。
だって、そんな。まさか――。
「昨日、殺人事件があったの、覚えてるだろう?」
日比野の唇が、動く。
その動きを止めたくて。なぜなら、それは、俺が一番恐れていた事態で――。
「今日、新しい被害者が出た、みたいだ。それも――」
やめろ。言わないでくれ。
「――それも、ウチの学校の生徒だ」