二十二章 『インシテミル』
来夢ちゃんの住むアパート、<ハイヌウェレ>に着いたのは、七時半を少し回ったころだった。
途中での一悶着がなければ、<アナト>から歩いて二十分ほどの距離だろう。
「意外と、近いんだな」思わず呟く。
「そうでしょうか」
来夢ちゃんが尋ねる。いや、確かに<アナト>からは少し離れてはいるが。
「えっと、その……俺の家、ここから五分ぐらいだから」
「ああ、そうなんですか」彼女は得心がいったように頷く。「しかしそのわりには、朝、お見かけしませんが」
言われてみれば、不自然だ。確かにここは俺の通学路から少しずれているが、同じ駅を利用している以上、登下校の際にばったり出くわしていても不思議ではないのに。
「まあ、私は割合、朝早く登校しますから、電車が数本ずれているのかもしれませんが」
「成る程」
だとしたら納得できる。
「そうだとしても、帰りは? 来夢ちゃん、何か部活とかしてたっけ」
「……っ! い、いえ」彼女は吃驚した反応を見せた後――首を横に振る。
「俺も帰宅部だけど」
帰り道、下校中にも彼女と鉢合った記憶はない。もっとも、一年生のときは来夢ちゃんとクラスが違っていたのだから、目に入っていても記憶には残っていないかっただけかもしれないけれど。
「でも、帰りは道場に通ってますから」
「道場?」思わず眉を寄せる。
「ええ」彼女はこちらを振り向く。「さっき言いましたよね。古武術、習ってるんです」
いや、さっきは"護身術"だと聞いたのだが……まあ、似たようなもの、なのか?
「その道場、こちらとは反対方向にあるんですよ」
「ふうん」
……しかし、"古武術"、ねぇ。
「なんか、古武術っていうと、こう、刀とか使うイメージなんだけど」
「勿論、剣術もありますが、先ほどの技のような無刀法――いわゆる体術もやっています」
「無刀、法」
「私が重点的に教わっているのはそちらですね。正式に門下生として教えてもらうのならば、当然剣術もやらなければいけないのですが――」
彼女はひとつ、溜め息を吐く。
「まあ、色々あったんです」
そう、なのだろう。……なんとなく、それ以上訊くのは憚られた。
「――――ッ」
ずきり、と。後頭部が痛む。さきほどの、コンクリートにぶつけたのが瘤になっているのだ。
「どうか、されました?」
来夢ちゃんが心配そうにこちらをのぞきこんでくる。
「いや、なんでもないよ。それじゃ、また明日」
俺は強がって、微笑む。そしてきびすを返し――、
「部屋に、氷枕が、ありますけど」見抜かれた。「それに、送っていただいたのですから、お茶ぐらいならお出ししますが。家、近いのでしょう?」
正直に言うと、結構痛い。一歩踏み出すごとに、その振動が響いて痛みになるくらいだ。
「……ごめん、じゃあ氷枕――貸して貰えるかな」
俺はお言葉に甘える事にした。我が家には氷枕なんて素敵アイテムは存在しない。
と、いうか、今時氷枕って随分アナクロな気がする。熱が出ても冷えピタに頼ればいいので、あまり必要な機会は無いのではないだろうか。もっとも、今現在必要になっているの俺が、とやかく言えた義理ではないのだが。
<ハイヌウェレ>という反応に困るような奇抜な名前がついている割には、そのアパートの外見は、ありふれた物だった。クリーム色を基調とした落ち着いた色合いは、好感が持てる。
あれ、ちょっと待てよ。
「あのさ、もしかして来夢ちゃんって、一人暮らしなの?」
「……っ!」
彼女の肩がびくりと震えた。なんだろう、へんなことを訊いちゃったのかな。しかし、彼女はこちらに向き直ると、頷いた。
「……ええ、そうです」
肯定。
そうか。一人暮らしなのか。
いや、アパートを見たときから、気づいてしかるべきだったのだろうが――なぜか今の今まで全然頭に無かった。
一人暮らしの、女子の部屋にお邪魔する。……なんだろう。さっきまでまるで気づいていなかったのに、いったんそう思ってしまうと、すごくやましいことをしようとしている気分になる。
落ち着け。なにも後ろめたい所など無い。ただ、氷枕を借りるだけだ。――堂々とするんだ時田司。胸を張れ。
などと、一人で勝手に悶々としていると、いつのまにか部屋に到着していた。
三○二号室。『小鳥遊 藤吾』。
「藤吾――?」表札を見て、思わず疑問の声をあげてしまった。
「……父の、名前を使っているんです」来夢ちゃんは答える。「一人暮らしだと、色々と物騒なので」
彼女はポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
細く、短めの廊下。トイレとお風呂場の扉らしきもの。備え付けられた小さめのキッチン。それらを不躾にならない程度に見回しながら、靴を脱ぐ。
来夢ちゃんは慣れた足取りで、居間の方へと向かって行く。
ぱちり。と、部屋のあかりが点けられ、その全貌が明らかになった。
八畳ほどのスペース。フローリングの床には、茶色のカーペットが敷かれている。明るい色のカーテン。部屋の中央に丸型のテーブルとソファが――窓際にベットが置かれていて、全体的に整理整頓の行き届いている印象を受ける。読書が好きなのかもしれない。壁一面に置かれた本棚と、そこにきっちりと並べられた本に圧倒される。
「ソファに、座っていてください」
その指示に従う。彼女はキッチンの方に行ってしまった。おそらく、氷枕の準備をしてくれるのだろう。
……その隙に、などというのはおかしな言い回しだが、もう少し部屋を詳しく見てみる。
カーテン以外の家具は、ベージュや茶色、黒など割合シックにまとまっている感じがする。どことなく物が少ないような印象を受けるのは、綺麗に片付けられているから――だろうか。
しかし、なんだろう。彼女の部屋に居て――何か違和感がする。
その原因を考えてみて、すぐに思い当たる。
そうか、この部屋、テレビが無いのか。
丸テーブルと、傍らに置かれたソファ。そこに腰掛けたときの視線の先にテレビは無く、本棚が視界を占めている。中身は、文庫本やハードカバーで埋まっていた。
本を眺めていると、来夢ちゃんが台所から戻ってきた。
「氷枕です」
「あ、ありがとう」
「少し、頭を見せてもらえませんか」
そう言うと、俺の隣に腰掛ける。
俺は首を横に向け、後頭部を彼女へと向ける。うん、アレですよ。平静を装ってますけど、内心ドギマギしっぱなしですよ、ええ。距離が近いです。何かもう錯覚かもしれないけど、甘い香りが漂ってきてますし。なんで女の子って、いい匂いがするんだろう。
「瘤が出来てますね」
彼女は指で俺の髪を分け、患部を確認すると、そこに氷枕を押し当てる。冷たい。
じわじわと、心地いい冷たさが、広がる。
「――っ、と」
いかん。うつらうつらしていた。と、いうか多分一瞬だけど意識が飛んでいた。
……気を張っていて疲れたのだろうか。
よくよく考えてみれば、≪ロード≫を実行したから、俺の主観時間ではもう二十時間程度起きっぱなしだった。
記憶以外の時が戻っているのだから、疲れもリセットされる筈なのだが、精神的にはそうもいかない。
色々と、起こりすぎたのだ、『今日』は。
しかし、いくら座り心地が凄まじいソファだとはいえ、あまり遅くなってはいけない。峰子さんは今日は仕事が休みだからいいものの、家事当番は俺なのだ。少し遅くはなるとメールしたものの、二人ともきっと、もうお腹を減らしているだろう。
「えっと、ありがとう」そろそろお暇させていただくことにする。「それじゃあ、氷枕――貸してもらえるかな」
「ああ、はい」彼女は頷く。「お引き留めしてしまって、申し訳ありませんでした」
――しかし、本当に彼女は他人行儀というかなんというか。敬語って確かに丁寧な言葉遣いではあるけれど、距離感を覚えるもんなぁ。
「いや、助かったよ。結構思いっきりぶつけてて、痛かったから」
言いながら、玄関へ向かう。
「あの――時田、くん」
靴を履いていると、来夢ちゃんが声をかけてきた。
「ん? 何?」
訊き返す。しかし、彼女は何かを言いかける素振りをし――それを思いとどまる様子を見せた。
「いえ、ごめんなさい。なんでもありません」
「そう」
ちょっと気になったけど、深くは尋ねないことにした。
「じゃあ、また明日」
「ええ。また明日」
片手にビニル袋をぶら下げ、逆の手で凍り枕を頭に押し当てつつ、帰路を急ぐ。
すっかり日も落ちてしまった。早く帰らなければ。
しかし――俺は急ぎつつも、安堵している自分に気がつく。
来夢ちゃんを家まで送り届けることができた。多分、これで彼女を救うことができた、はずだ。
昔見た映画がある。
ある科学者が殺されてしまった恋人を――今日の俺のように過去へと戻ることで、救おうとしていた。
その男はタイムマシンを開発することで、彼女が死んでしまう日に戻り、その死を回避しようと奮闘するのだ。
でも、成功しない。
誰かに刺されて死ぬはずだった女性。男の尽力により、その凶刃からは逃れることができたのだが――確か、まったく別の――馬車による事故か何かで、彼女は再び命を落とす。
何度戻って過去をやり直そうとしても、決して恋人は救えないのだ。
結局科学者はその不合理な状況を覆そうと、未来へとタイムトラベルすることで彼の冒険が始まるのだが。
小さい頃見たその映画の冒頭部分は、子供心に深い印象を残していたらしい。今日、来夢ちゃんと過ごしていているとき――ふとした瞬間にその映画が脳裏をよぎっていたのだ。
――過去を変えられないのなら、そのような《時間逆行》にどのような意味があるのですか。
映画は――所詮フィクション。それはわかっている。
でも、やっぱり。
お化けなどいないと信じている人間でも、夜の闇に超常的な恐れを抱くことがあるように、心のどこかで不安があったことはいなめないのだ。
だから、来夢ちゃんを無事に助けることができて、俺はほっとしていた。
それが、"隙"を生んだのだろうか。
衝撃。
視界がゆれる。
激痛。
もつれる足元。
――なんだ、一体、これは。
頭が、突然の状況に対してパニックになって、いて。
ぐらぐらと安定感の無い視界。夜の闇により、かなりの制限を受けつつも、俺は、"そいつ"、を、視ることができた。
つまり。
俺は――誰かに、襲われている?
来夢ちゃんを助けることに心を傾けすぎて――まさか、自分が狙われるとは、思っていな、かった。
"そいつ"が、バール、のような、ものを振り上げるのを、見て取る。
やばい、避けなければ、早く。
でも、体が動かない。原因は、わからない、が、猛烈な、吐き気がこみ上げてくる。頭を、強く、ぶつけたから、か?
自分の手足、じゃ、ないみたいだ。
"そいつ"が、凶器を振り下ろす瞬間、顔が、見える――
お まえ 、は